3. 八人目候補
三日後、菩提樹の屋敷から使いが来た。文面は一行である。
『八人目候補が、見つかりましたの』
駆けつけると、茶卓の上に絵が七枚、年の順に並べてあった。フリーデ様の筆で、どれも同じ初老の男の顔。帽子を胸に当てた、あの仲人である。七件の縁談それぞれの当時の姿を、七人の記憶から聞き起こした七枚だという。十二年かけて、変わったのは目元の垂れ方くらい――憎らしいほど、よく描けている。
七枚目は、一か月前のあの応接間の顔だった。見た途端、鼻の奥に糊と絹の匂いが戻ってくる。絵というのは、匂いまで連れてくるものらしい。
「ヴィルマー。十二年前からずっと、同じ顔で同じ商いですわ」とヨハンナ様。「その仲人が、男爵家のゼルマ嬢についたそうですの。お相手はヴェンデル様。結い日は十日先――結び金は、まだ動いておりませんわ」
「十日ですのね」アガーテ様が私を見た。「七人目さん、初仕事ですわよ」
初仕事。その響きに、腹の底が静かに据わる。一か月前の私は食卓で小石を飲むだけだったのに、今日は誰かの三日前を、止めに行けるのだ。
仕掛けの道具は三つある。フリーデ様の絵。日程の型。私の頭の棚。
問題は、出す順番だと思った。絵は疑いを起こし、日付は足元を揺らし、言葉は――とどめである。とどめから出せば、ただの怪談になってしまう。絵、日付、言葉。この順でまいりましょう、と私は申し上げた。
ゼルマ嬢は十七歳。行きつけは帽子店が一軒――コルドゥラ様の古馴染みの店だという。翌々日の昼、私たちは偶然を装って、その店に居合わせる。
リボンと羽根と、新しいフェルトの匂いのする店である。表通りの馬車の音は遠く、天井の高い店内に、昼の光が白く溜まっている。鏡の前のゼルマ嬢は、春の色の帽子を着せられて、夢の中にいる顔をしていた。
一か月前の私と、同じ顔である。胸の奥が、みしりと軋んだ。
幸せの絶頂に水を差しに来る役は、正直、気が重い。けれど三日前の意味を知らないまま結い日を迎えるほうが、ずっと重いのだ。あの朝の応接間の、絹の山の冷たさを、私は知っている。
声を掛けると、その夢見心地が、みるみる強張っていく。
「存じてますわ。……ヴェンデル様の、元の婚約者の方でしょう? 仲人様から伺いましたもの。破談でご縁を逃した令嬢が、妬んで水を差しに見えるかもしれないから、お気をつけなさいって。……こんなに、大勢ですの?」
なるほど、先回りは向こうの得意技である。悪評ばかりか、こちらの説明書きまで先に配ってあるらしい。もっとも、台本の妬み役は「ひとり」の想定だったようで、七人で並ばれる筋は、向こうも書いていない。
「妬んでいるかどうかは、あとでお決めになって」私は絵の束を差し出した。「まず、こちらの殿方に見覚えは?」
「……仲人様、ですけれど。それが何か?」
「十二年前から順に、七枚ございますの。全部同じお顔ですわ。それから、披露の日取りはもうお決まり? でしたら、そこから三日、引いてごらんなさいませ」
「三日って、何ですの?」
「わたくしたち全員が、破談された日ですわ。披露の三日前。……最後にひとつだけ。ヴェンデル様から、こんなお言葉を頂いておりませんこと?」
私は息を整えた。この台詞を口に出すのは、夜中の再生を別にすれば、初めてである。舌の上に載せてみると、あの言葉は思ったより軽い。軽くて、よく切れる。
「『君となら、退屈をしないで済みそうだ』」
声が、勝手に平らになる。
ゼルマ嬢の唇から、すうと色が引いた。
「なぜ、それを? ……五月二日、観劇の帰りの馬車で。一言も、違いませんわ」
「去年の四月十日、わたくしも同じお言葉をいただきましたの。一字一句、ですわ」
「四年前の秋にも」オッティリエ様が指を挙げる。「六年前も」フリーデ様が続き、順々に手が挙がって、最後にアガーテ様が扇で口元を隠した。
「十二年前も、ですのよ。あの文句、よほどお気に入りですのねえ」
帽子店の鏡の中に、七つの挙がった手と、ひとつの蒼白な顔が映っている。
――五日後、ゼルマ嬢の家は結び金を渡す前に、縁談を断った。仲人は食い下がりもせず、帽子を胸に当てて言ったそうだ。ご縁がなかったものと。
あの台詞は、どうやら破談専用ではないらしい。あの筋の、店じまいの音なのだ。
報せを持ってきたゼルマ嬢は、帰り際、玄関で振り返った。夕方の光の中、春の色の帽子を、胸に抱えている。
「あの……ありがとうございました、先輩」
先輩。
被害者でも、七人目でもなく、先輩ときた。
胸の真ん中に、小さな灯がともる。一か月前、食卓で小石を飲んだときには、この呼ばれ方は想像もしていなかった。破棄された数を数えれば七人目、助けた数を数えれば――先輩。同じ私でも、数え方ひとつで、ずいぶん違うものになるらしい。
存外――いいえ、正直に言おう。かなり、悪くない。
見送りに出た門の前に、見覚えのある官服が立っていた。
「また、お会いしましたね」
エーベルハルト監察官である。聞けば、同じ縁談の噂を張っていたのだという。夕暮れの門灯の下、生真面目な顔が続けた。
「七年、仲人網の金の流れを追っています。破談の噂を辿って、被害と思しきお宅を七軒訪ねました。七軒とも『何もなかった』と。……あなたで、七人目でした」
「まあ。では六人の先輩がいらっしゃるのは、わたくしと同じですのね」
「ひとつ違います」男は続ける。「あなたは否認の折に、嘘をひとつ、飲み込む顔をなさった。七年で、初めて見る顔でした」
顔まで記録されていたとは、恐れ入る。……見られていたのだ、あの夜の小石を。頬が熱くなったのは、羞恥のはずである。はずなのだが、困ったことに、少しだけ安堵の味がした。飲み込んだものを、飲み込んだと知っている人が、この世にひとりいる。
「本日の首尾は、見事でした。……職務上の所見です」
「所見が多い官職ですのね」
「多い日も、あります」
夕闇に一礼して、官服は帰っていった。門灯の輪の外に出るまで、歩幅がずっと律儀に揃っている。揃った足音が角を曲がって消えたあとも、私は少しのあいだ、門柱に手を置いて立っていた。夜気が薄荷のように涼しくて、それが妙に、心地よかったのである。
数日後、菩提樹の屋敷に一通の手紙が届く。
『貴会の茶会に、出席の許可を申請したい。――縁組監察官エーベルハルト』
アガーテ様は封を検めて、ため息をついた。
「……ずいぶんお堅い、お願いの仕方ですこと」




