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月ノアナタニ  作者: 下鳥
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‐wine,woman and song‐

 どうやら世界は廻っているらしい。眼を覚ました瞬間そう思い、世界が僕の知らないところで廻っていることに軽くめまいを起こした。まったくこの癖はなんとかならないものか。

やはり璃音に昼前に起こされた。さすがにテーブルに食事は用意されていなかった。正午直前に食べるのも中途半端なので昼時まで待つことにする。今までは自分の好きなタイミングで食べていたから朝ご飯も十一時を回って食べて昼ご飯は三時とか四時とかそれも抜くことが日常になっていた。夏休み限定の退廃した生活だ。だが璃音は昼ご飯は正規の時間だろうし、それに合わせることにする。

 まだ寝ぼけているのかどうも現実感がない。起きた瞬間の感じがまだ残っている。こういうことはバスで寝過ごしたりしているとよく起こる。本当に自分が自分なのか自信がなくなるのだ。そんな疑問自体がおかしいんだろうけど、感じとして頭にもたげてくるから面倒なのだ。いかに証拠を示したところで奇妙な感じは拭い去らない。そういう時は自分が自分であるようになるのを待つのみだ。ちょっとすれば戻ってくる。「よう」っていう感じで。ちょっと馴れ馴れしい友達のような感じで。もっともそんな友達いないんだけども。

 ほどなくして昼時になりご飯を作る 。その最中、璃音の目は注意深く僕の調理に向けられていた。ひたむきさが微笑ましい。

「見られてるとちょっとやりにくいんだけど?」

「やっぱり今のままでは駄目でしょ」

「璃音は今のままでいいよ」

「嬉しいけど甘やかさないで」

「少しずつ学んでいけばいいさ」

「うーん」

 なにやら璃音は納得できないようだ。

「それに僕だって戦う時に璃音の手助けができればいいんだけどね」

「そっか。なにか方法はないかな」

 考えても無駄だ。僕が力になれることなんてない。変にあれこれ考えて不注意になってもしょうがない。

「それと同じことだよ。僕だって璃音の役に立てないことなんてたくさんあるんだし」

「それとこれとは話が別。わたしはマスターのメイドなんだから」

 話をすり替えようとしたがばれてしまった。

「わたしはマスターの要望に応えないといけないの」

「それなら璃音は食事を作らなくていいという要望にしよう」

「それはなんかずるい」

「ずるいけど?」

「でもわたしはマスターがなんとか戦いに参加できるように考えてみるから」

 あれ、いつのまにか墓穴を掘ってしまったか? 正直、一介の高校生たる僕に敵の攻撃とか避けられる自信とかないぞ。って最初から逃げ腰なのかと自分に呆れてみる。

 その後、二人でソファに座りテレビを見る。璃音の方を窺うとただなんともなしにぼーっっと前方を向いているって感じだ。なんか戦いの時と違って気が抜けている。というか抜けすぎているような。このまま攻撃したら当たるんじゃないか。とか思ってみるとだんだん行動に移したくなるのが常で頬をでこぴんで軽く弾いてみる。

「痛っ、なに?」

 命中してしまった。

「あ、いや、えっと、今気になったんだけど、この文字って璃音の名前?」

 僕はリボンを示す。そこには英語のスペルがつづられている。訊いてみてから普通はブランド名とかじゃないかと思ったけど、その場しのぎで質問したから仕方がない。

 璃音は呆れたように言った。

「アルファベットなんだから聞く前に自分で読んでみようよ」

「違う、よね?」

 なんでわれながら自信なさ気になってしまうのかわからないが、頭文字がHとBだから両方とも璃音の名前ではなさそう。さらに日本の名前の連なりではないとわかる。

「送り主の名前」

「えっと、やっぱり元の持ち主の名前だから、あれか、子どもが持ち物に名前を書いておくみたいなものか。失くしてもわかるように」

 外国人の知り合いなんてついぞできたことがないな。僕には遠い世界だ。

「それって馬鹿にしてない?」

「いや、してないって」

 璃音のちょっと本気の目にたじろぐ。

「ふーん、ならいいけど」

「……えっと、璃音さん、怒ってます?」

「怒ってませんけど?」目が怖い。

「いやー、それはよかった」

 自分でも渇いた笑いだとわかる。

「さて、特訓のメニューでも考えよっかな」

「ちょっと?」

「どうしようかな。滅茶苦茶厳しくいこうかな」

「えっと?」

「うーん、どれにしようかな」

「あの?」

「腕立て百回とか?」

「僕が悪かったです。許してください」

 素直に頭を下げることにした。

「ま、全然怒ってないんだけどね。でももしもの時のためにってこともあるし。戦うためにはまず早起きして体を鍛えることが必要だね」

「僕に早起きをしろと?」

「うん」

 お前はうちの母親か。いや、母親はそんなこと言わないけど。

「今の状態だときついかな」

「どうして?」

「もう体が夜型になっているし」

 というか敵も夜襲ってくるし。朝から起きてたらもたないぞ。璃音は僕より早起きしてるし、よく耐えられるな。やっぱり出来が違う。

「今までどう過ごしてたの?」

「うーんと、暑いって思いながら起きて、下に降りて行ったら朝ご飯があって、それを食べて、なんか色々テレビ見たりマンガ読んだり読書して昼ご飯食べたり食べなかったりしてると、夜ご飯の時間になって、それを食べて、それで……」

「それで?」

 璃音が続きの言葉を待っている。でも、出てこない。急に言葉の続きが出なくなってしまった。今まで自分が言っていたことさえ意味が通っていたのかさえ不安になる。

「それで、終わり」

「ふーん」

 あれ、なんかおかしい。なんでこんなことになってるんだ? いや、そもそも何がいけないんだ? いけないことはないと思う。だって僕は変わらないことを望んでここまでやってきたはずだ。でもなんかすっきりしない。一体、なんなんだろう。僕はどうしちゃったんだろう。

「えっと、何の話だっけ?」

「マスターに戦うための体力をつけようって話」

「そっか。もともと朝起きるのが苦手だからなぁ」

「わたしが起こしてあげるよ」

「それだとさすがに起きると思うけど。で、何するの?」

「ランニングとか素振りとか」

「急に体を動かすのはいけないと思うんだ」

「慣れだよ、慣れ。時間を経れば慣れるって」

「というか最近あまり日のあるうちに外に出てないんだよね。この前久しぶりと思ったらとんだ目に遭ったし」

「そっか。じゃああまり外に出ない方がいいかもしれないね」

 急に意見を変える璃音。どうやら自分の落ち度を気にしているらしい。

「いや、でも、別に璃音が外に出たいならそれでいいよ? 璃音だって外の空気も吸いたいだろうし」

「わたしはマスターに従うよ」

「いや、璃音の気持ちを聞いてるんだよ」

「マスターの気持ちを聞いてるんだよ」

「……璃音が甘えてくれないと寂しいなぁ」

「卑怯だよ、それは」

「何のこと?」

 白々しいすっとぼけに璃音はしょうがないという感じで言った。

「わかったよ。本当は外に出たい」

「了解」

「さて、マスターにはどんな目に遭ってもらおうか」

「え?」

 まさか今日から特訓とかじゃないだろうな。なんかさっきからやけに僕を追い詰めてきているような。璃音って僕を助けてくれるはずだよね。それとも味方だと思っていたのが実は敵だったパターンですか?

「嘘だって。戦闘に関することには違いないけど。やっぱり地形とか押さえておいた方がいいと思うし」

「そっか。うーん……」

 言ってみたものの璃音ってすごく目立つんだと思うんだよなぁ。あのお姉さんも歩道橋にいた時、浮いていたし。いやあの人は物理的にも浮いてたんだけど。

「やっぱり外に出ちゃダメ?」

「いいけど……ちょっと待って」

 僕は二階に上がる。

「部屋入るけど、いいよね?」

「うん」

 今は璃音の待機室となった姉の部屋に入る。と、あの日、璃音が僕を外に連れ出した日のことが喚起された。

 タンスの上に視線を滑らせる。やっぱりサイコロはない。他には姉のハンドメイドの品々が置かれている。主にフィギュアとかだ。僕と正反対で手先が器用なのだ。そうした技術的なもの以外にも、人の、少なくとも僕の感情に訴えるフォルムが施されている。まるでそれらが意思を持っているかのように思えてしまうのだ。と、そんなことを考えている場合じゃなかった。まずはすべきことをしよう。

 姉の持ち物を物色し、出てきた帽子を一通り並べてみる 。

「何してるの? マスター」

 あまり目当てのものはなさそうだな。

「はい」

 璃音の頭に麦藁帽を被せる。意味するところがわからなかったらしく首をかしげたものの、璃音はとりあえず確認するように帽子を押さえる。

「これ被っていこう」

「うん」

 璃音が髪を結ぶ位置を変えてからいざ出発 。麦わら色(?)で金髪が目立たないかなとか期待したけど、全然駄目だった。だってメイド服なんだもの……隠せるはずがない。なんでメイド服でいけると思ったんだろう。僕の無意識の中ではメイド服での外出は許容範囲なのだろうか。そんなはずはない。

 しかしメイド服をどうするか。冬だったら上着で隠すことはできるんだけどなぁ。だけどとりあえず自分はできることをしたということでいいことにしよう。昨日の夜中、璃音が言った通り自分に甘くいこう。おかげで麦藁帽とメイド服といういでたちになってしまったけど。

 璃音は僕がぐだぐだ考えているのも知らずに軽やかに歩を進めていく。

「どこ行くの?」

「どこ行きたい?」

「どこでもいいよ」

「璃音の偵察なんだから」

「マスターが決めてください。わたしはついていきます」

「急に決定権を委ねやがった」

「へへっ」

 璃音はいたずらっぽく笑う。

 とりあえず言えることは街には行きたくないということだ。せっかくの夏休みに誰か知った人に会いたくない。

「じゃあ付いてきて」

「了解」

 着いた先は河川敷だった。ベンチに腰を下ろす。さすがに夏の昼間では人もそれほどいないだろうと踏んでのことだったけど、あまり変わらないような気もする。よくもまあこんな暑いのに。

