第十七話 奪う者、奪われる者
「リーディア嬢を、『聖女』に召し上げるつもりらしいな」
ウィシュテンバーグ国王、アドルフ・ジェハークは静かにそう言って、アメジストの瞳を目の前に座る男へと向けた。
彼はサファイアブルーの瞳をアドルフへと向けると、ニコリと少年のような笑みを浮かべた。
その笑顔を見る度にアドルフは嫌悪感を抱き、眉を寄せる。
「一体いつからダヴィットまで手の内に入れていた?」
「ダヴィット? ああ、ベニーシェク公爵ですか」
リヒャルトはそう言うと、胸に下げた銀色の十字架を撫でつけて、口づけをした。束ねた長い銀髪が燭台の光を浴びて艶やかな輝きを放ち、影を落とす程に長い睫毛が瞬きをする度にふわりと揺れる。
アドルフよりも五歳程年下である彼は、枢機卿という肩書を持ちながらも、人を容易に陥れる程の美貌を持ち合わせていた。
「さて、公爵が簡単に私の手の内に納まるような小者であると、思ってなどおりませんが」
そう言ったリヒャルトの右手の薬指に嵌めた金色の指輪を、アドルフは忌々し気に見つめた。
リヒャルトの瞳の色とよく似た、大粒のサファイアが輝く指輪。
潔癖の気があるリヒャルトは、その職務や教会への忠誠を表す挨拶としての指輪礼をさせる事が、殆ど無かった。恐らく彼のその指輪に口づけした者は、国王ただ一人だけだろう。
王は教会の——いや、兄は自分の所有物なのだと、大勢の貴族たちへ知らしめたのだ。
「あの娘は王太子妃となるべく教育を受けているのだぞ。厄介な事をしてくれた」
「何を仰ることやら。私はお見通しですよ、陛下」
穏やかな声色で有無を言わさぬ様に言い放つのは、リヒャルトの特技だと言えるだろう。
アドルフは不愉快を露わに、瞳を細めた。
「ほう? 『お見通し』とは何の事だ? 其方は主の代弁者であるとはいえ、主そのものでは無いはずだが?」
リヒャルトは銀杯を傾けて、真っ赤な血の様なワインを一口飲むと、唇を横に引いた。
「リーディア嬢を、第二王子ミハルの婚約者へとお望みだったのではございませんか?」
アドルフは僅かに瞳をヒク付かせた。
「……それでか。世俗的な狩猟大会に其方が現れたのは。それ程にあの娘に興味がある、と?」
「それだけでは」
クスリとリヒャルトは小さく笑って言葉を続けた
「陛下は王太子を亡き者にしようとお考えだったのでは? 王室主催狩猟大会で、大勢の勢子が獲物を追いやっていたというのに、警戒心の強い熊が王太子と偶然出くわしたとは思えません」
アドルフが押し黙った。
「しかし、お蔭で面白い玩具を手に入れられそうですので、感謝致しますよ。まさか王太子があの娘を庇おうとするとは。余程大事な様ですね。そして、第二王子までもが想いを寄せているように見受けられました」
眉を寄せたアドルフを無視し、リヒャルトはくっとワインを飲み干した。
「ご心配には及びませんよ、陛下。所詮は一時の玩具に過ぎません。役目を終えたのなら、あるべき場所へ還るでしょう。その後はお好きにされたら宜しいかと」
「……其方は直ぐに『飽きる』であろう。だが、その頃には壊れているのではないのか?」
リヒャルトは上品に笑った。
「それは致し方ありません。脆いもの程、美しいものです故」
「ミハルには構うな」
「さて? 今は未だ玩具としても不足していますが、私は恐れ多くも主の代弁者という立場であり、主そのものではございませんので、なんとも」
アドルフは深いため息を吐くと、「もう止めよ……」と言って片手で顔を覆った。
「其方はどれほど余から奪えば気が済むのだ。指輪礼を以て復讐は終わっているはずではないのか?」
リヒャルトはすぅっと表情を変え、背筋が凍りつくような冷たい眼差しをアドルフに向けた。
「何を仰るのです? 最初に私から奪ったのは陛下ではございませんか。これは復讐ではなく、陛下の贖罪でございましょう。抗い、無駄に繰り返そうとなさるのは、まだまだ改心されるおつもりが無いという証拠では?」
「……余をあまり侮るなよ?」
「感謝していますよ。私にビレッタをお授けくださった兄上には」
アドルフは忌々し気にリヒャルトが被る緋色のビレッタを睨みつけた。
するりと衣擦れの音を響かせてリヒャルトは立ち上がると、甘く鼻にまとわりつく様なミルラの香りを漂わせ、ニコリと笑むだけで立ち去った。
長身の背筋を伸ばし、長い銀髪を揺らしながら、リヒャルトは静かに王城の廊下を歩いた。
前方から歩いてくる一人の青年に目を留めた。
彼は静かに、だが迸る怒りを露わにしつつ、リヒャルトと同じサファイアブルーの瞳を向けた。
その燃え盛る憎しみが冷たい炎となって静かに揺らめく視線に、リヒャルトは心の奥底でひっそりと恍惚を感じた。
アレシュは静寂を保ちながら、三十六歳という若い叔父の様子を観察した。
王弟にして枢機卿であるその男は、緋色のケープを羽織り、長身にぴったりと合わせた漆黒のカソックを身に纏っている。
