第31話:健康診断(物理)と、涙の特製シチュー
「おかえりなさい、お父さん」
カチャリと開かれた玄関のドアの向こうには
アルフレッドが血を吐くような思いで守り抜いた『究極の日常』があった。
……温かなオレンジ色の照明。
ふわりと鼻をくすぐる『石鹸』と『ベビーパウダー』の香り
そして、コトコトと煮込まれるシチューの匂い。
エプロン姿の愛娘が、花が咲くような笑顔で立っている。
背後にはおくるみに包まれた小さな小さな赤ん坊が
スヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
そんな、余りに穏やかな状況の中……かつて裏社会全体を震え上がらせ
つい先ほどまで地獄のような死線を潜り抜けて居た巨漢の暗殺者は
まるで借りてきた猫のように、その大きな背中を丸め
敷居の塵一つ踏まないよう、恐る恐る玄関を跨いだ。
「あ、ああ……ただいま。
その……匂わないか? タバコとか、血の、いや、汗の匂いとか……」
絶対に嫌われたくない一心で、まごつきながら訊ねるアルフレッド
「んー? ……全然。
むしろ、お父さんからお酒とタバコの匂いが全くしないなんて
大事件であり『奇跡』ね……ふふっ♪」
愛娘はクスクスと嬉しそうに笑うと
空いている方の手で、アルフレッドの腹をツンツンと小突いた。
コツン。
指先が弾かれるような硬い感触に、娘はポカンと目を丸くする。
「えっ……すごい!
あのポンポコリンだった立派なビール腹が完全に無くなってる!
っていうか……腹筋割れてない!? 岩みたいにカチカチじゃない!」
「うっ……そ、そうか? まあ
健康のために少し歩く距離を増やした
(※荒野を徒歩で横断し、巨大戦艦を沈め、要塞を粉砕した)からな……」
アルフレッドは、バキバキに仕上がってしまったシックスパックを擦りながら
冷や汗を流し、必死に視線を泳がせて誤魔化した。
直後、そんな不器用な父親の姿を娘は心底嬉しそうに見つめ返す。
「えらい! ちゃんと約束通り、健康生活出来たみたいね!
これなら、一緒に住んでもずっと長生きして
娘の成長も見てもらえそうね……ふふっ♪」
(……勝った!!)
アルフレッドの心の中で
天に届くような大ファンファーレが鳴り響いた。
『味のしないササミ』
『パサパサの大豆ミート』
『泥水のような青汁』
……極限の空腹と、それに伴う数々の死闘
これまでの全ての地獄の苦行は
娘のこの一言と笑顔をもらうための、通過儀礼だったのだ。
「手、洗って来て? ……抱っこさせてあげる」
「おおっ! す、すぐ洗ってくる! 消毒液も使うぞ!」
直後、洗面所に駆け込み
まるで親の仇でも討つかのように念入りに手を洗って居たアルフレッド。
それは単なる汚れ落としではなく
自らの手に染み付いた『裏社会の厄災』としての過去を
完全に洗い流すための儀式でもあった。
そして、この直後……『ガサツ』と言うべき生き方をしていた彼は
自らの服が余りに不潔であると感じ、娘に対し替えの服を望もうとした。
だが――
「お父さん……懐かしいでしょ? このコート
今なら入るんじゃないかな? ……着てみてよ」
――娘から手渡された古びた薄茶色のコート
それは、全盛期の彼が娘の母『ロクサーヌ』と過ごしていた時にまで遡る
思い出の品であった。
全盛期と違わぬ体型となった今の彼に取って
難なく通せるその袖は、神聖な儀式を執り行うため
彼へと与えられた法衣の様でさえあって――
「ナタリー……赤ん坊だったお前を腕に抱いた時も
俺は、此奴を着ていた……取っていてくれたんだな」
「当然でしょ? ……ふふっ♪
さぁ、早く抱きしめてあげて」
微笑ましく進む幸せな時間……準備万端整ったアルフレッドは
ついに、震える太い腕で初孫を抱き上げる事と成った。
「おぉ……っ」
……驚くほど軽く、そして、とてつもなく温かい。
これまで何十年も握り続けてきた
重く、冷たい鉄の塊とは正反対の感触。
完全に無臭で清潔なアルフレッドの腕の中で
赤ん坊は目を覚まし、泣き声を上げるどころか
安心しきったようにふにゃりと笑って
小さな手でアルフレッドの太い指をギュッと握りしめた。
「嗚呼……嗚呼……」
小さくも圧倒的な尊さでアルフレッドを見つめるその目は
何処か、最愛の妻『ロクサーヌ』にも似ていて。
直後、アルフレッドの窪んだ目からは
ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、その分厚い頬を伝った。
……この瞬間の彼は
『最強の殺し屋』でも『歩く厄災』でもなく
ただの、世界で一番幸せな『おじいちゃん』だった。
「ふふっ♪ ……お父さんったら大袈裟ね。
さっ、ご飯にしましょう?
お父さんがずっと我慢してた、大好きな『特製ビーフシチュー』
昨日から煮込み続けて作っておいたんだからっ! 」
……食卓に案内され、湯気を立てる
琥珀色のシチューの皿を前にしたアルフレッド。
(ついに……! 待ちに待った、塩分と脂質の結晶……!
俺の戦いの、真の対価がここに……!)
彼は震える手でスプーンを持ち、肉と野菜をすくい上げ
一口……口に運んだ。
「……ん?」
アルフレッドの動きがピタリと止まる。
「どう? ……美味しいでしょ?
お父さんのこれからの健康を考えて、お肉は脂身ゼロの赤身モモ肉にして
バターも塩分もいつもの半分以下にカットした
『究極の減塩・低脂質ヘルシーシチュー』よ!
……これなら毎日食べても安心ね!」
「……嗚呼」
アルフレッドは、スプーンを口にくわえたまま、天井を見上げた。
口の中に広がるのは、限りなく素材の味に近い優しすぎる風味。
(……俺の『地獄(健康生活)』は
マイホームに辿り着いても、まだまだ終わらねえらしい……)
「お父さん、どうしたの?
また泣いて……もしかして美味しくなかった……とか? 」
「いいや……最高に、美味い」
アルフレッドは、別の意味で涙をこぼしながら
薄味のシチューを深く深く噛み締めた。
塩気は足りず。脂のガツンとくる旨味もない……だが。
そこには彼を心から愛し、一日でも長く生きてほしいと願う
家族の『温かさ』が確かに溶け込んでいたのだ。