「平気?」

「うん」

 璃音は笑顔で応じる。その無邪気さに僕はたじろいだ。

「そう、よかった。どこが行きたいところが浮かんだら言ってね」

「はーい」

 元気よく応えつつ璃音は、足を前に投げ出しぱたぱたさせている。退屈なのかどうか判断がつきにくい。しかし、鼻歌とか歌い始めているし大丈夫か。というか……。

「ちょっと日陰まで歩かない?」

 僕の方が日差しに耐えられなくなっていた。情けない。堪え性の無いマスターで申し訳ないと心の中で謝罪してみる。

「はーい」

 璃音はすくと立ち上がる。じきに日陰のベンチが見つかり座り直した。

 頭上の枝葉が風にあおられ、ざあざあ音を立てる。

「平和だなぁ」

「そうだね」

「また夜になると戦うのかー」

「うん」

「大変だね」

「そうだね。でも、それが定めだから」

「敵はどうしてやってくるんだろう?」

「ねぇ、マスター」

「うん?」

「こんなお天気がいい日に敵のことなんて忘れようよ」

「あ、ごめん」

「いいんだよ。マスターの方が言ってることは正しいし。これはわたしのわがままだから」

 璃音は苦笑した。

「いや、僕の方こそごめん。無神経だった」

「ううん、マスターは優しい人だよ」

「臆病なだけだよ」

 それを知っているだけに質が悪いのだ。

「今はそれでもいいよ」

「今は?」

 璃音は答えないで日向に飛び出した。踊るように小さな花々の間を進んでいき、やがて腰を落ち着けた。

「いっちばーん」

 二番目は続かない模様。

「あれ、来ないの? なんで?」

「暑いから」

「暑いのがいいんじゃん」

「それは僕にはない感覚だったな」

「ダメ?」

「ダメっていうほどじゃないけど」

 僕は腰を浮かせる。

「うわぁ、やっぱり暑い……」

「はい、座って座ってー」

「はいはい」

 璃音が笑いかける。僕もそれに応える。

 茹った大地の熱気を至近距離で受け止めるためダメージが大きい。思わずため息が漏れそうになる。というか小さくは漏れた。

 川べりの風景を見る。散歩をする人、ジョギングをする人、スポーツをする人、楽器を吹いている人、おのおの自分の時間を楽しんでいる。

「ふー」

「うわっ、なに?」

 驚いて振りむと、どうやら璃音が耳に息を吹きかけたらしい。

「なに?」

「じゃん」

 お手製(?)の効果音付きで差し出されたのは綿毛になったタンポポだった。

「ふー」

 今度はそれを吹きかけてきた。

「なにするんだよっ」

「いぇーい」

「いぇーい、じゃないよ」

「へへー」

「へへー、でもない」

「なにをー」

「それはこっちのセリフ」

「やってくれたなー」

「それもこっち」

「もういっちょ」

「なにがだ」

「綿毛」

「やめてほしい……」

「なんで?」

「嫌だから」

「じゃあ、やめとこ」

 ぱっと綿毛を離した。素直だった。

「どうもありがとう」

 心優しいメイドは深呼吸してから、こちらを見てくる。だが何も言ってこない。

「うん?」

 僕は首を傾げ 疑問を呈してみる。

「うん?」

 璃音も疑問を投げ返す。

「何?」

「何?」

「いやそっちこそ」

「いやそっちこそ」

「いや違うでしょ」

「マスターが先に訊いてきたんじゃん」

「璃音が訊いてほしそうな顔してたんでしょ」

「そんなこと言ってない。言いがかりだよ」

「そう言われたら何も言えないんだけどさ……」

「マスター、いけないよ?」

「何がさ」

「言いがかり」

「わかったわかった」

 それでも璃音はさっきと同じようにこちらを見ている。僕もとりあえず待ってみる。でも、少し待っても何も言ってこないので本当に何もなかったのだと河の方に目を向ける。

「マスター!」

 璃音は両手を前に投げ出していた。金色の髪がキラキラ反射している。小さな爆発だ。

「なにさ」

「呼んでみただけ」

「そう」

 僕はまた河の方を見る。

「マスターは呼んでくれないの?」

 ちょっとさみしそうな声に向き直る。

「名前」

「名前を呼べばいいの? り――」

「ちょっと待って」

「なに?」

「それだとなんかだめ。すごいなおざりな感じだった」

 やたらに面倒くさい子になっているな。それでも初め会った時みたいにつっけんどんにされるよりかはよほどましか。

「わかった。やり直そう」

 テイクツー。僕は河に向き直る。

「マスター!」

 呼び掛けにグッドポーズをしてみたりする。

「璃音!」

「はいっ」

 璃音は元気よく手を挙げた。その目は続きの言葉を待っている。ただ改めて返そうと思うと、何を言っていいか分からない。

「うーん、飲み物買ってくるから待っててくれる?」

 ただ後付けだ。璃音はまたしても元気よく応えてくれる。

「飲み物なにがいい?」

「おまかせで」

「了解」

 璃音ならついてくると思ったけどよほど居心地がいいのだろうか。むしろ璃音が変な人から声が掛けられないか不安だ。というのは過保護過ぎだろうか。おかしな関係性だ。でも完全に力抜いてるし配慮は必要だろう。この町の人からしてみると璃音の方が変なやつなんだろうけど。

 一歩一歩がだるいけど璃音も待たせてあるし、ちょっと急いで自販機から調達。

 遠くから見える璃音。可憐な花とともにちょこんと座っている。やっぱり一人でいる方が様になる。僕が絵描きなら間違いなくモチーフにするだろう、なんて浮かれたことを思ってみる。実際、日光によって頭が浮かされてるし。

「おまたせ」

「ありがと」

 眩しい笑顔で返してくる。お使い冥利に尽きるぜ……ほんと頭が茹でられているな。

「どう? お口のほどは?」

「ありがと」

「よかった……ねぇ、日陰いかない?」

「んー」

 璃音はペットボトルから口を離さずに賛同する。

「暑くないの?」

「んぁい」

 僕は暑い。いかに日が傾いているとはいえ昼過ぎは真昼とまた違った様相を呈している。削られるような暑さだ。途端、今まで包んでいた音が遠く感じられ、木々だけがざわめく。この感じはおそらく――。

「璃音」

 璃音ももちろん了解していた。ハンマーを握り戦闘態勢に。

「今日は少し早いね」

「そうだね。わたしも予想していなかった」

「でもあまり危険な感じはしないね」

 璃音がリボンを外す。その無防備さに心臓がどきりとした。僕の心配をよそに当の璃音はリボンを口にくわえつつ慣れた手つきで髪を束ねた。

「何してるの?」

「上で結ばないと気合が入らない」

 そんなものか。おそらく僕にはわからない戦いの感覚があるのだろう。璃音が歩き出したので僕もついていく。上流に向かう。

「まだ具現化していないんだと思う。それでもあまりにも微弱。もしかしたら前回の様に抜けた相手かもしれない」

「それだったら助かるなぁ」

「マスターの実力も測れるしね。どちらにせよマスターに負担はかけないようにするつもりだけど」

「水臭いことは言わないでさ、僕にも頼ってくれれば嬉しいかな」

「うん、本当に大変な時は言うからさ」

「ということは戦う時はピンチってこと?」

 そこまで力になれるかな?

「でもないと思う。あくまでも補助という感じ。基本的にはわたしが戦うから」

「了解」

 時々、軽くハンマーを振りながら歩を進めていく。それで嫌な空気はいくらか紛れる。

 もう随分と河を上ってきた。やはり地に足が着いている方が落ち着く。跳んでいる時は一緒に手を繋いでいられるけどそんなことは戦いには関係ないことだ。それに璃音は璃音でいた方がやはり様になるのだし。僕が隣にいるのは単に璃音が必要であるからに過ぎない。僕の個人的な考えなんてどうでもいいのだ。

 延々と歩を進めて原点に立ち返る。はたしてどこに向かっているのだろう。なぜこれまで気にも留めなかった河を夕方とはいえ夏の日ざしのもと歩かなければならないのだ。今までの敵は夜遅くに出てきた。なんで今回の敵はこんな時間に出てくるんだ。疑問がふつふつと湧いてきて怒りすら覚え始める。

 しかし考えてみればこれは璃音の試練なのだ。試練なのだからこの地獄めぐりも必要なことなのだろう。そう自分で納得してみようとした。しかし璃音はこの暑さを気にしてない。単に僕が虚弱と言うだけの話だった。

 日がずいぶんと落ちてきた。河沿いの木々や住宅がシルエットだけになりつつある。単純に綺麗だと思った。日差しがあればその姿は晒される。完全に夜になると闇にまみれてしまう。その中途半端な感じがいいのかもしれない。

「うーし、プレイボール」

 あまりしゃきっとしない宣言が橋の下でくぐもって伝わる。

はっと我に返った。またどうでもいいことを考えていた。集中しないと。

「“逃げるが勝ち”」

「“敵にはあらゆる手段を使ってよい”」

   向こうに二つの人影。片方は姿勢よく直立し、もう片方はしゃがんでいる。

「マスターと楽しくしてるっていうのに無粋ね」

「不要な時間はいくら積み重ねても無意味だ」

 またもや黒服の女性たち。一方は正装のスーツ。細い緑の蝶ネクタイ。髪はしっかり整えられている。顔に走る大きな傷。もう一方はTシャツにだぼついたジーパンで、衣服がところどころ破けている。腕に青のリボンが巻きつけられている。くせのある髪の毛はおそらく天然のものだろう。共通しているのは、二人ともサングラスということ。

「マスターと過ごすこの時間のかけがえなさをあなたにわかるわけがない」

 くせ毛の少女が口笛を鳴らした。手袋を装着しながら立ち上がる。

「おあついねー」

「ふたたび言おう。無意味だ」

 くせ毛の少女が傷の少女の後ろに重なる。と同時に傷の女がその武器を構えた。大きな槍。って、もう一方は――。

「握手しようぜ」

 くせ毛の少女が僕の隣にいた。一気に体が緊縮する。

 いつの間に……。

「握手」

「え、あ、はい」

 僕が素直に応じると、彼女は僕を抱きしめてきた。

「期待してるぜ、おにーちゃん」

「なっ――」

 璃音にもう一方が突っ込んでくる。

「お前の相手はわたしだ」

 璃音は素早く反応する。『モノトーン・リフレッシュ』で牽制。空間に円を刻――まない。とっさに『カラフル・リフレクション』で敵の攻撃と相殺する。このまま押し込まれると思ったが素早く両者とも撤退した。くせ毛の敵もこちらから距離を取る。

「深追いは禁物ってな」

「次に攻撃を交えた時がお前の最期だ」

 敵が川の真ん中を突っ切っていく。璃音と僕もそれを追撃する。だがそう簡単に距離が縮まることはない。別に追いかけながら遠距離攻撃もできるはずだけど璃音はそうしない。とはいえ璃音のやり方に口を挟むなんて無粋なことはしない。怒られそうだし。

「マスター、今何考えている?」

「え、ごめん。また、いろいろ考えてた。戦いに集中しないとね」

「そうだね」

 うん? それだけか? 怒るでもなく呆れるでもない。璃音らしくないはっきりしない答えだ。どちらにせよ戦いに集中するにこしたことはない。

 とはいえ敵は川の真ん中を通って上流に向かうばかりで他のアクションがない。一応、こちらの動きは窺っているようだけど。

「……もしかして誘導されてる?」

「まーね」

 璃音はこともなげだが、やっぱり煮え切らない態度だ。誘導されているなら誘導されているで策があるんだろう。しかし僕にはちっともわからないのだからしょうがないといえばしょうがない。

 璃音を相手にわかりやすい力勝負を敵は避ける。つまり敵が本格的に戦うとなればなるほど派手にやり合わなくなる。そうすると今がどういう状況なのか僕には理解できなくなるのだ。いかに激しいやりとりが伏在していようと僕の眼に映るのは停滞でしかないのだ。

 敵はどんどん河を上がっていく。次第に河の両側には木々が生い茂るようになる。どんどん山間に入っているのだ。敵はあるポイントで河を離れ、木々の奥へ入っていった。璃音は躊躇せず敵の背中を負う。敵が浮遊しているのに対し、こっちは木の幹を踏み締めて跳んでいく。

 璃音が今の状況に注文をつけようとハンマーを振りかぶった時だった。敵は槍を勢いよくことらに投げ込んできた。璃音がそれを弾くと敵は左右に散開。僕らは地面に降り立った。

