9. 猫と出立①
二週間後。
ソフィアはアンヌとともに再び公爵家の馬車に揺られていた。
前回迎えに寄こされたものとは桁違いの大きさと贅を尽くした外観に、最初は呆れて開いた口が塞がらなかったが、居心地を重視した広々とした内装に加え、冷えた外気も遮断する機能的な造りに、驚きと称賛を禁じ得ない。
「極楽だわ」
『完全にだらけとるな』
「最高すぎる」
『気が緩みすぎだ』
「これぞ至福」
『ごろごろするな』
お決まりの文鳥サイズに縮んだフクが、いつものようにソフィアの頭上で小言を言う。
羽毛がたっぷり詰まったクッションにぬくぬくと包まれ、かつユキヒョウのニノンを枕代わりにしながら、ソフィアは超高級馬車の心地よい揺れを堪能していた。
そんなソフィアの目の前で、満面の笑みを浮かべるミランダと、少し気まずそうなアルノルトが、アンヌに供された紅茶を美しい所作で口にしている。
上位貴族である二人が同乗しているというのに、ソフィアは姿勢を正す様子もなく、時折ニノンの腹に顔を押し当てて「お日様の匂いがする」とつぶやき、とろけるような表情で寝転んでいる。
はっきり言って礼儀もへったくれもない、貴族令嬢らしからぬ開けっぴろげな振る舞いを見せているわけであるが、アルノルトはともかくミランダも気にする素振りもなく、終始笑顔でソフィアの挙動を眺めている。
ミランダに招待された先日の茶会で、この二人の前で大泣きして開き直ったのか、猫をかぶることなく、通常運転のぐうたらぶりを見せつけているソフィアに、フクはやれやれといった感じで大げさに息を吐いた。
「ニノンは本当に美しいわ。さすがお姉さまの精霊猫ね♡」
『見る目があるわね。もっと褒め称えてもよくてよ』
「わたくしのブルーノと取り換えてほしいくらいですわ」
『おい!勝手なことを言うな!』
『いい機会だから無惨に剥げた小汚いクロヒョウなんて捨てちゃいなさいよ』
『誰のせいでこうなったんだよ!』
『あら。お前の自業自得でしょ』
ソフィアを抱きかかえたままのニノンがせせら笑う。
公爵家で暴言を吐き、ニノンの教育的指導を受けたブルーノは、自慢の顔を滅多打ちにされ、ぐったりした隙に全身の毛をくまなく毟られ、痛みに悶えている間に丹念に黒焦げにされ、霊力をほぼ使い果たした末に、ハムスター並みの大きさに成り下がってしまった。
しかしそんな目に遭ってなお、威勢の良さと不敵な面構えが変わらないのはある意味凄い。というかそのふてぶてしい態度はどこから来るのか。全身チリ毛なのに。
ニノンに連れ去られたブルーノが食堂に戻るまでの間、ソフィアはミランダとアルノルトに連日の非礼を詫び、その上で今後のことを改めて話し合った。
ソフィア側の要望は、「無事にアカデミー入学を果たしたい」「カッセルズ家を出て自活したい」「父親と姉と縁を切りたい」の三つで、それらを叶えるためにミランダおよび公爵家の力を借りたい旨をはっきりと伝えた。
ちなみにアカデミー在学中の商会の立ち上げや、将来の公国巡りの旅の件は、とりあえず保留とした。
冷静に考えると上記の目標を達成しなければ、どのみち父親や姉の邪魔や横やりが入るからで、まずはアカデミーに入学してからのソフィアの心身の成長と、勉学と人脈作りを優先することにしたのである。
「お父上に相応の役職を用意させるわ。余計なことを考える時間もないくらい忙しく働いてもらいましょう。激務過ぎてご家族との時間は満足に取れないかもしれないわね」
「カレン様はどうしましょうか?」
「そちらは適当な縁談をあてがいましょう。虚栄心をくすぐるような絶妙な家の者を紹介するわ。頭の中がお花畑になっていれば、ソフィアちゃんへの関心も薄れるでしょうから」
カレンの相手をする男性の方、ご愁傷さまです。
「カッセルズ家は姉君に継いでいただくのがいいわね。先ほどの縁談のお相手も入り婿を前提に選定するわ。姉君の年齢は十八歳だったかしら?アカデミーの卒業と同時に結婚する家が多いのに、伯爵も姉君もずいぶんのんびりしているのね。まぁいいわ。執事のバリーとやらも当主教育の補佐に専念させて、こちらも余計なことをする暇を与えないようにしましょう」
「ソフィアお嬢様に質の悪い縁談が来る可能性がありますが」
「そこは四方八方から徹底的に握りつぶすから大丈夫よ。将来的にアルノルトと婚約してもらうから。ふふ」
「…わたくしもフク様もまだ認めておりませんが」
「だから将来的によ。とりあえずカッセルズ家を出る口実として、わたくし達とヴァイス家の領地に行くのはどうかしら?」
「…なるほどその手がありましたか」
ミランダとアンヌだけで軽快に話を進めていて、ソフィアとアルノルトは置いてきぼりにされている感が満載だが、それはともかくとしてなぜ公爵家の領地に?
