10. 猫と出立②
ニノンの許可を得られた話をした瞬間、「今すぐにでも見たい!」と勢いよく迫るミランダを、「これからわたくし達は伯爵家に帰らねばなりません。さすがにもう一泊するわけにもニノンだけ置いていくわけにはいきませんよ」とアンヌが淡々と諭し、ニノンも『ソフィア以外の人間に姿を視せるのは久し振りだわ。アンヌは聴こえる者だからそもそも視せられないしね。毛並みを美しく整える時間が欲しいからワタシの都合に合わせてちょうだい』とサクッと断ったため、ニノンのお披露目は公爵家の領地に旅立つ日まで延期となったのである。
そうして二週間も焦らされた反動なのか、ニノンを目の前にしたミランダの反応は尋常ではなく、こちらが気圧されるほどの熱量を見せた。
公爵家の迎えを受け、アンヌとともに楚々として馬車に乗り込み、無事に出発できたことにほっとしたソフィアだったが、頃合いを見計らってニノンが姿を現した瞬間、ミランダが声にならない声を上げ、頬を一気に紅潮させたと思ったら、そこからずっとニノンをガン見し続けているのだ。
寝そべりながらニノンの腹毛の感触と肉球の匂いを堪能しているソフィアを見ても「少女を慈しむニノンの表情が尊いわぁ」とうっとりと見惚れている。
ちなみに私の努力および労力を最大限に注ぎ込んだお陰で、ニノンの毛並みはフワフワでツヤツヤでキラキラである。
「ミランダ様。ニノンを可視化できるのはたった一日です。その限られた時間を無駄にしてはいけません」
子供のように興奮を隠し切れないミランダに周囲が呆気に取られる中、一早く冷静さを取り戻したアンヌが、落ち着いた物腰で紅茶を供した後、大きな鞄をソフィアに差し出した。
「ミランダ様にご用意いただきました。こちらを使い、思いのまま存分に描いてくださいませ」
それは普段のソフィアであれば手にすることも叶わない、高級な画材道具一式であった。
質の良い鉛筆や銀筆、滑らかで上質な羊皮紙、厳選した毛を使った絵筆、高価な鉱石や天然素材の顔料など、ずっと焦がれてやまなかった美しい道具の数々に、思わず目が釘付けになる。
「…本当にこれらをわたくしに下さるのですか?」
「もちろんよ。ニノンだけでなくこのわたくしも描いてもらうのだから、中途半端なものを提供するわけにはいかないわ」
信じられない思いで問いかけるソフィアに、ミランダが鷹揚に頷いて見せる。
「とりあえず様々な場面の素描を何点か描きとめ、後々画布に色彩を施してもらいたいわ。時間が許す限りニノンとわたくし、ニノンとわたくしとアンヌお姉さま、そしてわたくしとアンヌお姉さまの姿を余すところなく肉筆してちょうだい!」
最後はニノンが居ませんが良いのですか?
