第十三話 荒ぶる物証
純白の天幕内は、どよめきで溢れ返っていた。
蔑んだ目を浴びせられても、リーディアは怯むことなくすっと背筋を伸ばしている。
——もう、怖いものなんてありませんわ。わたくしには、リダがいる!
リーディアはリヒャルトを真っ直ぐに見つめ、堂々たる声を放った。
「わたくしは、主を救わんと奮闘し、獣と戦い、勝利したのです。裂けたドレスも土汚れも、恥だと仰るのなら、殿下を見捨てた貴方方こそ、一体何とお呼びすれば宜しいのかしら?」
多数の咳払いや、扇子を扇ぐ様子が広がる。
ざわざわと周囲が騒がしく言葉を放った。
「我々が殿下を見捨てた、などと……」
「不愉快ですな」
「汚らわしい魔女め」
どれほどの罵声を浴びせられようとも、リーディアの瞳から強い意思の光が消える事はなかった。
周囲の貴族達が騒ぎ立てる声を、リヒャルトが「静粛に」と一喝した。
リーディアが更に追い打ちをかける。
「皆さま方は、わたくしだけではなく殿下の高貴さも穢しましたわ! 救出もせず森に捨て置き、戻った者をこうして言葉で嬲り辱める行為は、明らかに王室に対する侮辱に他なりません!」
ざわめいていた者達が口を噤んだ。
ミハルはリーディアの様子を唖然として見つめており、アレシュは顔を伏せていた。
「もし、わたくしが穢れていると仰るのなら、それはわたくしの肌ではなく、そのように邪推される皆さまの瞳ですわ!!」
周囲の貴族達が、すっとリーディアから視線を逸らした。
リヒャルトがサファイアブルーの瞳でリーディアを見下ろし、凍り付く程に美しい笑みを浮かべた。
「素晴らしい。その輝きは正に、公爵家の薔薇そのものでしょう。……ですが、リーディア嬢」
ため息を吐きながら、リヒャルトは首を左右に振った。
「主は言葉ではなく、常に『事実』を以て人を裁かれるのです。貴方が今そのように穢れた風体を衆目に晒している事実を、どう説明するおつもりですか?」
リヒャルトの言う通り、狩猟大会を楽しむ貴婦人たちはどれも華やかな出で立ちでいるというのに、リーディアは馬着を身に纏い、泥で汚れ、アレシュの上衣を腰に巻き付け裂けたドレスの裾を隠しているという、貴族の令嬢とは程遠い身なりだ。
≪……胸糞悪ぃ野郎だな。誰かさんにそっくりだぜ≫
——確かに、こんなはしたない恰好で皆さんの前に出るなんて、最悪ですわね。困りましたわ。
クスクスと、リーディアを小ばかにする笑い声が漏れ始めた。
唇を噛みしめ、リーディアは気丈にしながらもこの状況をどう打開すべきかを必死になって考えた。
≪クソ! こいつら全員に泥水でもぶっかけてやるか?≫
リダが悪態をついた時、ミハルが席を立った。
颯爽と前へと進み出て、リヒャルトの銀髪と対比する様に艶やかな漆黒の髪が揺れる。
「猊下、失礼ながら申し上げます」
一瞬、リーディアに視線を向けた後、ミハルは戸惑う様に目を逸らした。
「……彼女が今そのような風体となっているのは、外ならぬ我ら王家の不手際です。兄上が危機に陥り、彼女がたった独りで戦わざるを得なかったその時、我々こそ何をしていたのでしょう」
≪流石だな、やっぱり最高だぜミハルは!≫
——なんてお優しいのかしら。
ミハルはため息を漏らし、躊躇いつつも言葉を続けた。
「主がご覧になっているのは、彼女の裂けたドレスではなく、彼女をその境遇に追いやった我々の『怠慢』の方ではありませんか」
ぎゅっと、ミハルは意を決した様に拳を握り締めた。
「……もし、彼女の『潔白』に疑いがあるというならば、私がこの『アメジストの瞳』に誓って、彼女の後見人となり、その身の潔白を生涯かけて証明し続ける覚悟があります」
会場内が騒然とした。
≪……まじか。こんなの、プロポーズみたいじゃねぇか≫
リーディアがカッと顔を赤らめた。
——わたくしは、アレシュ様の婚約者ですのに……!