「どうする?」

「こういう時は弱い方から叩こう」

「弱い方ってどっち?」

「くせ毛、あのむかつくくせ毛の方に決まってる」

 いつの間にかくせ毛の彼女に怒りを抱いているようだった。何かあったっけ。もしかしたら以前からの因縁の敵なのだろうか。

「じゃあ、左だね」

 僕が左に重心を移そうとすると璃音が言う。

「多分もうそっちにはいない」

 刹那、璃音が素早く回転し衝突音がした。宙から槍が回転しながら落ちてきた。どこからか飛ばされてきたのを璃音が防いだということだろう。

「どうやらあまりゆっくりはさせてもらえないみたいだね」

 璃音は鼻を鳴らした。

「お茶でもできるくらい余裕」

 どうやら切迫した状況ではないらしいが、かと言ってこちらからどうすることもできない。

 断続的に敵の槍が飛んできては璃音が弾く。単調な攻撃であるが璃音も隙を見せないから敵も追撃をかけることができないのだろう。

 気がつくと璃音が足をたん、たん、たん、と踏み鳴らしていた。あれ、璃音ってこんな癖あったっけ? どうやらその言葉を裏腹に気が急いでいるらしい。

「璃音?」

「――っと、ごめんなさい」

「大丈夫?」

「大丈夫だよ……って、マスターに気取られるようじゃダメか」

 璃音はこちらを見て一泊置くと、

「あまり心配かけてマスターの集中力を落とすのもなんだから先に言っておくね。マスター、わたしの試練って覚えてる?」

「虹の色を集めるだっけ?」

 璃音は頷く。

「これまで三色を手に入れた。じゃあ初めからあった赤に紫、橙、黄色を混ぜるとどうなると思う?」

「えっと、ごめん。わからない」

 なにせ美術の成績で二をとったこともあるくらいなのだ。

「別に何色になるかなんて聞いてないよ。要は赤色じゃなくなるってこと」

 僕は頷く。璃音は自分のてのひらを見ながら呟いた。

「固有の色の力に違う色が混じると固有の色の力はなくなるってこと」

 ……ああ、そっか。なんでこんなことに気づかなかったのか。

「もう端的に言っちゃうね。わたしはもうマスターの考えていることはわからない」

 目の前にいるのに璃音をどうしようもなく遠く向こうに感じた。むしろそんなの当たり前なのに。そんな安っぽい反応をする自分が嫌になる。

「さらにこの前みたいな遠距離攻撃の奇襲ももうできない。近接技しか使えなくなっちゃった。ま、それはわたしが接近戦でなんとかすればいい話だけど。子どもたちの力は二人で一つだったのは不幸中の幸いだね」

 坦々と話す璃音に対して僕は体を強張らすしかなかった。

「マスター、そんな不安げな顔しないで。心配はしなくていいから、ちゃんとわたしのこと見ててね。こんな風にろくに月の光が届かない状況でマスターがこっち見てるかの確認なんてできないんだから」

「絶対に目を離さない」

 こんな切迫した状況なのに璃音はなぜか少し顔を綻ばす。

「さて、どうやって敵はこちらの位置を補足しているんだろうね。わたしでも敵の気配を感じることができない。ということは少なくとも今ここ十数メートル敵はいないはず」

 璃音がまた飛んできた敵の槍を弾く。

「でも槍をこちらが持っていたらどうなのかしら」

 そう言って璃音は茂みに隠れた槍を取りに行く。が、そこに敵の姿が現れた。敵の攻撃を間一髪で璃音は躱す。

「どうして!? 今までまったく気配がなかったのに」

 璃音が反撃に転じる間もなく敵は森の奥へと退いた。

「何が起こってるっていの?」

「とりあえずここに留まっているのは不利みたいだね」

「でもここから脱出するためには方角を掴まないといけない」

「そうか。じゃあ、どうすれば……」

「一応、斜面を下りればいいと思う。一番確実なのは跳んで確かめることだけど」

「それには敵の攻撃が待っている」

「多分ね」

「かと言ってこのままでいるのもまずい」

「神経戦、持久戦ね。敵はどういうからくりかこちらの位置を把握しているし。その攻撃を避けなくちゃいけない。それにマスター自身の体力の問題もあるだろうし。いや、ぞれよりも」

「なに?」

 璃音は辺りを一瞥する。僕もそれにつられて視線を合わせる。

辺りは日没から時間が経ち、暗闇が広がりつつある。一つひとつの物音が大きく聞こえる。何かが鳴き始める。

「この場所自体がマスターにとっては好ましくない。慣れていない」

「なるほど。あまり来たことがないね。こういうところは」

 でも嫌いではない。むしろ――。

「わたしもここは得意とは言えない。だからなおのことここから脱出したいんだけど、どうするか……ちょっと考えさせて」

「了解」

 璃音は視線を飛ばす。その真剣な眼差しが僕の心を揺さぶった。璃音は一つの完成された世界の中にいた。僕が見ていることすら無粋となるような完璧さ。いや僕が見ていようが見ていまいが関係ないと本当は言いたい。璃音は僕の眼が必要だと言うけどそんなことはあってほしくない。しかしそれは僕にとって僕が必要ないだけで、最終的には僕の必要性は璃音が決めることだ。

 璃音は頭上に光の円を描き、辺りを照らした。璃音がぐるりと見回し、僕もそれに合わせる。

「やっぱり近くにいるわけじゃないのね」

「こんなに明るくして大丈夫? 的になったりとか」

「大丈夫。攻撃が飛んできても弾けばいいし、近接戦ならこっちもそれなりに戦える。なによりこの明かりが届くくらいにはわたしも感覚で把握できるし。一応確認の意味でしてみたけど」

「で、どうなの?」

「さっきから音がしてるでしょ? あれはきっと槍の方。あいつは間違いなくそっちの方にいる。でも、他の、動物たちとかのノイズも入っているだろうから、あまりあてにはできないだろうけど」

「こっちから狙うことはできないの?」

「木に遮られてるから無理。打撃は距離を詰めないといけない。それにあいつらはこんなちまちましたことをしているけど、近接戦は得意なはず。特に槍の方はわたしと同じくらいかもしれない」

「璃音と同じ?」

 それはまずいんじゃないか。だって璃音はもう遠距離攻撃はできないわけで。だけど近距離攻撃をするためにはこんな視界がある居場所じゃいけない。

「うーん、どうすればいいんだ。これは堂々巡りに見えるけど」

「ある部分だけとってしまえばね。始まりと終わりを忘れればそうなってしまう。でも、間違いなくわたしたちはここに足を踏み入れたし、ここで立ち止まっている間も時間は過ぎていく。そのままだと破滅のラストが待っている。立ち止まっちゃ駄目だよ」

 その言葉の意味するところを僕は理解しきれなかったけど僕は頷いた。

とはいうものの僕に何ができるっていうんだ? 僕にとってはあり得ないことばかりで今は璃音に付いていっているだけだ。ルールは璃音が知ってるだけで、なにが当たり前でなにが当たり前じゃないのか、僕には見当がつかない。

「結局敵がこちらの位置を補足しているのもどうなっているんだろう?」

 何か考えていると示すためだけの質問だ。

「それには少し考えがある」

「本当?」

 この間に? どこかでヒントを見つけたのだろう。

「それとくせ毛の突然の出現。最初の握手の時もそうだけどはっきりとは見当がつかない。おそらく何か特殊な技なんだろうけど、どのような性質のものか見定める必要がある。こうした攻撃と攻撃の合間は敵のリロード時間といったところね」

「じゃあその間に抜け出せば――」

「合っているかどうかわからない。そんな危険な目にマスターを合わせるわけにはいかない。あくまでも慎重にいかないと。もう最初の戦いのようなことはこりごりなんだから」

「そうだね」

 相手の攻撃でおかしくなっていたとはいえ、璃音も冷静さを失っていたし、僕も冷静さを失っていた。おかげで僕も璃音もお互いに見せたくない姿を晒してしまった。

「さて、嫌なことは過去に置くとして、槍の方も特殊な攻撃があるはずだろうし、やっぱりここは慎重にいくのが上策ね。あるいはあの出現と消失は槍の方の技かもしれないけど」

「璃音には特殊技とかないの?」

「ある。でもここは使い時ではない」

 僕にはわからないけど、おそらく璃音にも考えがあるのだろう。

「また園児服みたいな感じで想定外のことが起こらないよね……?」

「変な心配なくても大丈夫。わたしのは特殊とかそんなみみっちい ものじゃないから」

「それじゃあ、もっとすごいの?」

「そう。いうなれば必殺技」

 得意気な璃音。切迫した状況だけど微笑ましく感じる。

「それはすごいな」

 おどろおどろしいというべきか。

「だからあまり大盤振る舞いできない。とりあえずはここを乗り切ることが肝要」

「うん」

 次の襲撃の後、璃音が耳打ちしてくる。

「マスター、服を脱いで」

「うん!?」

「早く!」

 わけのわからないまま服を脱ぎ、璃音がせっせと準備をする。

「これでよし」

「何がだよ……」

 代わりに着ているのは小学生みたいな半袖短パン。そして短剣。なんだこれ。おそらくちびっ子のストーンを発動させているんだろうけど、もっと他の方策はないのか。

「前に笑ったことの仕返しをしているんじゃないだろうな……」

「マスターってば、人聞きの悪い。これも立派なタクティクスですよ」

「なんで敬語なんさ」

「はい、静かにする」

「ぐっ」

 まったく根に持ってるなぁ。これだから――。

「痛っ」

「静かに」

「してたじゃんか」

「戦いに集中」

 心の声はわからずともお見通しですか。

 つねられた脇腹をさすりながらその時を待つことにする。

「いっつもマスターには集中力がないね。戦う気あるの?」

 冗談っぽい口調だったけど、言葉が耳に入った瞬間、自分の体が硬直するのがわかった。この類のことを言われると僕はどうしていいかわからなくなるのだ。

 集中力がない、本気度が足りない、やる気があるのか。親とか教師とかから何度も言われてきた。その度に僕は口を閉じるしかなかった。その言葉の意味するところは事実の指摘や質問ではなく、もっと頑張れということがわかっていたからだ。でも僕には頑張る理由が見当たらなかった。このままでいいじゃないか。なんでそこまで努力しなければならないのかわからなかった。頑張ったとこりで現状は変わらない。努力しなくて落ちていけばそれでいいじゃないか。

「戦いはもう始まっている。賽は降られた。マスターが降ったんだよ」

「サイコロは僕が振ったわけじゃない……」不注意で零してしまっただけだ。

 繋いだ璃音の指がきょっと握り締められた。すごく迂闊なことを言ったような気がする。考えてみれば自分に責任がないといっているようなものだ。璃音は僕に応えてくれたらしいのに、対する僕はなんて卑怯者なんだろう。訂正しなければ――。

「言い直しとかそんなのいらないよ」

 口を開けたが声を発することができず、そのまま息を飲む。

 そっか、筒抜けか。いや璃音に僕の心はわからないはず。璃音は能力なんかなくても僕のことなんてお見通しなのだ。嫌になるなぁ、このやり切れない状況に、つくりが簡単すぎる自分に。逃げ出したい。

「集中力が足りない」

「……ごめん」

 足りないのは想像力もだろうけど。さすがに言わないか。できがちがうものね。そんなこと言っても僕を責めるだけで集中力を乱すだけだから。いや言っても無駄だからかな。まあ、どっちだっていいや。菜どうしようもなく投げやりになる。一度謝ったものの口を開かずにはいられなくなる。

「でも集中しろって言ったって。僕は何に集中すればいいんだ」

「今度はやつあたり? こんな状況だし焦るのはわかるけどちょっと落ち着いて」

「やつあたりでもなんでもいいよ。璃音に僕の気持ちがわかる? ああ、わかるんだろうね。不思議な力を使おうが使うまいが僕の気持ちなんて簡単に璃音にはわかるんだもんね。じゃあわかるよね? わけもわからず戦わないといけない僕の気持ちがわかるよね? 相手が何者で、何をしてるのか、僕にとって何なのかまったくわからない。それなのに僕には使命があるらしい。ただただ指をくわえて戦いを見ているのが僕の使命なんだ。まったく僕らしいしょぼい使命だよ。ほんと僕が必要なのかさっぱりだ」

