第十二話 あんたは一人じゃない
『愛人の子』、『庶子』、『フーアサン(売春婦の息子)』、或いは『ノートゥス(混じり物の血)』。
王城内に於いて、ミハルを指す言葉はどれも攻撃的で辛辣だった。
薬師だった母親の形見として王城への持ち込みが許されたのは、古びた一冊の本のみだった。
大切に、縋る様に抱えて持ち歩く小さな少年を、皆嘲笑った。
「ああ、また『影』が通りましたな」
「陛下のお優しさも罪なことだ。あのような『混じり物』まで受け入れるとは」
国王は銀髪。正妃は艶やかな黄金色の髪。それに対し、ミハルは王国内でも珍しい漆黒の髪を持っていた為、人目を気にし、常に帽子を目深に被っていた。
唯一、王族の直系である特徴として持つ、『アメジストの瞳』だけが、ミハルの存在を王城内に認めてくれる印だった。
例え、『穢れた宝石』と揶揄されようとも……。
「アレシュ殿下の銀髪こそが太陽の光。あちらは夜の闇そのものですな」
「隠れ鴉が居ると、空気が穢れる」
数年が経っても、彼を取り巻く言葉は変わらなかった。聞きなれた陰口に動じる事なく、ミハルは王城の庭の椅子に掛け、古びた本の頁を捲った。
平均的な十四歳の少年よりも背が高く、目深に被った帽子が異質に思える程に目立っていた。
何やら話し声がし、ミハルは顔を上げた。この庭で年若い少女の声を聞くのは珍しい。
ふわり、ふわりと舞う蝶が、誘う様に眼前を漂い、ミハルは椅子から立ち上がった。
「アレシュ様、ハンカチは必ずお返ししに……」
「いらない」
絹糸の様な金髪の少女と、銀髪の少年が何やら話している様子を、ミハルは足を止め、見つめた。
「それと、気安く名前で呼ばないでくれ。虫唾が走る」
アレシュがそう言って、少女の前で踵を返した。
間抜けにも、ぼうっと立ち尽くしていたミハルの肩に、アレシュがドンとぶつかった。だが、見向きもせずにそのまま立ち去って行き、ミハルはぶつかった拍子に落としてしまった古い本に視線を向けた。
綴じ紐が切れ、頁がパラパラと風に舞う。
「あっ!」
必死に拾い集めながら、ミハルは考えた。
——ひょっとして、アレシュは私から名を呼ばれる事も『虫唾が走る』のでしょうか……。
「どなたですの?」
必死になって本の頁を集めるミハルに、少女が声を掛けた。手には彼女が拾った頁が握られている。
再び突風が吹き、ミハルの帽子が飛ばされて薔薇の垣根の上へと乗ってしまった。唇を噛みしめ、羞恥しながら必死に伸ばした手にも届かず、諦めて本を額につけて隠した。
漆黒の髪が太陽の光に晒されている。
「……ミハル・ジェハークです」
「あ……王家の方ですの?」
少し慌てた様子の彼女に、ミハルは「私に畏まる必要はありません」と、手で制した。彼女はホッとした様に微笑んで優雅にスカートを摘まみ、膝を折った。
「わたくしは、リーディア・ベニーシェクと申しますの。お見知りおきを、ミハル様」
そして、リーディアは拾ってくれていた頁をミハルへと差し出した。
「どうして、顔を隠していらっしゃいますの?」
「いえ、顔というよりも髪を……。私の髪色が、人を不快にさせてしまうからです」
頁を手渡した後、リーディアはそのまま白くか細い指を伸ばし、ミハルの漆黒の髪に触れた。そして、ハッとしてすぐさま手を引っ込めると、恥ずかしそうに頬を染めた。
「ごめんなさい。無礼をお許しになってくださいな。ミハル様の御髪がとてもお美しかったので、つい触れてみたくなってしまったの」
——今まで、誰一人として私の髪に触れた人など居なかったのに……。
「……皆、忌み嫌っています」
「どうしてかしら。そんなに美しいですのに。ミハル様も、ご自分の髪色がお嫌いですの?」
艶やかで、繊細で……濡羽色の母の髪は美しく……。
「……いいえ」
唇を噛みしめて、ミハルは瞳を閉じた。
「愛しています」
ずっと閉ざしていた母の思い出が、色鮮やかに脳裏に浮かぶ。
「とっても素敵なことですわ。でしたら、もっと自信をお持ちになったら宜しいですのに」
瞳を開くと、絹糸の様な金髪を揺らして満面の笑みを浮かべるリーディアの姿があり、ミハルは眩しく感じた。
——まるで、神の御使いの様な……。
よく見ると、彼女の肘や手に擦り傷がある事に気づいた。
「一体、どうなさったのです? そのようなお怪我を!」
「いえ、これは……大した事などないの」
