第30話:地上への生還と、一番の報酬
軋むような金属音を立て、地下要塞から続く長い長距離エレベーターの
重厚な扉がゆっくりと開かれた。
「の、乗って……大丈夫なのか? 親父さん」
「『緊急時は階段』とは言うが……面倒だ、扉が壊れている程度気にするな」
ブラッドの不安を打ち消す様にアルフレッドが言う。
……直後、恐る恐る乗り込んだ長距離エレベーターは
上昇を続ける内に……硝煙と焦げたオイル、そしてオゾンの臭いが漂う
冷たい地下の空気から一転させ……アルフレッドが
地上へと足を踏み出したその時。
『セントラル・ガーデン』の閑静な住宅街には
全てを浄化するような美しい夜明けの光が差し込もうとしていた。
「終わったんだな……本当に」
背後からついてきたブラッドが
朝焼けに染まる平和な白壁の家々を見渡して、震える声で呟く。
「ええ……『黒之歯車』の脅威は、完全に去ったわ。
この街の……いいえ、世界の平和は
たった一人の男の手によって守り抜かれたのよ」
カルメンも、深く安堵の息を吐き出しながら目頭を押さえた。
そんな二人の熱を帯びた視線の先には
満身創痍でありながらも
その太い背筋をピンと伸ばして歩幅を一定に保ち
静かに歩みを進めるアルフレッドの姿があった。
過酷な戦闘によってボロボロに引き裂かれた分厚い革コートと
シャツの隙間からは、極限の有酸素運動と食事制限によって
バキバキに研ぎ澄まされた鋼の肉体が見え隠れし
朝焼けの光を反射して彫刻のような陰影を作っている。
「流石だぜ、親父さん……最高に格好いいぜ。
あの背中こそ、裏社会の頂点……いや、新時代の平和の象徴だ。
親父さん、俺たちも一緒にッ! ……」
ブラッドが感極まって駆け寄ろうとした瞬間
カルメンがその腕をスッと掴んで制止した。
「待って、ブラッド……邪魔しちゃ野暮よ。
見てごらんなさい、あのアルの歩みを。
一切の隙も、迷いもない……全てを成し遂げた王者のような
堂々たる凱旋の足取り……今はただ、傷ついた英雄が
自らの『帰るべき場所』へと辿り着くための大切な時間よ。
私達は静かに、誇りを持って見守りましょう? ……」
二人は、アルフレッドからあえて少し距離を置き
深い敬意と涙ぐんだ瞳で
その後ろ姿をただただ拝むように見つめていた。
――しかし。
当の『傷ついた英雄』の頭の中は
そんな崇高なドラマとは全く別の
極めて切実で世知辛い問題で満たされていた。
(……痛てぇ。マジで膝が痛てぇ。
軟骨が完全にすり減って、一歩踏み出すたびに
骨と骨が直接削れ合うような激痛が走りやがる……!
おまけに空腹で目眩がする。低血糖の限界だ。
今なら味がしないドブの泥でも喜んで食える……いや、待てよ?
味がしないのは『茹でたササミ』と『大豆ミート』だったか……?
チッ、ダメだ……頭も回らねえ)
アルフレッドの足取りは、カルメン達の傍目には
『一切のブレもない、堂々たる凱旋の歩み』に見えていた。
だが、その実態は全く違う。
長年の酷使と急激な運動によって『初老の膝』が完全に限界を迎え
足を高く上げることが物理的に不可能になり
結果として『地面をズリズリと滑らせるようなすり足』でしか
前へ進めなくなっていただけなのだ。
背筋が伸びているのも、腰痛を庇うため
無意識に姿勢を固定しているからに過ぎない。
(……くそっ、あいつら、何で後ろからジッと見てるんだ。
早く帰って寝てくれ。こっちは早く座りたいんだ……!)
背後に注がれる『尊敬の眼差し』を鬱陶しく感じながらも
アルフレッドは歯を食いしばってすり足を続けた。
肉体は完全に限界を突破し、悲鳴を上げ続けている。
だが反面……彼の心は
かつて裏社会でどんな巨万の富を得た時よりも
かつてないほどに軽やかで、希望に満ち溢れていた。
……重い足を引きずりながら角を曲がり
美しい石畳の3ブロック目へと差し掛かる。
見慣れた、しかしここ数日死ぬほど恋い焦がれた佇まい。
アルフレッドが血と汗と涙(と地獄のローン審査)の果てに手に入れた
『白い屋根の家』が、朝陽に照らされて静かに建っていた。
サーッ……と、朝の冷たい風に混じって
換気扇から微かな匂いが漂ってくる。
(間違いない……肉だ! 牛肉の脂が溶け出し
バターと野菜の甘みが複雑に絡み合った、極上のデミグラスの香り……!)
それは、戦場に漂う血と硝煙の臭いを完全に上書きする
世界で最も優しく、最も甘美な匂いだった。
死線を潜り抜け、インフラを守り抜き
マイホームの地盤沈下をも阻止した伝説の男に与えられる
何よりの報酬――
(嗚呼……漸く着いたぞ……俺の……帰る場所に)
――アルフレッドは、震える手で自宅の門扉を開けると
緊張の面持ちで玄関の前に立った。
数ヶ月に及ぶ地獄の食事制限……『毛程も味のしないササミ』
『タイヤ臭のする大豆ミート』『吐き気を催すドブドロの様な青汁』
愛銃の無茶な魔改造と、周囲の壮大な『勘違い』の数々。
その全ての苦労が、今、この瞬間に報われようとしている。
アルフレッドは、ドアの前で一度だけ大きく深呼吸をし
自分から漂う匂いが『完全な無臭』であることを再度確認した。
(よし。酒も葉巻も、硝煙の匂いもしない……完璧だ)
髪と髭……そして、コートの乱れを整え
ゆっくりとドアノブに手をかける――
「た……ただいま」
――誰に聞こえるでもなく小さく呟き
彼がドアを開けようとしたその時――
カチャ。
――内側から開かれた、玄関の扉。
そこには、お玉を持ったエプロン姿の愛娘が
優しい微笑みを浮かべて立っていた。
「おかえりなさい、お父さん……遅かったじゃない」
……張り詰めた死線の余韻を一瞬で忘れさせるような
優しく、穏やかな声……そんな彼女の背後
リビングのベビーベッドで、タオルに包まれた
穏やかな寝顔の小さな、とても小さな命。
今のアルフレッドにとって、世界で最も尊い『未来(初孫)』が
スヤスヤと眠るように息づく姿が見えた。
直後、アルフレッドの窪んだ目からこぼれ落ちた
初めての『本物の涙』――
「ああ……帰ってきたぞ」
――かつて裏社会を震え上がらせた最強の殺し屋が
ただの『父親』へと戻った瞬間だった。
だが、彼の平穏な日常が幕を開ける直前……そんな『親子の会話』を
少し離れた所から、感動の涙を流しつつ見守っていた監視役の二人を交えた
最大の『最後の仕上げ』が残っている事を
彼はまだ、知らない――