「ヴァイス家の領地に精霊猫が住むと言われている森があるのは知っているでしょう?そこの別邸に父の弟…わたくしの叔父が研究のため常駐しているの。ソフィアちゃんには叔父の研究助手になってもらうわ。相場の二倍…いえ三倍の給金と衣食住付きでどうかしら?将来に向けて十分な貯蓄ができるわよ?」
「相場の三倍…もしや口止め料が含まれていますか?」
「ふふ。察しの良いこと。でもそういうことは黙して語らないのが定石よ」
面白味に興じるような黒い笑みを浮かべないでください。怖いです。
「研究の内容は何ですか?助手とは何をすればよいのですか?」
「大まかに言うとリュート公国の精霊猫に関するものね。叔父は視えない人間なのだけれど、昔から精霊猫に傾倒していて論文も幾つか発表しているわ。本当は領地経営の手伝いもしてほしいのだけれど、何度お願いしても森を出たがらないの。詳しいことは叔父から直接訊いてちょうだい」
「別邸には叔父君だけですか?」
「確か使用人が数人居るはずよ。護衛を兼ねた影も何人か付けているけど…たまに小さい子が遊びに来るときがあるかもしれないわ」
それは双子のお子さまのうちの一人でしょうか?
口をついて出そうになった言葉を慌てて飲み込む。
アンヌの事前調査によればその可能性が限りなく高いが、こちらから探るように切り出すのは無作法に当たるだろう。
「アンヌも一緒で構いませんか?」
「もちろんそのつもりよ。叔父付きのメイドの一人が高齢で代わりを探すように言われていたからちょうどいいわ。二人一緒に来てちょうだい」
そこからのミランダの手配は迅速極まりなかった。
まずソフィアが公爵家に一泊した理由は、「急きょ領地から出てきたミランダの叔父君と話が弾み、期せずして日を跨ぐことになってしまった」とした。
そして、「研究気質で頑固な叔父君に気に入られ、研究助手になってほしいとの打診を受け、とりあえずアカデミー入学までの間と長期休暇など、時間が許す限り公爵家領地のヴァイス家別邸で過ごすことになった」と、多少強引ではあるがそれで押し通すことにした。
伯爵家に帰宅する際、ミランダも同行して、「聡明なご息女を叔父が気に入ってしまい、どうしても助手にしたいと言い張るの。できればその明晰な頭脳を公爵家のために役立ててくれると嬉しいわ。もちろん叔父とわたくしが責任を持ってご息女の後見を務めます。代わりにカッセルズ伯爵には今までの働きに見合った役職を、カレン嬢には優秀な婿入り候補を紹介しようと思うのだけれど…いかがかしら?」と、ソフィアを叱ろうと待ち構えていたレイモンドの機先を制し、その場でソフィアとアンヌを引き取る許可をもぎ取ってくれた。
その上で、「こちらの都合でソフィアさんをお預かりするのですから、十分な支度金を用意いたします。それでソフィアさんと侍女の準備を整えてください。二週間後に迎えに来るので、それまでにソフィアさんが公爵家の依頼で公爵家の領地に赴くことの重みを、この場に不在のカレン嬢も含めて伯爵家全員に十分周知するように。間違ってもそちらの不手際で約束を違えることがないようにしてくださいね?」と、威圧を込めてレイモンドに念押しし、後ろに控えていた執事のバリーも同時に睨み付けてくれた。
心なしかバリーの頭髪が震えていた気がするわ。毛根にも脅しをかけてくださったのかしら?ありがたいわ。
「さすがに公爵家を敵にまわしてまでソフィアちゃんの邪魔をしないと思うのだけれど…おバカな子はおバカなことをしでかさないとも限らないから、念のためアカデミーの教授連にも根回しをしておくわ。だから安心して。これで大手を振って伯爵家を出てアカデミーに入学できるわよ」と、ミランダが快活に言い放ち、見送りに出たソフィアを励ましてくれたときに、言も言われぬ高揚感が心の隅々まで行き渡った。
家族に家族と思われないことはどうでもいい。
それを気にして悩み、悲しむ段階はとうの昔に過ぎた。
高圧的な態度を取る父親よりも、ソフィアをないがしろにする使用人よりも、いかにしてソフィアを痛めつけるかを常に考え実行してくるカレンのほうがより脅威だった。
幼い頃、粗相をして大泣きするソフィアをメイドに命じて外に連れ出し、冬の寒空の中、凍えるような井戸の水をかけさせ、ずぶ濡れにしたまま物置小屋に放置したことがあった。
幸いソフィアの泣き声に気付いた乳母に助け出されたが、高熱を出し文字通り生死の境をさまよった。
医者を呼んでもらえず、保護してくれた乳母も解雇され、部屋に一人取り残されたソフィアは、フクの神力が身体に内包されていなければ、あっけなく命を落としていただろう。
アンヌが伯爵家に来てから命の危険はほぼ無くなったが、代わりに栄養失調ギリギリの食事しか与えられないのはだいぶ堪えた。