「早速わたくしとニノンを描いて欲しいわ。邪魔だからアルノルトはどいてちょうだい」
「どけと言われてもどこに…」
「ソフィアちゃんの隣で良いじゃない」
『良いわけないだろう!未婚の男女が馬車に同乗するだけでなく隣り合わせに座るなど、我は断固反対する!』
ソフィアが猫をかぶる状況でないにもかかわらず、あっという間にニノンと変わらぬ大きさに膨れ上がったフクが、ソフィアとアンヌの間にドスッと座り込む。
『こちらの席はもう満杯だ。他の馬車に移るがよい』
憮然とした面持ちのフクが梃子でも動かない姿勢を貫く。
貴族や富裕層の大型馬車は大概四人乗りだが、公爵家の馬車は六人乗りで一回りも大きい。
アンヌと横並びに座るソフィアの隣にアルノルトが移っても十分に余裕があるのだが、それを受け入れる気がフクにはないらしい。
もちろん他にも数台の馬車が追随しているのだが、ミランダの侍女達が乗る馬車は言うまでもなく、荷物を積んでいる馬車に貴族令息のアルノルトが移るわけにはいかない。
それはフクも重々承知しているはずなのだが、先日ミランダの口から冗談交じりにアルノルトとソフィアの婚約の話が出て以来機嫌が悪く、彼を忌避するきらいがある。
時折『嫁に出すにはまだ早い!』とアンヌに向かってぼやいては、「フク様の過保護は相変わらずですね」と笑われ、『お主には負けるがな』と返すのがここ数日のお決まりのやり取りとなりつつあるのだ。
「フクが真ん中に居るのなら、アンヌがアルノルト様と場所を交換すればいいわ。それならわたしとアルノルト様が隣り合わせにはならないでしょう?」
「あら。それも良いわね。アンヌお姉さまとなら密着も大歓迎だわ」
結局ソフィアの提案通りに座席の変更を行うことになったのだが、フクにわざとらしく威嚇されるアルノルトの居心地が悪そうだ。
ちょっと可哀想かも。
あとでリュカとアルノルト様の素描も描いてあげよう。
それからのソフィアは忙しかった。
まず初めて手にする高価な画材道具を細部まで検分し、その美しさと描き心地をあらゆる角度から堪能したかったのだが、時間に制限のあるミランダに急かされ、馬車内のみならず休憩時の野外でも、ひたすらミランダとニノン(時々アンヌ)の姿を描き続けた。
質の高い画材のあまりの描き味の良さに、どんどん筆が進んでしまったのもあるが、ついでに創作意欲も刺激され、ミランダ達の多彩な表情をこれでもかと描き上げた結果、手持ちの羊皮紙の半分をつい使い切ってしまった。
二回目の休憩の際、野外の手頃な場所に敷布を広げてもらい、ソフィアはぐったりと横になる。
人目に付く場所で貴族令嬢が寝姿を晒すなど、通常であれば有り得ないことなのだが、ミランダの使用人や護衛達は、ソフィアが一心不乱にミランダ(+ニノン)を描いているのを見ていたため、その奮闘ぶりに敬意を称して全員ソフィアに背を向けていてくれた。
秋風がやや冷たいが、意識を集中し過ぎて火照ってしまった身体にはかえって気持ち良く感じる。
ぼーっと空を仰ぎ見ているだけなのだが、初めて伯爵家を離れ、初めて遠出していると思うと、とても晴れ晴れとした気分になる。
カッセルズ家のある郊外は、中央区の華やかさには及ばずともそれなりに発展しており、ソフィアとて街の賑やかさやを楽しみ、人々の生活や喧騒の中に身を置いてみたかったのだが、カレンに言い含められた使用人達に行動を制限されていたため、彼らの目を盗み自由に外出するのは難しかった。
屋敷内で味方はアンヌ(+フクとニノン)だけで、時折イレーネ先生(+ザカライア)が指導に訪れてくれるものの、本当は外に出て様々な経験をしてみたかったのである。
ミランダは木陰に寛げる場所を設け、ニノンを横に侍らせながら、ソフィアの描いた素描を一枚一枚入念に吟味している。
アルノルトは若干縮こまって座っていたせいか、身体を伸ばしたりほぐしたりして、護衛達と軽く言葉を交わしている。
フクは大きさそのままに、ブルーノを追い掛け捕まえ咥えて、振り回して放り投げて遊んで(?)いる。
馬車を下りる際に「でかくなったらブタ猫感が増したな」とブルーノがボソッと呟いたのを聞き逃さなかったフクが、「反省を身体に刻み込んでやる!」と、がっつり憤懣をぶつけているようだ。
「あれだけ痛い目に遭ったのにブルーノは変わりませんね」