「だから月の光が必要で、マスターの目には」

「璃音だったら一人で戦うくらいできるでしょ。雲の上で戦えばいつでも月の光は届くんじゃないの」

「そんなこと言われてもわたしは空を飛べないよ」

「そんなこと知らないよ。だって説明してくれてないんだから。璃音が何者なのかもさっぱりわからないんだ。璃音は僕を守ってくれてるっていうけどさ、僕が――」

「だったら!」璃音が一喝する。「最初の夜にわたしが話したらマスターは興味を持ってくれた? マスターは心底どうでもいいような顔をしてたよ。そんなの言えるわけないじゃん。ちゃんと伝えても受け入れられない、それがわかってて伝えることはわたしにはできなかった。でもマスターの協力は必要だからマスターが必要であることは話したよね。マスターは言葉足らずでもわたしをちゃんと受け入れてくれたよね?」

 僕に反論の言葉はなかった。言いたいことは色々ある。でも今言うべきでないと思った。肩越しに璃音が泣いているのがわかったからだ。

「……マスター、わたしのこと飽きちゃった? わたしを見てても退屈? わたしこれでも一応頑張ったんだよ。マスターが喜ぶように身だしなみとか――」

 その時木にくくりつけられていた僕のズボンに槍が突き刺さった。と同時にくせ毛の敵が現れる。自分の槍があらぬところに命中したことに驚いた敵は動きを止め、そこを璃音が叩く。そのすべてがまるで自分と関係のない出来事のようで何の驚きもなく進行していく。

「っつ……」

 もろに攻撃を受けた敵はよろめきながらこちらに逃げていく。僕は剣を振りかぶる。

「ちょっと待った! おにーちゃん、後生だ。見逃してくれ」

「マスター早く!」

 目下にいる対象。その目は見えずとも全身で僕に訴えかけているのだ。助けてくれと。

「――っ。マスターはそのままでいいよ。わたしがやるから」

璃音がこちらに踏み寄る。敵が素早く僕の背後に回り、僕を盾にする。

「ちょっとあなた、諦めが悪いわよ」

「どうとでも言ってくれ。根っから諦めは悪いんだ」

「はっきり言って侮蔑するわ。わたしの敵に相応しくない。姑息な手段を使って、それで何になるというの?」

「わたしの方が問いたいくらいだ。あんたは何を目指している?」

「次のステージよ」

「それが一体何になる? その場しのぎでやっていく、わたしはそれで十分だと思うがね。あんたがやっていることは結局力任せに過ぎない 」

「だからと言って行動不能に陥るつもり? あなたはその場しのぎですらできないていない」

「別に正当化しようとは思ってはいない。ただ時間は過ぎる。行動しようが行動不能に陥ろうがね。それだけの話さ」

「なら一人でそうしてなさい。周りを巻き込むのは身勝手」

「これでも我が身が一番可愛いものでね」

「話にならない」

 まったくそりが合わない二人。ついでに言えば僕は何の話かすらわからない。ここにいるべき存在じゃないのだ。

「だから初めからあんたには話すつもりはないのさ。この少年が聞きたがっていると思ってな」

「今度は人のせい?」

「いいさ、あんたにわかってもらえずとも。だが、あんたも半ば同じ円卓を囲んでいるようなものだ」

 空間が抉り取られ歪みが生じた。

「じゃあな」

「待ちなさい!」

 僕は逃げようとする敵を掴む。

「ちょっ、おい!」

「マスター止めて! 危ないからっ」

 僕はそれでも追いすがる。転がるように二人、空間に潜った。



                          ☆



 気がつくと空中から落下していた。風圧で目をよく開けることができない。思わず叫び声を上げてしまう。僕は抱きしめられた。

 鈍い衝撃。何が何のかわからずもがき続ける。

「おい、大丈夫だよ。足が着く」

 僕がもがき続けていていると、力強く引き上げられた。

「えっと……?」

そこでようやく状況を把握する。僕はプールの只中にいた。辺りを見回すと校舎が見える。どうやら学校のプールのようだ。

「ほら、大丈夫だろ。つか重いから早く自分で立ってくれ」

「えっと、すいません」

「礼はいいから」

 慌てて自分の脚で立つ。水をすった衣服は重たくいつも違う感覚で、夜の水面は溶け込んだ世界を歪ませ自分のものとして伝えていた。

 すっかり二人とも濡れてしまったので上の服を脱いで絞り、パタパタと風を通してから乾かす。こんなことで渇くはずもないだろうからただの気休めだけど。というか渇いたとしても小学生が切るような半袖短パンをふたたび着ようとは思わない。

「お前――」

「ん? あ……」

 すっかり失念して服を脱いでいた。せっかく今までは隠していたというのに。

「なんか寝てるときとか無意識の内に掻いちゃうらしいんですよ」

 僕は鎖骨の辺りを掻くジェスチャーを加える。

「そんな……いや、何も言わなくていい」

「了解です」

 僕としてもそっちの方が助かる。ともあれまたしても敵と二人きりになってしまった。今回も璃音の言いつけを無視してだからなぁ。璃音は責めずに心配するだけかもしれないけど申し訳ない。

「はぁ……大変なことになってしまった」

 頭を垂れてわかりやすく少女は落ち込んだ。

「ですね」

「へまして敵を連れて逃げるなんて、ああ、お姉さまに怒られる」

「えっと、ごめん」

「いいよ、別におにーちゃんが悪いわけじゃないんだから」

「……」

「……」

 とりあえず濡れた服を着たものの、気まずい沈黙が流れる。僕はこうした間が怖い。言葉や何かで埋めたくなる。それは悲しい抵抗だ。問題が解消されるわけではない。ただ考えられないようにするだけ。だから、そのことを考えなければ別のことを考えて空白を満たすということもできるわけだ。

 現状把握する。今のところ彼女が襲ってくる様子はない。こうやって敵と二人きりになるのは二度目だ。彼女らは僕を襲わない。敵とは璃音だけにとっての敵なのか。そもそも彼らの長であったはずの璃音がどうして彼らと訣別したのか。僕はそれについて何も聞かされていない。これは敵からの情報だから鵜呑みにするわけにはいかないけど、璃音はあまりにも説明を省きすぎているのは確かだ。でも……そういうものなのだろう。やはり璃音の言った通り僕には理解できないのだ。

 僕が思いを巡らしている間、敵は自分の指でくるくる髪をいじったり、手を眺めすかしたりする。くせ毛の少女はこちらが観察していることに気づいた。

「何見てんだよ」

「何してるのかなって」

「手を見てた」

 でしょうね。

「知っての通りわたしの能力は空間移転。それに伴って歳を取っちまうのさ。って、言ってよかったのかこれ……」

 がっくりうなだれる少女。

「えっと、聞かなかったことにしようか?」

「おにーちゃん、やーさしい! よし、それで行こう、そうしよう……そんなうまくいくはずないよな。絶対、ばれるよなー。よし、心中しよう」

「は? 何言って――」

「そら、無理心中だ! 入水自殺だ!」

 僕はプールに引きずり込まれる。さっき溺れてるのを助けてくれたのに! なんとかあがき水中から顔出す。

「ははは、必死過ぎ。んなわけないっつーの!」

 少女は楽しげに高笑いを続ける。髪からぽたぽたとしずくが落ちている。

「学校で心中なんてロマンだろ?」

「違う! 絶対違う!」

「ったく、わかってねーな」

 プールサイドに上がろうとすると、また引き戻された。楽しげな声がこだまする。

「あーもう! 何すんのさ!」

「たーのしぃ!」

「全然ね!」

 今度こそようやくプールサイドに上がることができた。

「はぁ……こんな現実逃避してもお姉様に怒られるんだろうなぁ」

「『お姉様』ってよっぽど好きなんだね」

「んなわないっつーの! こんなの言わされてるに決まってるじゃん」

「言わないとどうなるの?」

 少女は握り拳から親指だけ立て、首に線を引く。

「うわぁ……」

「だろ……はぁ、もう髪乾いてきた。せっかくストレートだったのに」

「くせっぽいの似合ってると思うよ」

「聞いてねー」

 肩を殴られた。

「なぁ、このまま駆け落ちしよっか?」

「うん?」

 急に何を言い出すんだ。

「確かに心中はできないかもしれないけど、このゲートさえあればどこまででも逃げられるよ。お前もストーンを一つ預かってるんだろ。二人して怖いパートナーに怒られるよりかはさ、いっそどこまでも、地獄の果てまで駆け落ちする、みたいなさ」

「どこに行ったって同じだよ。それにゲートを使うと歳とるんでしょ」

「それはそうかもしれないけどさー、なんかこう、やりきれないものっつーのがあるじゃん?」

「それに僕はこの街から出られないよ」

「何を馬鹿な。どこへ行こうと自由だろ」

「例えどこへ行ったところで同じだよ。同じように時間が流れるだけ」

「何悟ったようなこと言ってんだよ……はぁ、わかったよ、わたしが悪かったよ。こんな間抜けな質問して悪かった」

「うん」

 同意したのに肩を殴られた。と、同時にくしゃみが出た。

「あまり身体を冷やすのもなんだな、ちょっと行ってくるわ」

「は?」

 僕が疑問を投げかけた当人は空間に潜りどこかに行ってしまった。一人になると急に眼前のプールは寒々しく思える。

「って、もしかして軟禁状態か……?」

 プールの出入り口は鍵かけられているだろうし、結構高めの敷居で覆われているし。

「おまっとうさん」

「わっ」

 僕の心配をよそにいつの間にか後ろにくせ毛さんがいた。

「ほら、取ってきてやったぞ」

 くせ毛さんが掲げたのは僕の服だった。森に置いてきたのを取ってきてくれたらしい。

「ほりゃ」

「すいません、僕のためにわざわざ」

「いーや、おにーちゃんを巻き込んだのはわたしの失態だ。気にすんな」

 僕はありがたく自分の服に着替えた。

「ふぁいぶだらーず」

「お金とるんですか!?」

「世の中はそういう仕組みで成り立ってるからな。わたしもノーダメージで行ったわけじゃないし」

 心なしか歳を重ねたくせ毛さんを見ると僕は反論のしようがなかった。

 くせ毛さんがはっと笑った。

「冗談だよ。ただの暇つぶしさ。あー早くお姉様迎えこねーかな。こういう時はどうやって時間つぶせばいーんだ?」

「僕に聞かれても」

「どこにいても同じように時間が流れるんだろ? 教えてもらおうじゃねーか」

 そういう意味じゃなかったんだけど。しょうがない少し考えよう。

 残念ながら妙案は浮かばなかった。始めからそんな気はしていた。仕方なくいつもするように僕は空を見上げた。それを受けてくせ毛さんが言う。

「月でもみっか」

 空は雲が多く月影がはぐらかされていた。天気予報の通りならば今日一杯は晴れているが、これから日に日に天気は下り坂となるらしい。夏休みももう終わるっていうのに景気の悪いことだ。

「見るものがねぇな」

「そうでもないですよ」

 いつもいつも月は同じようにこちらを窺っているのだ。

「あん? ……おっ――」

 視界に入ってきたのは金色の髪をなびかせる少女。

「そっちのが愛されてるなぁ」

「まぁね」

「うぜー」

「――マスターから離れろ!」

 璃音が空間を叩く。『モノトーン・リフレッシュ』だ。

 そうか、僕にストーンを預けてるから一時的に能力が回復してるのか。

「嫌になっちまうな」

 くせ毛さんは璃音の攻撃を避けると、プールサイドから出ていく。

「大丈夫?」

「うん、まったく」

「ストーンは? 剣を持ってるし奪われてはいないはずだけど」

 僕はストーンを取りだした。

「この通りです」

「よし、行こう」

 璃音の手を取り敵の姿を追う。

学校のグラウンド。そこで敵は止まった。

「鬼ごっこはもう終わり? もう諦めたの?」

「ここらが頃合い」

「ふん、綺麗に屠ってあげるわ」

「笑わせんな」

 璃音が追い、敵が逃げる。先ほどより視界が広がったとはいえ、基本的に敵の戦術は一緒だろう。いや、それにするならばもっと隠れる場所がある方がいいのではないか。グラウンドなんて相手に見つかろうとしているとしか思えない。

「また逃げるの? いつまで逃げるつもり?」

「わたしがわたしであり続ける限りだ」

「意味不明」

 敵がようやく反撃に転じ、地面を隆起させる。が、脇にそれていく。

「どこを狙っているのかしら」

 再度、璃音の攻撃が始まる。

 勢いとしては攻撃している璃音にある。しかし、なんだろうこの不気味な雰囲気は。敵に疲れは見て取れるけれども、まったく形勢を悲観していない。それに相手の攻撃が一度たりともこちらを捉えたことがない。むしろ、わざと避けているようにさえ思える。もしかして僕がいるから戦わないのか?