リヒャルトは肩を揺らして笑うと、面白いものでも見ているかのような蔑んだ目をミハルへと向けた。
「ミハル殿下。相変わらず貴方の言葉は非の打ちどころがありませんね。王族として私も胸が痛む思いです」
わざとらしく眉を下げ、リヒャルトはロザリオを持った手を胸に当ててみせた。
「ですが、貴方の言葉は軽い。『混じり物』のない、純然たる王家の秩序を語るには、適しておりません。責任を語る資格があるのは、その血に責任を負う者だけのはずではありませんか。貴方が彼女の後見人になる、と仰いましたか? 耳を疑う程に残念でなりません。彼女は王太子の婚約者であり、ベニーシェク公爵家のご令嬢だという事をお忘れではございませんか?」
その言葉に、ミハルがアメジストの瞳を見開いた。
「神の聖名の下に忠告しましょう。貴方のその『善意』こそが、彼女の身の潔白を不確かなものにしているのですよ」
≪あの野郎っ!! よくもミハルを傷つけやがって!! おい、身体を貸せっ! あいつをぶん殴ってやる! 何が枢機卿だ、卑劣な悪党め!!≫
頭の中でリダが喚き散らし、リーディアは溜息を吐いた。
——これは、かなり拙い状況だわ。
唇を噛みしめて、俯くミハルに視線を向ける。
——ミハル様の善意が原則にそぐわないわ。このまま無理に責めれば、わたくしはアレシュ様のみならず、ミハル様との不貞をも疑われ兼ねないわ。
ゆっくりと、リーディアを死刑台に誘う死神が近づいてきているようで、ゾッとした。
≪そんな……。逃げ場がどこかに……≫
「……全く、茶番ばかり見せつけられて腹立たしい限りだよ」
アレシュがため息交じりにそう言い放った。
瞬間、リヒャルトが歪んだ笑みを口元に浮かべた。
アレシュはサラリとした銀髪を後ろへと追いやると、すっと立ち上がってミハルに一瞥した後、天幕の外へと視線を向けた。
数名の騎士が、大岩の様に真っ黒い熊の巨体と数匹の狼を運び込み、血と獣の匂いで天幕内が満たされた。
≪あれって……!≫
——リダ、静かに!
「これは昨日、そこにいるリーディア嬢が仕留めた獲物さ」
国王が顔を顰め、ダヴィットは無関心の視線を向けている。どよめく貴族達は狩猟大会中だという事を思い出したのか、感嘆の声が入り混じった。
「……おい、鹿はどうしたのさ?」
アレシュの言葉に、騎士達が頭を垂れたまま報告した。
「後程お運び致します。こちらの獲物があまりにも大きく、運ぶのに難儀致しました故……」
「ああ、そう。まあいいや。どうせ陛下が仕損じた『小鹿』だしね」
失笑が微かに漏れ聞こえたが、アレシュは構わず続けた。
「この獣たちに致命傷を負わせた矢は全て、リーディア嬢が使用していたものだ。騎士達の検分も終えているから間違いないよ、そうだろう?」
「はい、王太子殿下」
騎士達が頭を垂れたまま答える。
先ほどまで雄弁だったリヒャルトが口を噤み、アレシュが話す様を興味深そうに見つめている。
純白の手袋の指先を合わせ、観劇の見物でもしているかのような素振りだ。
「僕は女性じゃないからね、淑女の方々からの意見が欲しいのだけれど。こんな獣たち相手に、ドレスを無傷のまま立ち回れるものかい?」
ざわめきの中に、明らかに『それは難しい事だ』という言葉がいくつも入り混じっていた。
