第十四話 届かない花束
揺らめく燭台の灯りの下で、アレシュはペンを握り締めたまま物思いに耽っていた。
狩猟大会後、衆目の前で彼女一人を嬲ったあの場で見た、ラピスラズリの瞳の輝きが忘れられない。
思い起こせば反吐が出るだけのあの場で、彼女の瞳には揺るがない意志の炎が灯っており不快な程に脳裏に焼き付いた。
眼前には、まったく手をつけていない書類が積みあがっている。小さく舌打ちし、溜息を吐く。
ペン先を墨壺につけ、視線を落とした。
怒号を上げる熊に突き刺さる矢と同時に『馬鹿野郎!! 諦めてんじゃねぇよっ!!』と怒鳴り散らす不敬の女の姿が脳裏に浮かぶ。
——同一人物であるはずが、どこかおかしい。どちらも確固たる強い意志を感じるが。
顔を真っ赤にして水の中へと入って行ったリーディアを思い出し、僅かに顔を顰め、コホンと咳払いをした。
コツコツと扉がノックされ、ミハルが顔を出した。
彼はアレシュと目が合った瞬間、僅かに視線を逸らし穏やかな、しかし気まずそうな笑みを浮かべた。
「兄上、何かお手伝いをと……」
アレシュの机の上に手つかずのまま山積みとなっている大量の書類を目にし、ミハルは言葉を止めた。
シン……と気まずい空気が流れる。
無言で書類の束を差し出したアレシュに、ミハルは「はい、兄上」と言って受け取った。
応接用のテーブルへと掛け、二人が同時にため息を吐いた。
咳払いをすると、それも同時となってしまい、増々気まずくなる。
気を取り直して書類へとペンを走らせる。暫く無言のまま書き進めていたが、アレシュが僅かに声を洩らして笑った。ミハルもつられたように笑い、再びサラサラとペンを走らせた。
「……全く、バカみたいだよ」
アレシュはそう言うと、チラリとミハルに視線を向けた。
「リーディアのことだけれど」
ミハルは手を止めずに「……はい、兄上」と答えた。
「公爵邸に見舞いの花を贈ろうと思ってね。一応、狩猟大会では少し世話になったわけだし、それに、僕は彼女の婚約者なわけだし、礼儀というか、とにかく……」
はあ、とため息を吐くと、アレシュは銀髪を片手で乱した。
「だから、つまりは……くだらない作業だから頼まれてくれるかい?」
ミハルは穏やかな笑みを向けると、「……はい、兄上がお決めになったことであれば、従います」と答えた。
席を立ったミハルから一度は視線を外したものの、部屋を出て行くその背中を、結局じっと見つめていた。
ふと思い出して机の引き出しを開け、桜色のカードを見つめた。リーディアがアレシュへと宛てたお茶会の招待状だ。
ハッとしたように強く音を立てて引き出しを閉じ、気を取り直してペンを握った。
◇◇◇◇
——もう、歩けない……。
ズキズキと痛む足を引きずり、体中の痛みに耐えながら、リダは歩を止めた。
泥に塗れた衣服を見下ろし、惨めになって唇を噛みしめた。
脳裏に浮かぶ逃亡中の出来事に、じんわりと涙が浮かぶ。
立ち寄る店で、リダの所作を訝しげに眺める視線が気になった。
気まずそうに俯くリダに、護衛として雇った傭兵達が言った。
「お嬢さんは、もっと庶民らしくした方が良いと思いますがね」
「庶民らしく……?」
そう呟きながら、目深に被ったフードの奥から、酒場の者達へと視線を向け、会話に耳を傾ける。
「乾杯!」
「ほら、男なんだろう? やればできるさ!」
「あたしはそんなに飲めねぇよ!」
「よっしゃ!」
「最高じゃねぇか!」
——あのような言葉を、わたくしが……? そんなの、無理ですわ……。
粗末な服に身を包んでいるミハルが、リダを隠すように前へと進み出た。
「……前方に検問があります」
——!!!!
兵士たちがリダを訝しげに見つめる。ひそひそと話し合った後、声を発した。
緊張が走る。
兵士の一人がミハルを睨みつけた。
「逃亡した第二王子と公爵令嬢を探している。お前達、随分と怪しいぞ」
ミハルはニコリと微笑むと、荷台を指した。
「お出しした書状の通り、私たちは兄妹です。ウィシュテンバーグより購入した薬草を運ぶ旅の途中、こちらの検問を受けているだけのことではありませんか。カモミールを始め、エキナセア、セージ、ネトル、ペパーミントを買い付けました。荷を検めていただいても結構です」
——ミハル殿下!
兵士たちが話し合い、ミハルに問いかけた。
「どういった効能があるのか言ってみろ」
ミハルは頷くと、すらすらと答えた。
「エキナセアは風邪の予防。セージは喉の痛みに、ネトルやペパーミントはハーブティーとして重宝されます。ほかに教会へ納めるラベンダー油もございます。傷の手当に使うため、納期を急かされておりまして」
兵士は「ふむ」と言って頷くと、ジロリとリダに視線を向けた。
「女、どうも妙だ。商家の娘にしては貴族令嬢の様に澄まして見える。フードを取れ」
——!!!!
ミハルがさっとリダの前に進み出る。
「ご冗談を。貴族令嬢が、傭兵と一緒に薬草を運んでいるとお思いですか?」
「お前が薬学に明るいということは解った。だが、そちらの娘を検める必要がある」
ミハルが僅かに唇を噛みしめた。
リダが戸惑い、震える。
——ミハル殿下が折角難を逃れたというのに、わたくしが足手まといとなることで、殿下を危険に晒してしまうわ……!