「もしかして僕がいるからかな……」

 璃音がその足をぴたと止める。

「あなた、勝つ気がないの?」

 敵も動きを止めた。

「……おいおい、その発想はあんたのものじゃねぇな。そいつの入れ知恵か?」

「本当、なんですか?」

「何のことだ?」

「僕がいるから攻撃を当てない」

「そんな殊勝なことじゃねぇよ。ただ外れているだけだ」

 そんなことを言われても信じられない。

「まったく。興ざめもいいところ。わたしがいるからそっちが当てようとしたって当たらないのに。マスター、離れててくれる?」

「なっ、おい――」

 明らかに璃音にとってマイナスとなるのだろう。しかし璃音はそのままでよしとは思わない。そのまっすぐさを僕は知っていたので手を離すことにした。

「マスター、気をつけてね。敵がもう狙ってこないとは限らないし。わたしも十分気をつけるつもりだけど」

「了解。一応自分の身を守れるものもあるし」

 僕は改めて剣を握る手に力を込める。

「……さあ、今度こそ本当の仕切り直し。あなたもまだマスターに配慮しないといけないとはいえ、こちらもマスターの力を借りられないから公平でしょ?」

「だから外れていただけだって言ってんだろ。わたしも言えた義理じゃねぇが人の話はちゃんと聞け」

「はいはい。いざ――」

「掛け声とか端折るぞ」

 敵が先制。璃音が回避。

「ほんと無粋」

「嫌われて十分、いや十二分」

「その性根叩き直してあげる」

 さっきまでとまるで違い敵の攻撃が厳しくなる。やはり加減していたのだ。

「そうこなくちゃ」

「ほざけ」

 大体、彼らの本気の戦いが始まると、僕は見ていることしかできない。結局、今回も力になることはできなかった。むしろ、戦いの興を削いだくらいだ。しかし僕の無力感とかどうでもよく、やっぱり戦っている時の璃音が一番輝いているように思えるし、それはたぶん間違いではない。

 やはりまともに戦うと璃音に分があるのか、敵は隆起した地面の壁に隠れるようにして一定の距離を保つ。璃音も追いはするものの深追いはしない。時々こちらを窺ったりする。おそらく僕に攻撃が及ばないように配慮しているのだろう。確かに僕であれば勝手な移動をする恐れはある。

「これじゃあ終わないぜ?」

「そうね」

 だからと言って璃音に変化はない。無闇に大技を繰り出して隙を作らない。敵もおそらくその隙を狙ってくる。ただ連続で空間転移は使えないのだろう。牽制としては空間転移は使ってこない。

「頃合いだ!」

 敵は雄叫びとともに地面に最大攻撃を加えた。地面の隆起とともに砂塵が舞う。

 闇が現れた。何が起こったのかはわからない。けど、どこにいるかは一目瞭然だった。

 教室。しばらくぶりの風景だ。

 僕と璃音が移動させられたのか、教室が移動させられたのかはわからない。だがどちらにせよ言えることは、そんなことをすればくせ毛さんの身は持たないというというだ。  

教室ひいては校舎という物質量あるいは璃音と僕に気づかれることなく呑み込むほどのゲート。そんなことをすれば彼女の時間はどれほど経つというのか。いや、もう端的に言ってしまおう。

彼女は絶命していた。絶命という表現が当てはまらないほど彼女の時間は膨大なほど進んで白骨化し粉と化し、その小さな粉は外界から差し込む光をキラキラ反射させていた。

「あっけない。ただのめくらましで――」

 ガラスの割れるけたたましい音。振り向けばもう一方のが目前まで迫っていた。璃音は跳躍。敵の攻撃を間一髪逃れた。

「ちいっ!」

 璃音は跳躍にブレーキをかけ体勢を立て直す。

「残念ね、最後の賭けも失敗ってこと。今度はこっちの番!」

 勢い余って態勢が乱れている敵に璃音がハンマーを大きく振り上げ襲い掛かる。確実に敵を捕らえた――はずだったのに、その攻撃は空を切った。敵が空間から消えたのだ。

「なっ!?」

 それは今はもういないくせ毛の能力のはず。璃音も驚きの声を上げた。

「再登場!」

 背後にくせ毛さんがいつの間にか立ち現れ、驚嘆に停止した璃音に覆い被さる。その勢いで璃音と僕にくびきが入る。倒れた反動で机にぶつかり少し息が止まった。

「どんなタネだか知らないけど、だから何だっていう――え……?」

 璃音は自分の身に何が起こったかわからないようだ。しかし距離を置いてその光景を見て取ることができる僕も何が起こったか理解できたわけではなかった。目の前の光景が何かの間違いだと思った。

 璃音の体を敵もろとも槍が貫いたのだ。

ずぶ、ずぶ、ずぶと止めどなく体を重ねる二人の少女が刺され続ける。

 返り血が教室を赤く染め上げる。机、椅子、教壇、黒板が赤のペイントが施されていく。その陰惨な光景に僕は体を動かすことができなかった。一方できつく結びついた少女達もまた自分たちの時間を停止させていた。

こんな深手を負えば倒れてしまってもおかしくないのに、少女は立ち続け刺され続けている。それは二人の桁外れの強靭さを表しているのかとも思える。だが違う。刺される衝撃は伝わっているものの二人ともなんともなさそうにしている。

璃音は自分の置かれている状況を口にする。

「回復、している?」

どうやらお姉様とやらの槍の能力は回復。ダメージを与えることはできないのだ。おそらく槍の能力でもって、くせ毛さんの空間移転の代償を打ち消している。

「だからなんだっていうの」

 そう、璃音にもダメージがないようだった。どうやら相手の回復能力は敵味方関係ないものらしい。じゃあ本当にだからどうなるっていうんだ。何も得るものも失うものもなくただ無限に刺され続ける少女たちが世界にいる。悪夢のような情景だけがある。

「――っ!」

 ああ、そうか。確かに璃音には肉体的ダメージはない。だが、璃音を璃音たらしめるその能力の源はそのリボンとストーンなのだ。敵が璃音に勝つ時、それは璃音のリボンとストーンを失わせるほどのダメージを与えている。それが正道だ。しかしそれはわざわざ璃音と戦闘服をわけて考える手間を比較した上での話だ。もし璃音と戦闘服をわけて考えることができるのならば話は違う。単にリボンとストーンを奪えば璃音に勝つことはできるのだ。

 僕は自分で覚束ないまま足を運ぶ。

璃音が負けてしまう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。もちろん璃音が負けるということは試練に失敗するということで、それはあってはならないことだ。だがそれも璃音が形勢逆転の手立てをもっていれば済む話だ。璃音ならきっとどんな窮地に陥ってもいずれ逆転の目を掴むだろう。

僕が耐えられないのは璃音がこれ以上刺され続けること。

 璃音がこちらに気づいた。

 もう大丈夫、そこから出すよ。

「マスター来ちゃダメ!」

 僕は全身全力で持って間に割り込んだ。

 当然、槍が僕を貫いた。これで璃音への攻撃は終わる。そして敵の攻撃はノーダメージ。一気に形勢逆転だ。槍が引き抜かれ、血しぶきが上がる。痛覚はそのままらしく意識を保っているのが不思議なくらいだ。それにノーダメージとはいえ、体を貫かれるのは気分がいいものでない。

 第二撃が僕に突き刺さる。これもノーダメ―

「……え?」

なんで。

 腹部に刺さった槍は引き抜かれない。薄いシャツに赤いしみが広がっていく。予想外の展開に思考が停止する。

「マスター!」

 僕は地に伏した。

「なんだ? もう終了なのか。ずいぶん急所に入ったんだな。って違うじゃねぇか」

 さっきぶりのお姉様の登場。こちらを確認しても別に驚いた風でもない。ことなげに相棒であるくせ毛さんに槍を刺した。

「ぐっ……お姉様、申し訳ございません」

「おいおい、何してんだ。標的が違うじゃないか。こんなの刺したって別に……まぁいるよりはいない方がいいか。今回はこのくらいで免じてやるよ。ああ、そうだったか。こういうパターンもあるのか。こんな雑魚なんてまず相手にしないから失念していたな」

 視界が辛うじて捉える座り込んだ璃音。その表情は凍り付いていて、口を震わすも言葉が出ない。代わりに手を伸ばしながら、這うようにやってくる。近くにくると息が切れているのがわかった。

 何をやってるんだ。まだ戦いの最中だろう。言葉にできないから僕も重くその手を伸ば

した。璃音は慌ててその手を取るやいなや声を張り上げた。

「おいおい、そいつに何の価値があるっていうんだ? なぁ?」

 その問いかけは誰も受け取らなかった。

「なんか調子狂うな。そいつが勝手に死んだだけで別にこっちだって狙うつもりはなかったんだぜ?」

「あなた、こんなことをしていいと思っているの?」

「そいつは武器を手にしてるじゃないか。立派な敵だ。敵に対してはあらゆる手段が有効だ。言っただろ、加減はできない」

「そう」

 璃音は立ち上り敵に相対する。

「いいぞ! 今のお前はあたしによく似ている」

 どうしてか璃音が心配で呼び止めたく思うけれども声が出ない。

「さぁ、戦いはこれか――」

 璃音は一瞬で敵の懐に入ると、打撃を加え敵を窓の外へはじきとばした。割れた窓ガラスの破片がけたたましく音を立てた。

 璃音は追撃せず僕の方へやってくる。

「わたしがこんなもの渡しちゃったからだね……ごめんね。マスターは少し休んでいていいよ」

 璃音の表情は読み取れなかった。視界が覆われた。もう僕ができることはなにもない。

 僕はまだ死にたくない。どうしてかわからないけどまだ死ねない。

 頭の中に璃音の金色の髪がぼんやりと浮かんだ。なぜだろう。



                     ☆



「殺しはしない。マスターを治さないといけないんだもの。いい? あなたは今マスターによって生かされているの。感謝してさっさとマスターのために働いてちょうだい」

 近くにどさりと何かが倒れる音がする。渇いた呼吸音が聞こえる。

「早く!」

 目を開いた。 血まみれで倒れている敵。光を宿さないその目がこちらを虚ろ気に向けられている。槍を持った彼の腕が僕の傷口にあてがわれているようだけど、よくこの状態でなんらかの行動ができたと思わせるほどだ。

「これであなたの役目は終わった。さっさと失せて」

 なんという無茶な要求だろう。それは明らかに自ら怒りを引き起こすための要求だった。相手が達成できないことをみてとりながら要求し過ちを叱責する。その状況に体が強張った。