「ですが……ですが、痛いでしょう!!」
僅かに、リーディアが眉を寄せた。
そして、小さく頷いた。
「お待ちください、今何か……」
ミハルの服の裾を、リーディアが縋る様に握った。
「リーディア嬢?」
訝しげに見つめたミハルに、リーディアが瞳から涙を零して言った。
「一人に、しないで!」
ミハルは言葉を失って、周囲に視線を向けた後、リーディアへと戻し小さく頷いた。
「分かりました、お側にいます」
「……わたくしの……」
肩を震わせ、リーディアが言葉を絞り出す様に言った。
「わたくしの、婚約者が。アレシュ様ではなく、ミハル様ならよろしかったですのに!」
ドキリ、と心臓が強く、激しく鼓動した。
——でも……アレシュは『純血』なのに……。
「……リーディア嬢、そのような」
「だって! ミハル様の方がお優しいのですもの!」
泣きじゃくるリーディアを、ミハルは必死になって慰めた。
蝶がひらり、ひらりと舞う。
二人のその様子を、アレシュが手にした傷薬の小瓶をぎゅっと握り、唇を噛みしめながら見つめていた。
◇◇◇◇
「神の聖名の下に、真実のみを述べなさい」
リヒャルトの言葉を、リーディアはアレシュに振り払われた指先を見つめながら聞いていた。
——そうだわ、アレシュ様は……あの時もわたくしの手を振り払って行かれてしまったわ。
「昨夜の暗い森の奥で、あなたの肌は王太子の『熱』に触れましたか?」
≪……!≫
「リーディア嬢。あなたのその裂けたドレスの裾は、殿下の理性をどのように惑わしたのですか?」
≪……い!≫
痺れるような痛みが、指先から抜けない。
脳裏に、純白のドレスを着て鏡の前で只管待ち続ける自分の姿が浮かんだ。
——また、独りですのね……。
「その震えは、主への畏怖か、それとも淫らな密事の余韻か。次期国王となるべき殿下の聖なる血を、あなたの浅はかな誘惑が濁らせたのです。主はすべてをご覧になっておいでです。あなたが殿下の『誇り』をどのように食い潰したのか、ここでつぶさに告白し、魂を浄化しなさい」
≪おい!!≫
リダの声にハッとして、リーディアは瞬きした。
≪しっかりしろよ!!≫
——だめよ。リダ。もう、一巻の終わりよ……。
≪諦めるな!!≫
リダの声にビクリとし、リーディアはか細い声で言った。
「……わ……わたくし……は、何も……罪深きことなどしておりませんわ……」
「では、なぜ殿下の上衣をその身に纏っているのですか?」
≪ふざけやがって!!≫
「これは、ドレスの裾が……」
「では、なぜドレスの裾が裂けているのですか?」
≪戦ったからに決まってるだろう!! この場は何だ? 皆何の為に集まっていたってんだよ!≫
「……」
「その身に纏う上衣の下には、今、どのような『罪の証』が刻まれているのでしょう?」
≪あんたに何が分かるんだ、クソ野郎っ!! 汚ぇ目で見てんじゃねぇよっ!!≫
口を閉ざし、震えるリーディアに、リダは怒鳴りつけた。
≪リーディア!! 聞けよ!! あんたは一人じゃない!!≫
リダがその言葉を放った瞬間。全ての音が無となった。
——一人じゃ、ない……?
唯一、リダの声だけがリーディアの中で響く。
≪ああ、一人じゃない≫
たった独りで、永遠の牢獄のように、毎日繰り返される食堂での食事……。
父の視線………。
振り払われる指先…………。
純白のドレスを身に纏い、独りきりで鏡に映る自分……………。
≪もう、寂しい思いなんかする必要はない≫
強く、意志の籠った瞳を向ける心の中に立つ、もう一人の自分と目が合った。
≪あんたには、あたしがついてる≫
指先が心の中の自分と触れた。
——リダ……!!
リーディアは顔を上げた。周囲を取り囲む貴族達を見渡した後、目の前に立つ緋色のケープを羽織り、漆黒のカソックを着込んだ男を見つめる。
傍らに座る国王。何の感情も込められていない視線を向ける父。
悲しげに見つめるミハル。
そして……爆発しそうな怒りを押し殺し、じっと耐える様に見つめるアレシュ……。
リーディアは、ラピスラズリの瞳に確固たる意志の光を灯し、すぅっと息を吸い込むとハッキリとした口調で言った。
「わたくしは、何一つとして恥ずべきことなど犯してはおりませんわ! ベニーシェクの名に恥じぬ清廉な夜を過ごしましたこと、ここに断言致しますわ!!」
会場内がどよめいた——。