「そうさ、生命の危機と対峙している最中、ドレスの方が大事だなんて言うのはどうかしてるとしか思えない。皆まともな考えの持ち主の様で安心したよ」
アレシュは尤もらしく頷くと、一瞬だけリーディアへと視線を向けた。
≪あー、はいはい。これで借りは返すって言いてぇんだな?≫
「熊の死体から僕とリーディア嬢が落ちた谷までの道のりは、しっかりと狼の遺体が証明してくれたはずさ。間違いないね?」
獣を運び込んだ騎士達が「間違いございません、王太子殿下」と答えると、王がダヴィットに耳打ちした。
「アレシュ殿下、不貞の疑惑はどう説明するつもりか、と陛下が仰せでございます」
ダヴィットの言葉に、アレシュは小ばかにしたように何度か頷き、肩を竦めた。
リヒャルトが小さく「まだそのような馬鹿馬鹿しい事を」とため息交じりに言ったが、誰の耳にも届かない程の声だった。
「陛下の仰る事はご尤もさ。残念ながらこの場は本来の狩猟大会という名目から大きくずれ、疑心暗鬼に満たされてしまっている。けれど僕はそんな事に屈する程愚かじゃない」
アレシュは「ミハル」と、唇を噛みしめて俯いている第二王子へと声を掛けた。
ハッとした様にミハルは顔を上げると、「……はい、兄上」と答えた。
「君は騎士達を引きつれて一番に駆けつけてくれたね。あの場で寒さに震えていたのは、僕を救った聖女だったか、それとも淫らな女だったか、正直に話してくれないか? 君のその、『高潔な正義感』でね」
握りしめたミハルの拳が震えた。
≪……ミハル≫
リダの悲痛な声がリーディアの中でこだまする。
「……兄上の仰る通りです。あの場にいたのは、間違いなく、命を賭して王太子を救った方でした」
ミハルの言葉を聞き、アレシュはフンと鼻を鳴らした。
「今日、この場で僕の婚約者に向けて疑惑の目を向け、言葉の礫を浴びせた者達の顔はすべて覚えたからね。覚悟しておくことだ」
ゆっくりとした手袋越しの拍手をリヒャルトが発した。衣擦れの音と共に立ち上がり、サファイアブルーの瞳をアレシュへと向ける。
「お見事です、王太子殿下。時に主は人の言葉ではなく、このような『荒ぶる物証』を以て真実を示される」
まるで子供の成長を見守るかのような視線を向けながら、神々しいまでの笑顔を浮かべ、リヒャルトは言葉を続けた。
「陛下、そして皆様。どうやら我らの危惧は、杞憂に過ぎなかったようです。リーディア嬢、あなたの『清廉』を疑うような言葉を投じたこと、神の慈悲と私の名において、深くお詫びいたしましょう」
そして、アレシュに見守る様な視線を向けて言い放った。
「王太子殿下。愛する者を守る為に全方位を敵に回さんとする狂気。陛下には決して真似のできぬ事でしょう。今回はここまでにしておきましょう。貴方のリーディア嬢に対する深い愛情を、私は心から称賛いたします。我が誇り高き銀の騎士よ」
リヒャルトに追従するように、まばらな拍手が次第に天幕内を満たしていった。
アレシュは溜息をつき、「虫唾が走る。一言も二言も余計だ」と悪態ついた。
≪なんだよ、あの坊ちゃんお手柄じゃねぇか!≫
——終わったのかしら?
拍手と称賛の中、リーディアは呆然としていた。
≪ああ、どうやら完全勝利らしいな。ざまみろってんだ≫
——そう……良かった……。
ふらり、とリーディアの身体がよろめいたと思った瞬間、倒れ込んだ。
称賛の拍手が動揺へと変わった。