「失せてって言ってるんだよ? どうして失せないの? わたし、聞き分けの悪い人は嫌いだよ」

 手を伸ばし璃音の足首に触れる。

「マスター、大丈夫?」

 璃音が腰を落としてこちらの様子を窺う。本当に僕を心配した声だった。申し訳ないことに敵との態度の落差に僕はそれを素直に受け取れなかった。

「マスター、ごめんね。わたしが馬鹿なせいで……」

「まったく皮肉なものだよねー。そんなに強い力があるのに、能力は治癒だなんてさ」

 懐かしい――と言ってもほんの数日前の話だけど――最初の敵の姿がそこにはあった。その時、お姉さんは黒い衣装だったけど今はその身に纏っているのは純白であった。お姉さんは傷の女の人の近くに座り込むと優しく抱き上げ、サングラスを外した。

 次に口を開いたのはいつの間にか側に立っていたくせ毛さんだった。

「ま、自業自得っつーか」

「むん」

「ごばぁ」

 くせ毛さんの衣服もこれまた白色無地の姿になっていた。のだが、ただいま槍で一突きされてそのTシャツには鮮血が浮かぶ。

「忘れるな。わたしはまだ負けてないんだぞ」

「まさか横になりながら刺してくるとは……お加減良さそうで嬉しいです、お姉様」

「よろしい」

「うわーまだ懲りてないの? その力はあなたのためじゃなく、他の人のために使われるべきものだよ。それは激情に任せて力を揮うより遥かに難しいこと」

「力がなければ誰かを守ることもできない」

「あなたは誰かを守るのにかこつけて自分を守っているだけだよ」

 なんだかまた関係のない話になってきた。璃音の凄味も和らいだからこれはこれでいいけど。璃音は戦うのが本来の姿なんだろうけど、どうやら僕には耐えられそうにもない。

「そうそう、もっと周りに優しく――ごばぁ」

 2ヒッツ。

「なんか態度ちが――ごばぁ。早くお姉様を天に――ごばぁ」

「はぁ……」

 くせ毛さんはやれやれといった様子だ。

「駄目か?」

「いいよ、あなたらしくてかっこいいよ」

 どうやらお姉さんの方が大人らしい。見つめ合う二人にさすがに茶々を入れる者はいなかった。

 こちらも向こうも全員が立って向かい合い、長い戦いもようやく終わりを迎えることとなった。

「おにーちゃん、ごめん」

 向き合ったくせ毛さんが頭を下げた。ふんわり揺れたように見えたのは錯覚かもしれない。

「なんで君が謝るんだよ」

「だって、巻き込んじまったし」

「それは勝手に僕が巻き込まれただけだから」

「でも」

 くせ毛さんはなおも俯いている。僕はその頭を掴むと髪の毛をくしゃくしゃとかきまわした。

「な、なにすんだよ!」

「これでおあいこということで」

 くせ毛さんは僕の言葉を数秒かけて受け止めたようだった。そして怒った感じで言った。

「ふん、まぁ、そういうことならいいけどさ! いや、それにしても普通髪型を崩すか? よりにもよってあたしの髪を! あーあ、反省したこっちが馬鹿だよ」

「そうだね」

「馬鹿はおにーちゃんもだろうがよ。そこんとこわかってんのか?」

「うん、僕は馬鹿だよ」

「なんだその食えない態度は。こっちはお姉様にオッケーしてもらうまで、ちゃんと作戦練ったんだぜ。槍で刺す手ごたえが一人になったら槍から手を離し回復解除って算段でさ。それなのによー、ぶち壊しじゃんか」

 ついにはこっちが悪いことにされてしまった。

「おにーちゃんもわかると思うけど、刺されるのってめちゃくちゃ気持ち悪いんだぜ?」

「気持ち悪いどころか僕は失神しそうになったよ」

「まったく無茶するよ。でもさ、かっこよかったぜ」

 急な褒め言葉に笑ってごまかすしかなかった。

「そのかっこよさに免じることにするか」

 どうやら今度は許してくれるようだ。

「そうしてくれるとありがたいな」

「これで遺恨なし。じゃあ、おにーちゃん、またな!」

「また会うつもりか?」

「もう、わかったよ。さよなら!」

「心中も駆け落ちもできなくてごめんね」

 お姉さんとさすがに傷の女の人も目を丸くしていた。

「気にしてないっつーの。こっちから願い下げだわ」

「君達なんの話してたの……」

「仮にも戦場だろうに。馬鹿な相棒だ」

「戦場での相手方との禁断の愛とかロマンだろ?」

「まぁそれはロマンかも」

「やれやれ」

 ついに彼女らに虹色の光が差しこみ、その体を宙高く浮かしていった。

 別れの少しの余韻があった後、璃音が伏し目がちにこちらを窺った。

「……大丈夫?」

 見ているこちらが苦しくなりそうな璃音の表情。

「うん、おかげさまでね」

 体には何の異常もなく立ち上がることができたし。

 璃音は微笑するもふっと力が抜けた感じでこちらに倒れ込んできた。

「璃音!」

 なんとかギリギリ抱きかかえることができた。

「ごめんなさい」

「何をそんなこと……」

 言葉が続かない。力の入っていない璃音がだらりと滑り落ちていくので横に寝かした。璃音がゆるゆる右手を持ち上げ、僕はその手を取った。

「ああ、またやっちゃった……どうしてこんなに駄目なんだろう」

「そんなこと言っている場合じゃない。どうしてこんなふうに」

 そこで接近戦において敵は同等のレベルであったことを思い出した。しかしだからといってここまで傷を負うものなのか。

「どうしてこんなふうになっちゃったのさ。璃音はすごく強いんだろ?」

「こんな力全然すごくない。これは失ってしまったものを取り返そうとするだけの力にすぎない。何かが誰かが傷ついてようやく力を発揮できる、そういう代物。もちろんその分だけ敵をやりこめた。たとえ強引でもそれくらいはできる」

 璃音が自分の力に否定的になっている。璃音も混乱しているようだ。

「なんでこんなになるまで無茶したんだ」

「だって許せなかったんだもの」

「それでも負けたら終わりじゃないか。僕は確かに刺されたよ。でも璃音の勝利こそが何よりじゃないか」

 手負いのメイドは何も答えてくれない。ただこちらを見つめてくるだけだ。僕もそのまなざしに応えようと目を離さないでおく。

ふいに璃音が顔を背けた。璃音らしくない態度だ。いつもは僕が先に相手の視線に折れるのに。

「マスター」

「うん?」

「これからわたしが言うことはマスターを失望させるかもしれない。けど、聞いてくれる?」

「……うん、いいよ。言ってみて」

 本当は怖くて聞きたくないくらいだ。でも璃音は目をそらしてでも語ろうとしている。ちゃんと口しないといけないことなのだろう。ここは僕がきちんと璃音に向き合わなければならないのだろう。。

「わたしはね、マスターを守れなかった自分に対して怒りが込み上げてきたんだ。もしかしたらマスターも思っているかもしれないけど、わたしはマスターが要求しようとしていないものにも力を入れているところがある」

 思い当たる節がある。僕は頷いた。

「今回だって、マスターの願いはわたしが勝つことだったんだろうけど、わたしはマスターを守れない自分なんて必要ないと思った。どうにでもなれって思った……どう? マスター、これでマスターの力になれているなんて言えると思う?」

 もう璃音の表情は笑っているけど、辛そうでとても僕の想像力ではその感情を推し量ることはできない。でも、一つわかる。気づいてしまった。

 璃音はもう敵と戦える状態じゃない。もう一杯一杯なのだ。

 だが、それを伝えてどうなるというのだろう。僕に気遣われることでよけいに璃音は傷つくかもしれない。どう扱っていいかわからない。この今にもぐしゃぐしゃに崩れてしまいそうな少女を僕はどう扱えばいいのだろう。正解はわからない。わからないなら口を噤む、それが僕の通常の態度だ。でも意を決して口を開く。それが璃音に対してできる唯一の誠意を持った態度だからだ。

「僕はそれでいいと思う。璃音にはもっと自分自身を大事にしてほしい。僕だって璃音が傷つくのは嫌だ。璃音は自分のことを優先してしまったことに非を感じるようだけど、僕だってちゃんと璃音のことを考えていられるかと言えばそうじゃない。自分のことで一杯一杯だ」

 璃音はこちらを向いて笑いかけてくる。

「ありがとう。慰めてくれるなんてマスターは優しい人。でも、それに甘えてはいけないと思う」

「どうしてさっ?」

 僕にとってのできる唯一のことが拒否され、恥ずかしくも狼狽えてしまった。

「だってわたしはマスターのメイドなんだもの。マスターはわたしに語りかけ、わたしの手を取って応えてくれた。嬉しかった。もちろんこれはわたしの戦いでもあるけれど、マスターに災いが降りかかるなら、わたしはそれを掃い去らなければならない。ましてや日常生活になんの役にも立たないわたしだよ? 戦いにしかわたしの存在価値はない。優しくしてもらっても返せるものがないの」

「そんなことない。そんなこと言わないでよ」

「公私混同は禁物、だよ?」

 重ねた手を離すと璃音は僕の頬に手を添え僕を諭した。僕はもう璃音に対して反論できない。璃音はあくまで自分の職務に忠実なのだ。それを否定してもしょうがない。

「なら……それなら、こんな戦いなんてもういらない。僕は璃音がいてくれるだけで充分だ」

 璃音が傷つくなんて、そんなの間違ってる。否定すべきはそちらだ。間違っているのは璃音を傷つける世界の方だ。

「嬉しいような悲しいような……判断に困るなぁ」

 璃音は苦しそうに笑った。

「だってそれはマスターのメイドとしては暇を出されたも同然なのだから。そんなこと言われてわたしは幸せ者だけどメイド失格だ」

「いいさ、失格でも」

「マスターは、優しいね」

「璃音が優しいからだよ」

 璃音は一つ息を吐いた。かすれた吐息だった。

「ああ、嬉しい……すごく嬉しい。なんかお互いを尊重し合えている。こんな日が来るなんて今日は最良の日だ。でも、ちょっと待って。まだ敵が残っているから」

 璃音がこちらへの目線を外し遠方に遣った。僕も合わせる。

 大地にぼとぼとリボンが上から落ちてくる。地に落ちたリボンは、うねるようにのたうちまわり、その場に消えていく。

 渇いた拍手が鳴り響いた。

「いいものを見せてもらった」

 中空には一つの影、長い藍の髪。少女はリボンで目隠しをし、服を纏っていないであろう体には幾多、幾重ものリボンが這い回っている。

「実に美しいよ。主人を想う従者、従者を想う主人。胸が締めつけられるよ」

「見世物じゃない」

「何を今さら。ずっと僕に気づいていただろう? もちろん振り向いてはくれなかったけどね」

「なんのことかわからない」

「白々しい嘘をよく言えたものだね。初めに彼が僕と敵を間違えて苦戦したというのに。さすがの意地の張り具合だ」

 あの影――はこいつのものだったのか。

「何と言っても君は美しいよ。主の前では本性を隠し、そして主のいないところではその力を爆発させる。今までの鬱憤を晴らすかのような残虐ぶりだったね。見ていて清々しかったよ」