リダが意を決してフードを後ろへ払って、泥のついた顔を露わにして言葉を吐いた。
「あたしをご令嬢と見間違えるとは、有難いことだね! ついさっき道端の薬草を引っこ抜こうとして転んだばっかりだってのにさ。な、そうだろう? 兄貴」
鼻の下を擦り、睨みつけるように見つめながらミハルの肩を乱暴に叩いたリダに、兵士たちは話し合った後言葉を発した。
「通ってよし!」
荷馬車に揺られながら、リダは涙を零した。
「殿下、わたくし……あのような粗野な振る舞いを。どうお詫びしたらよいことか……!」
ミハルはハンカチを差し出しながら微笑んだ。
「私はもう、『殿下』ではありません」
ミハルは僅かに頬を染めて言った。
「貴女も、ここでは公爵令嬢でなくてよいのです。それに……身を守るためとはいえ、私に気兼ねなく触れてくださったことを、嬉しく思ってしまいました。先ほどの貴女も、とても愛らしかった」
——愛らしい? 粗野なわたくしも……?
ミハルは僅かに俯き、少し恥ずかしそうに言葉を続けた。
「……リダと、お呼びしてもよろしいですか?」
カッとリダは顔を赤らめた。
そして、頷いた。
「リダ」
記憶の中の声に、現在のミハルの声が重なった。先を歩いていたミハルが振り返り、穏やかな笑みを浮かべながら手を差し伸べている。
リダは過去の後継を振り払い、唇を噛みしめた。
火の粉が舞っている。ズキズキと、足が痛んだ。
「ごめん……ミハル。こんな事に巻き込んじまって、本当にごめん」
瞳から涙を溢れさせたリダを、ミハルは優しく抱きしめた。
「私こそ、貴女を守り切る事ができずにすみません。貴女をこのような目に遭わせてしまったのは、私のせいです」
「ちがう!!」
リダは首を左右に振った。
「あんたにあたしを守る義理なんか無かった!! あんたはただ、あたしの我儘に巻き込まれただけじゃないか!!」
ミハルから甘い花の蜜の様な香りが漂う。
「……いいえ。そうではありません」
愛しそうにアメジストの瞳を向けて、ミハルはそっとリダの頬に触れた。
「何度も言っているはずです。私が、貴女の側に居る事を望んだのだと」
涙で視界がぼやけ、ミハルの顔が滲んで歪んだ。
「あたしは……『アレシュを選んだ』のに……! それなのにあんたは……!!」
ミハルがリダの瞳に口づけをし、涙を受け止めた。
「愛しています。リダ」
「……ごめん。……ごめんな、ミハル……!」
ミハルは寂しげに笑った。
「貴女は、謝るばかりで一度も私に『愛』を告げた事がありませんね」
「……ごめん」
——いつか、言える時が来たら。必ず……。
◇◇◇◇
目覚めたリーディアは、朦朧としたまま何度か瞬きをした。
何か胸を締め付けるような夢を見ていた気がしたが、内容は目覚めとともに霧散していった。
ズキリと頭痛がする。身体を起こそうにも鉛のようにずっしりと重く、身じろぎすることさえ億劫だった。
≪よぉ、気がついたか?≫
——リダ……?
室内が優しい花の香りで満たされている。リーディアは心地よくて深呼吸すると、「ラベンダーかしら?」と呟く様に言った。
≪ああ。多分これはミハルの仕業だろうな。あいつ、母親が薬師だったからか、やたらと植物に詳しいんだ≫
ゆっくりと首をもたげると、立派な花束が花瓶に生けられている様子が見えた。白のリシアンサスと、幾重にも花弁を重ねたピンクのラナンキュラス……。
「あの花束も、ミハル様からなのかしら?」
≪さあ? そいつは知らねぇが、多分……≫
コツコツと扉が叩かれ、使用人の女性が入室してきた。チラリとリーディアに視線を向けて、僅かにため息を漏らす。
「お嬢様、お気づきになりましたか。今お茶のご用意を致します」
感情が欠落しているかのような平坦な声で告げると、カチャカチャと耳障りな音を立てながらティーカップにお茶を注ぎ入れる。
「そちらの花束は王室より贈られたものです。それと、この匂いも……」
使用人の女性は僅かに眉を寄せて言葉を止めると、ティーカップが乗ったトレイをサイドテーブルへと乗せた。
「それでは、失礼致します。お加減が宜しくなりましたら、身の振り方もお考えになられた方が宜しいかと」
さっと立ち去る使用人から視線を外し、リーディアは溜息をついた。扉を閉じる音がいつもより強く感じる。
「……わたくし、何か気に障る様な事をしたかしら?」
≪さあ? いつもあんなもんだった気もするけどな≫
リーディアは身体の重さに耐えながら上体を起こすと、使用人が用意していったカップを手に取った。そっと口をつけると、冷めきったお茶が唇に触れた。
のどを潤すには丁度いい、と二口程飲むと、トレイの上にカードが添えられている事に気が付いた。
封を切ると、ベルガモットの香りがふわりとリーディアの鼻をくすぐった。
「……アレシュ様?」
そう呟いて、リーディアはカードに綴られている文字を食い入る様にじっと見つめた。
『一日も早い回復を祈念する。——アレシュ・ジェハーク——』
リーディアがカードをするりと指で撫でた。
≪おい、勘違いするなよ? あいつがカードに香りづけするなんて手の込んだ事、やると思うか? どうせ……≫
リーディアは小さく笑って「解っていますわ」と言った。
「アレシュ様が、このようにわたくしにお心を砕いてくださるはずがありませんもの」
そう言ってリーディアはベッドに身を預けると、再び眠りの中へと吸い込まれていった。
室内に広まっているラベンダーの香りが、リーディアを優しく包み込んでいた。