体格も容姿も優れており、長い睫毛の奥から向けられる自分と同じ色の瞳を、いつも目障りに思っていた。
——今日は、普段以上に目障りだ。
むせ返る程のミルラの香りに込み上げる吐き気を押し殺し、早足のまますれ違い際に僅かに視線を下げて、通り過ぎた。
背後で僅かに失笑する声が漏れ聞こえ、アレシュの口の中で歯をきりきりと噛みしめた。
◇◇◇◇
公爵邸の自室で、リーディアは膝を抱えてベッドの上に蹲っていた。アレシュのハンカチを縋るように握りしめ、何度も噛みしめた唇には血が滲んでいた。
袖机の上に置かれた厚手の羊皮紙からは、甘い香木の様なミルラの香りが立ち上る。
父から叩かれた頬がヒリヒリと痛む。
だが、それよりも胸の奥には激痛が走っていた————。
『……お父様、それは拒否できないのですか?』
床に座ったままのリーディアに、『世迷言を言わないでください』とダヴィットはピシャリと言い放った。
『リーディア、これは大変栄誉あることなのです。狩猟大会での貴方の活躍を教会が“国の静謐を守る聖女”であると正式に認定したのです。拒絶すれば異端者とみなされることは必至ですよ』
リーディアは涙を零し、首を左右に振った。
『ですが……。ですが、お父様!! わたくしは王太子殿下の婚約者なのです。この身は、アレシュ様のものですわ!!』
ダヴィットが無表情のままため息を吐いた。
『リーディア、もしや狩猟大会で穢れていたとでも言うつもりなのですか? 断れば、つまりはそういうことになるのですよ』
『え……?』
すぅっと青ざめたと同時に、アレシュが怒鳴りつける様に言葉を放った。
『公爵、貴様! 僕を侮辱する気か!!』
『今この場で剣を抜く事は許されることではございませんよ、殿下』
アレシュが剣の柄に手を触れる前に、公爵が僅かに強い声色でそう言い切った。
『私は枢機卿猊下の使いとしてここにいるのです。先に申し上げた通り、王室の法よりも優先されるべき事柄にございます』
ため息をつき、アレシュは自分を落ち着かせた。
『……わかった。では彼女と話す時間をくれ』
『いいえ。リーディアは“聖女”となるのです。婚約者であるとはいえ、教会の許可無しに異性との同室を私の独断で赦すわけには参りません』
『ミハルも同席させる。それでもか?』
『いいえ』
リーディアは縋る様に父を見上げた。
『お願いです、お父様! 聖女になどなりたくはありません。わたくしは、今まで一度だってお父様にお願いした事などございませんわ! だから、情けとお思いになって……』
パン!! と、耳鳴りがする程の音がリーディアの脳を揺さぶった。
公爵は娘を叩いたばかりの手を握り締め、冷たいラピスラズリの瞳で見下ろした。
『公爵!! 貴様、僕の婚約者に手を上げるなどと!!』
『彼女に謝ってください!!』
アレシュとミハルが公爵に向かって声を荒げた。だが、公爵は眉一つ動かさず、冷淡に言い放った。
『狩猟大会への参加も、私は許可していませんでした。それだというのに勝手に参加しておきながら、公爵家の名に泥を塗る様な真似をしたのですよ。お前は私の言う事を全て素直に聞き入れていればそれでよいのです』
『泥を塗るだと!? 訂正しろ!! 彼女は僕を……』
アレシュが更に声を荒げたが、リーディアは涙を零しながら首を左右に振り、頬を押さえたままか細い声で『おやめになってください。もう、結構ですわ……』と言った。
無表情のままの公爵を、アレシュが苦々しげに睨みつけ、ミハルは心配そうに眉を寄せてリーディアを見つめていた。
————自室のベッドの上で回想を打ち消し、リーディアは唇を噛みしめた。
≪相変わらず、吐き気がする匂いだ……≫
リダが毒づいた。
≪言っただろ? アレシュはやめとけって。あいつを追い求めれば、あんたは破滅する≫
リーディアの頬を涙がつぅっと幾筋も伝った。
頬にじりじりと沁みる。何度も何度も、叩かれた瞬間が脳裏で繰り返される。
——お父様にとって、わたくしは最初から家族ではなかったのね。アレシュ様をお救いする事すらも、栄誉であるとは認めてくださらなかった……!
「アレシュ様にもリダの存在がバレてしまったわ。嫌悪されているようでしたわね」
≪それは……。ごめん……≫
「わたくしは、もう一生『家族』を持つ事が許されないの? 聖女になれば、誰とも婚姻は許されませんもの」
リーディアが肩を震わせて涙を零した。
静かにランプの炎が揺れる。
≪……でも、助かるには、聖女になるしかない≫
リダの言葉に、リーディアは瞳を見開いた。
ラピスラズリの瞳からボロボロと幾つもの涙が零れ落ちた。
「わたくしが誰かから愛されることは、一生赦されないことなの……?」
——家族どころか、誰からも……。
リダは押し黙った。
どれほどに考え抜いても、掛ける言葉が見つからない。
ただただ、胸に満ちた絶望に耐えるしかなかった。