「よくもそう穿った見方ができるものね」

「事実だろう? 君は月の下でも隠し事をするつもりかい? いいさ、君も彼の前ではやりにくいだろう」

「やるというなら今やってあげてもいいけど。充分に時間はある」

 璃音が重たげな身を起こす。

「それには及ばないよ」

「逃げるつもり?」

「今日は君の本当の姿を見られた。良いものを見られたんだ。余韻を楽しみたい」

「悪趣味なやつ」

「それにその状態で戦うというのかい? 主人はどう思うのだろうね?」

 璃音が振り向き窺ってくる。

「璃音、無理はいけないよ。僕は璃音に勝ってほしい。だからこそ、万全の状態で迎え撃とう」

「そうさ、それが冷静な判断だ。今日の君は疲弊して思考能力も落ちているんじゃないかい? 何と言っても――」

「わかった。マスターがそう言うなら仕方ない」

 中空の影は言葉が途中で遮られたものの、そのまま続ける。

「なんといっても二人を相手にしたのだからね。最後は主人の力さえなかった。僕にはそれで勝てたこと自体が少し不可解なくらいなんだ。一体どうしたことだろう? いや、それがあるべき姿というべきか……」

「あなたはまだ話し足りないようだけど」

「いいさ、この興味深い問いは持ちかえるよ。いずれ明らかになるだろう」

「さようなら」

「また明日ここで相見えよう」

 そっけない璃音を相手は意に介さない。次の敵も人の話を聞きそうにもなかった。

 不気味に浮遊する敵を置いて璃音と僕はまた夜を跳ぶ。気が重い。もちろんこれまでも敵が現れることはわかっていたわけだけど、次の敵がわかっているというのは暗澹としてくるな。これをなんとも思わないくらいなら宿題もある程度は進められているはずだ。とかまあ、話題をずらしてもしょうがないか。

 僕は璃音に言う。

「体、大丈夫?」

「このくらいなんともない。時間が経つと回復してくるし」

「あれが最後の敵か。最初の戦いからずっと見られていたってことだよね?」

 璃音は頷いた。

「だから大体こちらの手の内はばれている」

「それじゃあ、余計大変だ。あ、でも――」

 璃音が僕の口に人差し指をあてがう。

「マスターもあいつのおしゃべりが移っちゃった?」

 璃音が微笑する。

「そんなことはないけど」

「それじゃあこの話はよそう。なにもあいつの言った通り、月の下だからってすべてを明るみに出す必要なんてないのだから」

「わかった」

 おそらく璃音にも作戦があるのだろう。多分、まだ敵のテリトリーなのではないだろうか。

 家に着くまでは迂闊なことをしゃべらないようにしよう。なぜか璃音が苦笑した。別にいいけどさ。笑って帰路につけるなんていいことじゃないか。

「ねぇねぇ」

「うん?」

 肩を叩かれ振り向くと璃音の人差し指が僕の頬をつついた。小学生がやったりするイタズラだ。

「……何してんの?」

「ごめんごめん」

「よけい突き刺さってるんですけど。よそ見してて大丈夫なの? 集中力が足り――」

「しー」

 璃音はその人差し指を今度は自分の口にあてがう。静かにしろと? まったくどっちがだよ。

 こんな他愛のないやりとりの中の帰るとかなんか小学校の頃を思い出す。まったくわれながら緊張感がない。もしこれが璃音にばれていたら叱責をうけることだろう。次が璃音の最後の戦いなんだからと僕はふたたび気持ちを引き締めることにする。

 その時だった。世界がすべり落ちていった。

 何かにぶつかってからようやくわかった。璃音と僕は地に落ちたのだ。本当に何が起こっているのか理解できなかった。

「璃音!?」

 璃音が抱きしめるようにしてかばってくれたようで僕にダメージは残っていなかった。

 璃音の反応がなく心配したが、璃音はおもむろに口を開いた。そうとう参っている口調だった。

「なんでさ、こうもうまくいかないのかな……」

「大丈夫?」

 とてもそうは見えない。意味のない確認だ。しかし倒れたままの璃音に対してそう言うしか言葉を持ち合わせていなかった。

「こんなのちょっとすれば治るって」

 力を入れて立ち上がろうとする璃音の腕を取ろうとするとその手を弾かれた。

「えっ?」

「あ……」

 驚いたのは僕だけじゃなかった。璃音も自分のしてしまったことに戸惑っている様子だ。

「……ごめんなさい」

「いや、僕の方こそごめん。勝手に触るなんて」

 デリカシーがなかったかもしれない。

「違うの」

 璃音は自分のてのひらを見る。

「今回は少し早かったなぁ。ごめんね、マスター。もう手を繋げないみたい。ちょっと我慢すればどうってことないんだけど、今は疲れてるからごめん」

「なんで璃音が謝るんだよ」

 手を繋げないことがどうやら璃音が新たに色を得たことの代償らしい。しかし疑問が頭にもたげる。代償というがそれのどこか代償だというのだろう。困るのは置いていかれる僕だけで特に璃音は困らないんじゃないだろうか。璃音は僕がいなくても戦えるということはさっきわかったし。

「本当にごめんなさい」

「いや璃音も疲れてるんだから粗相の一つや二つはしょうがないよ」

 璃音はかぶりを振る。

「ううん、そうじゃないの。また変な意地でマスターを危険な目に遭わせてしまったから。またマスターに相応しい完璧さから遠ざかる。それを知られたくなかったんだ。我慢すればどうにでもなると思ったんだけど。いや違うかな。我慢したいって思ったんだ。我慢して我慢してそれでマスターに気付かれることなく頑張ろうって。な、簡単に言えば傷ついても隠し通す自分に酔っていたってことかな……」

「うるさいよ!」

 驚く璃音。

「まったく璃音は人を馬鹿にしすぎだよ。マスターがマスターが、って自分のことを追い詰めてさ。僕がいつそんなお願いをしたんだ。僕はむしろ璃音には自分のことを考えてほしいって言ってるよね? それとも璃音は僕がそんなひどい要求をする主に見えるっていうの?」

「そんなことはない、です」

「だったら璃音はちゃんと僕に自分の状態を報告するべきだったんじゃないの? そしたら僕だってそのくらい言ってくれれば歩いてでも帰るよ。璃音は僕がいなくても跳べるんだし。違う? 僕の言ってることなんかおかしい?」

「……ううん、マスターの言うとおりだよ。ごめん、怒るなんて思ってなかった。えっと、反省してます。ごめんなさい」

 素直に璃音が謝ると、怒りがしぼんでいく。ちょっと怒りすぎたかもしれない。

「じゃあ璃音は跳べるなら跳んで帰ってもいいからね。どう? 跳べそう?」

 僕の問いかけに璃音が自分の髪をいじりながら言う。

「ここまで怒られちゃって今さらだから、本当のことを言っておくね。実は手を繋げられないからといって別に傷つかなくても帰れたんだ……」

「は?」

「だって手を繋げられないだけだから負ぶってもいいし、抱えてもよかったんだけど、なんか恥ずかしくて。ほら、より密着しないといけないし……」

 俯いた璃音の耳が赤い。

「えっと、この期に及んで恥ずかしいと思ったの? 二人であんなみっともない姿をお互いに晒した後で?」

「……もう、うるさい! マスターうるさい!」

 居直った璃音に大笑いしてしまった。

「意外に璃音ってそういう感じなんだ」

「うるさい!」

 僕はその愛らしい小さな頭に手を添えた。璃音が顔を上げる。

「璃音、今さらだよ。ずっと璃音の姿を見て、手を繋いできたのに、今さらおんぶが恥ずかしいとか」

「もう!」

「わっ」

 璃音が倒れ込んできた。急に目の前に夜空が広がる。雲が少ないとはいえ熱帯夜だ。爽快とは言い難い。そんなふうにして目の前の状況から意識を逸らしてみる。

 だってそうじゃないと頭がどうにかなりそうだ。璃音がこちらにこれでもかというほど力強く抱きついてきているのだ。これを冷静に受け止められるはずがない。さっき璃音のことをからかったくせに立場がないな。

 倒れ込んだ後は特に何も発せず無言だ。僕はただ空を見る。璃音は何を想っているのだろう。ただ単にお互いが息をするのに体が上下するのが伝わるだけ。ってさっき璃音が密着度の話してたけど今も大概の密着度だな。まとわりつく夏の空気のせいでよけいにそう思う。

「マスター?」

「うん?」

「なんでこうなったの?」

「それはこっちのセリフだよ。なんでこうなったんだったっけ?」

「マスターが、わたしのことからかうから」

 ちょっといじけたふうの璃音。

「ああ、別に手を繋げなくても帰れたって話か」

「でももう疲れた」

「お疲れさま」

「一歩も動けない」

「え?」

「マスターとこうしていると、なんだか安心して力が抜けた。一歩も動けない」

「まじすか……」

「まじだもん。あ、でもマスターも疲れてるよね?」

「いや、大丈夫。何か璃音に頼ってもらったらちょっと元気出た」

「何かそう言われると立場がないというか。本来ならわたしがマスターを助けないといけないのに」

「ふーん、璃音はまだそういうことを言うんだ。せっかく気持ちが通じたと思ったのに」

「わかった。わかったから。わたしが正直じゃありませんでした。もう疲れて動けません。うう……」

「そういう時はどう言うの?」

 璃音はいつかのように僕の胸にぐりぐりと頭をすりつける。そして璃音は空に弱々しく咆えた。

「助けて……!」 

 光栄な要請をうけて僕は体を起こした。続いて立ち上った璃音と目を合わせる。意地っ張りな璃音はむうと小さく漏らした。それを見てなぜだかちょっとまた力が湧いてくる。

 しゃがんで璃音に背中を見せる。自分なりに璃音の願いに応えようと決めたのだ。

「おぶるなら大丈夫なんでしょ?」

「へ? まさか……」

 璃音も意図するところに気づいた様子。よくできた聡いメイドだ。

「いわずもがなだよ」

「いや、そんなこと、できないし」

「これは命令だよ」

「うぅ、初めからおぶる側に回ればよかった」

「早く」

 念押しに璃音は観念し僕におぶられることになった。僕は大切な存在を手放さないように一歩一歩慎重に歩を進める。

 特別な力を持った璃音がリードすれば世界は摩訶不思議だが僕がリードすると世界も平凡になる。今の状況は住宅街を年頃のカップルじゃれているだけで、こうなるともう璃音もただの女の子だった。

 変な意識をした自分を少し呪った。そんなふうに意識してしまうと簡単に言葉が出ないのだ。どこからともなく虫の声が聞こえる。

 やがて璃音が痛恨といった感じで呟いた。

「ああ、メイド失格だ……」

「そしたら再雇用してあげるよ」

「そんなこと言って……いつかマスター刺されるよ?」

「ちょ、誰に?」急に物騒な。

「いや、もう敵に刺されてるし」

「ああ」そうでしたー。そういう話でしたか。

「でももう一回わたしが刺すけど」

「なんでー」

「刺しつ刺されつ、みたいな」

 差しつ差されつ、ではなく。

「なんという愛憎の入り交じり方だ。っていうか、璃音も刺されるの?」

「いいよ、マスターになら。その代わりちゃんとわたしが刺した時はマスターもちゃんと刺してね」

「なにがちゃんとだよ。僕は璃音を刺せないよ。フィジカル的にもメンタル的にもね」

「刺せるよ」

 やけにはっきりした口調だ。おそるおそる聞いてみる。

「刺したらどうなるの?」

「血が出てたくさん出て、それでおしまい」

 でしょうな。

「一応、頭に入れとくよ」

「約束ね」

 こんなバカな話すぐ忘れるに違いないけど。

「ねぇ、わたしの昔の話、聞いてくれる?」

「うん」

 僕はしっかりうなずいた。

「ここまでもったいぶってなんだけど、お話としてはとても簡単なの。わたしは雲の向こうにいたの。毎日、自由に飛び回って好き勝手していた。しなくちゃならないことも自由にやってた。今日も怒られちゃったけど、わたしは色んなことを自分でやってしまおうと思っちゃうのね。あまり言いたくないけど、それでけっこうできちゃうんだよ。それでどんどんわたしは何でもできるって思うようになった。それで神様にも立てついて、それで真っ逆さまに落ちていったってことなの」