しかし、カレンから離れることができれば、もうあんな鳥の餌のような食事をしなくて済む。
成長期の人間に肉を与えないなど万死に等しい。
野菜だけなどもってのほかである。
これからは毎日野菜以上に肉を、いや肉だけを食べよう。
公爵家の広大な領地には、精霊猫の森だけでなく酪農のための牧場が多くあり、そこで飼育される牛などの家畜はどれも付加価値が付いていて、それらの品質の高さと洗練された滋味には定評がある。
茶会で出された軽食や朝食で提供された料理にもふんだんに使用され、そのあまりの旨さに打ち震えたことは記憶に新しい。(ステーキサンドをまた食べたい)
別邸に着いたら叔父君にお願いして、三食すべて肉料理にしていただきましょう。是が非でもそうしていただきましょう。ええ、絶対に。
とにかく肉のことを考えるだけで、口いっぱいに涎が広がり、胸いっぱいに幸せな気持ちが満たされるソフィアだが、実際に公爵家の領地に向かう段になると、その期待は抑えようもなく溢れ出し、フクが呆れるくらい弛み切った顔を馬車内で見せていたのである。
『欲望が駄々洩れの笑顔だな』
「うふふ。にくー」
『さっき軽食でカツサンド食べたじゃない。まだ足りないの?』
「永遠に食べていられるー」
『意地汚い奴』
「ニノン。ブルーノがまた毛を毟られたいみたい」
『嘘ですゴメンナサイ』
『遅いわ!』
『ぐふっ!』
ニノンの尻尾にあっけなく叩き落とされたブルーノが、はずみで車内のあちこちにぶつかった後、アルノルトの足元まで転がる。
「まあ!ニノンは尻尾の動作まで優雅なのね!」
「姉上のブルーノが虫の息なのですが…」
「あらそうなの?ニノンしか視えないからわからなかったわ」
「ご自分の精霊猫より、ニノンですか…」
ミランダにあっさり無視されたブルーノにアルノルトが気の毒そうな視線を向ける。
助け起こしてあげたくても、触れられないためそっとしておくしかない。
肝心のミランダはニノンを愛でるのに忙しいのか、ブルーノの惨状には何の興味もないらしい。
そうなのだ。
今、ミランダはニノンの姿が視えている。
正確には「ニノンの姿だけ一日限定で視えている」のである。
朝食の席でニノンに連れ去られ、見る影もない姿に変貌したブルーノに、さすがのソフィアも怒りを忘れて可哀そうに思ってしまった。
チビと言われたのは許すつもりはないし、フクやニノンに不敬を働いたブルーノが自分で蒔いた種ではあるのだが、人間に加護を与えている精霊猫を無様な恰好にしたままで平気でいられるほど、ソフィアの心臓は強くない。
少しばかり居心地の悪い気持ちを持て余しながら、ソフィアはブルーノのチリ毛状態を正直に詫び、その上でミランダに願いを問うた。
すると「ニノンの姿を見てみたい!」と前のめりに請うてきたのだ。
「ソフィアちゃんの三つの要望のうち二つは叶えたわ。残る一つはソフィアちゃんが成人するまでは難しいから追々考えていきましょう。こちら側の要望はソフィアちゃんが「あの叔父の助手を務めること」と、あちらで起こるだろう「不測の事態の対応をすること」よ」
「…あのとは?不測の事態とは?そもそもの話、叔父君には話が通っているのでしょうか?」
遅まきながら不安に駆られたソフィアが質すと、「もちろんよ」と全く信用できない口調で答えが返ってくる。
不測の事態とやらの説明がまだですが…わざと広い意味を持たせていると解釈するのが正解でしょうか。おそらくお子さま絡みのことですよね。叔父君もきっと一筋縄ではいかない方なのでしょう。
「ソフィアちゃんの能力とフク様の存在を勘案すると、こちらとしては十分な見返りがあるのだけれど、それで物足りないと言うのなら、ニノンの姿を視えるようにしてくれたら嬉しいわ」
むしろそちらが本命なのでは?
どれだけアンヌのことが好きなのでしょうか。
ミランダの精霊猫はブルーノなのに、彼への関心の低さが逆に哀れに思えてならない。
まぁ黒焦げでしかも局所的に脱毛状態のブルーノの姿が視えてしまったら、いくら泰然自若なミランダでも衝撃を受けてしまうかもしれないので、そこはニノンに意識を向けてもらってお茶を濁すのも有りかもしれない。
試しにニノンに訊いてみたところ、視えない人間を強制的に視えるようにするには、アンヌへの加護を少し弱めることになるため、恒久的にその力を与えるのは難しいが暫定的であればとの条件付きで、ミランダに対する一日限定のニノンの可視化が実現することになったのである。
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※次回の投稿は、7月27日(月)20時の予定です。