微苦笑を浮かべたアンヌがそっとソフィアの隣に座ると、
「お疲れですか?」
と心配そうにソフィアの顔を覗き込む。
「ちょっと腕が痛いかも」
「街道沿いの宿まであと少しです。そこまでの車内はのんびりさせていただきましょう」
「アンヌは大丈夫?」
「座りっぱなしはさすがに腰とお尻にきますね」
「宿に着いたら揉みほぐしてあげる」
「それはわたくしの台詞ですよ」
ソフィアの言葉にアンヌが顔をほころばせ、用意していた飲み物を差し出す。
弾みをつけて起き上がると、グラスに注がれたそれを受け取り喉を潤す。
檸檬と生姜のコーディアルを溶かした紅茶はソフィアのお気に入りだ。
今回は予め作って冷ましておいたものをアンヌがわざわざ持参してくれたらしい。
「ふぁ~生き返る」
「後ほど軽食もお持ちいたしますね」
「え!それはもちろん…」
「お肉ですよ」
侍女達がてきぱきと働いている場所にアンヌが視線を向けると、それだけで通じたのかミランダの専属侍女が流れるような動作で軽食をトレーに並べてアンヌに渡す。
目配せだけで意図を汲むなんて、どれだけ仕事ができる人なのか。
しかも今回も肉尽くしの軽食!好意のメーターが振り切れそうだわ。
一口で摘まめる大きさの、ローストチキンと卵のサンドイッチやソースたっぷりのカツサンド、ミートパイや冷製の仔牛肉のスライス、デザートに葡萄と梨のコンポートまである。
「こんなに幸せでいいのかしら…」
うっとりと目をつむりじっくりと肉の旨味を味わうソフィアに、アンヌは何とも言えない気持ちになる。
本人はあまり意識していないだろうが、ここ最近の食生活が改善されたせいか、ソフィアの身体が少しずつ丸みを帯びてきた。
女性らしい輪郭を描くまでにはまだ遠いが、適度に栄養のあるものを食べれる環境にさえあれば、近いうちにふっくらとしたの健康的な身体つきになるだろう。
本当にあのカレンさえ居なければ…アンヌがソフィアを庇い、明らかに味方だとわかるような行動をとってしまうとソフィアの専属侍女を外される恐れがあったため、表向きは野暮ったく愚鈍な使用人を装い、ソフィアが虐げられるのを止められないのがどれだけ歯痒かったことか。
そんな積年の憂いを晴らすかのように、ミランダが用意してくれた支度金で、ソフィアの装いをこれでもかと整えた。
公爵家の令息令嬢と並んでも見劣りしないよう、かつ行き過ぎたものにならないよう、信頼できる商会を通じて購入し、また別邸でソフィアが過不足なく快適に過ごせるよう、考え付くものを次々と買い調えていったのだが、それを嗅ぎ付けたカレンの行動がまた酷かった。
公爵家の茶会にソフィアが招かれたこと、ミランダに気に入られ彼女の庇護下に入ったこと、ヴァイス家の領地別邸に赴くことになったこと、その準備のために公爵家御用達の商会でソフィアが買い物をすること、それらすべてを父親のレイモンドから聞かされたカレンは荒れに荒れた。
ソフィアがアカデミー高等部の推薦入学試験に既に合格し、特待生の資格を得たからだと一応説明したのだが、そんなことはどうでもいいと、なぜミランダやアルノルトと年齢の近い自分ではなく、成人前のソフィアが公爵家に選ばれるのだと、執事のバリーが止めるのもきかずにレイモンドに食って掛かった。
今まで父親の前ではトラ猫のデボラを最大限にかぶって本性を隠していたのに台無しである。
挙げ句にソフィアが購入した商品を根こそぎ奪ってやる!とばかりに使用人達を差し向けようとしたところ、これはさすがにバリーに阻止された。
あれだけミランダに念を押されたのに、公爵家の支度金で購入したものをソフィアから取り上げようものなら、どんな処罰があるのか…せっかくソフィアとの交換条件として提示された、レイモンドの昇進とカレンの縁談が取り消されるだけならまだ良いが、「公爵家に楯突いた愚か者の家」の悪評が社交界で広まった日には目も当てられない。
そんなことすら想像できないほど、カレンの頭の中はソフィアへの憎しみと、絶対に幸せにはさせないという、ねじ曲がった執念で溢れていたのである。
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※次回の投稿は、9月7日(月)20時の予定です。
※夏休みに入り本業が多忙になるため、一ヶ月ほど連載の投稿を休止いたします。