 璃音はその時のことを思い出したのか、少し呼吸を置いた。

「わたしはどんどん落ちていった。でも面白いと思った。ここからまた這い上がる、それはなんてエキサイティングなことなんだろうって思ったの。それで落ちぶれていった先は罪を背負った存在で溢れている場所で、そこに今戦っている敵の存在があったのね。わたしは彼女たちと協力して世界を席捲しようと思った。でもやっぱり誰かと手を組むなんていうのはわたしの柄じゃなかったの。わたしは彼女たちからも背くことにした。うまくいかないことを続けていてもしょうがないもの」

「それで切り替えられるってすごいよね」

「あはは、マスターはとことんわたしを甘やかしてくるよね」

「いやそういうわけじゃないけど。ただ僕はうまくいかないってわかっていてもそう決断よく変えられないから。要は落ち幅の問題で、ゆるゆる落ちていくならもうその現状を受け入れてしまった方が楽だって思うからさ。だから璃音はすごいって思う」

「そのありがたい評価を受け入れるにしても、それでマスターとかに迷惑かけてちゃ世話ないよ。自分勝手にやるなら自分で責任を負わないといけないはずだもの」

「でも僕は璃音の協力ができてうれしいよ」

 璃音はまた一つ笑い、

「世界が食われているなんて言ったけどさ、それはわたしがここにいるから世界が浸食されちゃっているだけなの。全部わたしのせい。でもそれを最初からさすがに言えなかった」

「でも僕が興味なさそうだったっていうのもあったんでしょ?」

「どうかな。それもただの言い訳のような気がする。わたしは目的を達成するためならいくらでも嘘ついたり騙してきたからさ、時々自分の本心がなんなのかわからなくなる。本心なんかなくて目的達成のためのただ機械的に動く操り人形にすぎないんじゃないかって思うこともある」

「僕はそうは思わない。璃音はいつだって意思を持って行動しているように思える。僕はそんな璃音が羨ましいよ」

「マスター、そんなふうに優しくしてくれても何もできないからね? むしろわたしは負ぶってもらって助けられてる方だし」

「今のままの璃音で十分だよ」

「ありがとう。頑張るよ」

 なんとか家まで辿り着いた。けどどうやって部屋に戻ろうか。というか冷静に考えて昼から家に戻ってないってけっこうまずいな。正面から戻るのはなし、と。部屋で寝てたことにするか。押入れとかどこかのスペースで暑さのあまり気を失っていたことにしよう。ということで、

「ベランダまで運んでくれる?」

「いいけど、なんで?」

 まさか璃音はこの時間に正面から入れると思っているのか。やっぱりどこか抜けてるな。

「正面玄関からは入れないし。それと本当にまた跳べるのかって」

「オッケー。頑張っておぶるよ」

「頑張れ」

 今度は璃音が僕をおぶる。璃音の金色の髪が眩しい。

 果たしてベランダから無事に帰還することができた。網戸の状態で鍵がかかっていなかったのが幸いした。ともあれまだ跳べることはわかったし、これでなんとか戦えるか。本当は戦いたくなんかないけど、それが璃音の試練ならば応援するしかないだろう。

「璃音、本当に大丈夫?」

「まったく心配性なマスターだなぁ」

「本当に心配なんだよ。おそらく今までだって僕の知らないところで無理をしてたんだろうし」

「別にそんなことはないよ」

 璃音はわかりやすく目を逸らした。

「だって最初の敵が璃音のことをものすごく強いって言ってたんだよ? それなのに苦戦ばかりしている。おかしいじゃないか」

「わかった。無駄に心配かけるようなら隠すのはやめる。だから心配するのは止めにして今日は休もう」

「そう、だね」

 僕としてはまだ璃音が心配だけど。

「マスターこそ心配とか不安で眠れなくなってふらふらで戦うのとかなしだからね」

「多分大丈夫だと思う」

 とは言いながらも過去の経験からしてそう意識させられるとよけいに眠れなくなったりするんだよな。

「不安で眠れないようならわたしのところに来ても構わないけど?」

「それは遠慮しておく」緊張して余計眠れなくなりそう。

「それはどういうこと?」

「別にいいじゃん。眠れるって」

「それならいいけど。じゃあね、マスター」

「うん、頑張ろう」

 手を強く握り交わしてから部屋に戻る。

 さて、寝る段になってもそう簡単に眠れないのは目に見えている。とりあえずは、夏休みの宿題でも取り出して眠気を誘おう。全然手に付けてないんだよね……。

 残念ながら宿題は体が受けつけなくてスタートさせるやる気さえ引き起こさなかった。だ、大丈夫か、夏休み終わってしまうぞ……。

マンガを読んでも、小説を読んでもまったく眠くならない。おそらく日々の夜更かしにも問題があるだろうけど。きりがないので電気を落とした。

 外を眺める。敵も言っていた通り今日は月が綺麗だ。明日が最終決戦。気持ちが膨らんできて全然眠れそうにない。不安、なんだろうか。そりゃそうか。わけもわからず敵と戦わなければならないのだし。敵のことがわかろうが、璃音のことを知らなければ一緒だ。そしてそれは知る由もなかった。僕だって自分のことを璃音に語れるのかって言われればそれはできない。僕の淀みきった日常なんて璃音に話してもしょうがないだろう。だからお互いのことをあまり話さないのはおあいこだ。

 ドアが小さく音を立てて開けられ、遠慮深げに璃音が顔を覗かせた。

「えっと、起こしちゃった?」

「いや普通に起きてた」

「眠れないの?」

「まぁ、そんなところ」

「ちょっとお邪魔してもいい?」

「うん、いいよ」

 血の跡はないものの璃音はやはりメイド服だった。

「着替えればいいのに」

 言ってみたものの璃音の普段着が想像できない。

「戦闘服がよかった?」

「まさか」

「戦闘服には劣るけど、これも特別な力が込められている服なんだ。ちょっとやそっとじゃ破れたりしないし、汚れることもない。あ、だから外と同じ服でお部屋に入ったりしてるけど、この服は別に汚れたりしてないからね」

「あはは、何をいまさら。ぜんぜん、気にしてないよ。璃音がそれを気に入ってるならそれでいいよ」

「気にいるというかなんというか、やっぱり今も職務中なんだよ」

「なんだそれ? さっき戦いは終わったのに」

「いいからいいから」

 璃音がベッドに腰掛ける。

「何してたの?」

「うん? 月を見てた」

「やっぱりあいつのが移ちゃってるね」

「なにそれ?」

「月が美しいだとかなんだとか」

 そう言われるとなんだか恥ずかしくなってしまう。

「どれどれ――」

 璃音が僕の横に座る。

「ほんとに綺麗だねぇ」

「なんだそれ」

「せっかく同意してあげたのに」

 璃音は口をとがらせた。

「ごめんって。戦いの最中はそんな余裕なかったもんなぁ」

「だね」

「僕は璃音の戦いを見守るので精いっぱいだし」

 璃音は少し俯いたが、すぐこちらに顔を上げ、

「へへっ」

 満足げに笑った。僕らはまた外を見遣る。刻々と夜は深まってきている。

「で、どうしたの?」

「うん? 何が?」

「こっちに来たから」

「理由がないと来ちゃだめ?」

「そんなことはないけど」

「たまにはわたしだって理由がなくてもマスターといてもいいと思うんだ」

「うん、僕もそう思う」

「というのが建前だけど」

「なんだそれ」

 僕は脱力する。というか建前になっているのか?

「で、どうしたの?」

「あのねぇ」

「うん」

「やっぱり止めとく」

「なんだそりゃ」

 璃音は言葉をつづけない。目線を落としメイド服の破けた部分をいじっている。

「穴が広がっちゃうよ」

 僕の言葉に璃音は一時停止。数テンポおいて顔を上げた。

「見てた?」

 何のことだろう。璃音を見てたから見てたと言えば見ていたな。

「うん、見てた」

 はっと璃音は俯くと体の前で腕をクロスして小さくなった。ええ? その恥じらいのポーズはなんだ。

「はしたない格好でごめんなさい……」

 それほど意識してなかったけど確かに破れた箇所からところどころ璃音の肌が見えているのだ。

「いや、こっちこそごめん」

 デリカシーがなかった。じろじろ見ていたわけじゃないけどここは謝るべきだろう。

「血は汚れだから消すことができるんだけど、こういう穴は消せないんだよね」

「せっかくかわいいのにね」

「ほんとだよ。って、別にかわいいとかだから着てるわけじゃないし」

 璃音ががばっと顔を上げた。

「そうなの?」

「当たり前だよ! ちゃんとお仕事するための服なんだから。なんだと思ってたの?」

「璃音の趣味かと」

 璃音は鼻を鳴らすと体育座りでそっぽを向いてしまった。そしてこてんと倒れた。後ろ姿からも破れた部分から璃音の肌が覗けている。さっき意識してしまったせいだな。とりあえず、目線を外すことにした。

「こいつ何しに来たんだって思ってるでしょ。このまま不機嫌を撒き散らしにきたのかと思われるのも心外だから言っとくよ。あのね」

 やはりわざわざこっちに来るにはそれなりの理由があるのだろう。

「眠れないんだぁ」

 笑った。振りかえってこちらの反応を確認した璃音は不満そうだ。

「笑わないでよ」

「ごめん。だってあまりにも清々しく白状したんだもん」

「せっかく隠すの止めたのに」

「ごめんごめん。今のは僕が悪い。隠すのやめてくれたのに悪かったよ」

「このままの流れでぶっちゃけるとさっきは否定したけど実を言うとメイド服は趣味も入ってます」

「それはまたぶっちゃけたな……」

「だって考えてみてよ。髪の毛ちゃんとまとめないとおかしいでしょ?」

「それはそうかもしれない。なんかメイドさんがかぶるやつあるもんね」

「そうなの。それをわたしはリボンで済ませちゃってるからね。もしかして日常生活で役に立たないのリボンとかその辺からきてるのかなー」

「さすがにリボンに責任押し付けすぎじゃない?」

「なに? マスターだってリボンを馬鹿にしたくせにさ」

「いや馬鹿にはしてないけどさ。さすがにリボンのせいにするのは無理かと」

 璃音のあの破滅的な料理はもっと業が深いはずだ。

「もう、言われなくてもわかってるって。よし、この際だから正直に言おう。わたしは家事ができません! ナッシング・アット・オール!」璃音は腕をクロスさせ、ばってんをつくる。「上達の見込み、無し!」

「ちょ、なんかテンション大丈夫?」

「次はマスターの番ね。正直に話してね」

「話すって何を?」

「それはマスターが考えることでしょ」

「うーん、何も無いような気がするけど」

「それは禁止。絶対何か言って」

 僕は頑張って思考をめぐらせ、話すことを考え出した。

「さっき、璃音が寝れないって言った時、笑ったけど僕も眠れないんだ」

「それでわたしが許すと思う?」

「ダメ、かな……?」

 璃音はため息をつきつつ、両手を少し上げた。

「わかったよ。それでいいから、そんな困った顔しないで。わたし、その顔されると弱いんだよ」

「ごめん……」

「謝らないでよ。別にマスターは悪くないんだからさ。それで寝れないっていうのはわたしがいるから?」

「違うって。来る前から」

 もちろん今は璃音がいるから眠れないけど。

「じゃあ一緒だね」

「だね」

「よかった。ほんとは邪魔したんじゃないかって思ってたから」

「何をしても眠れないんだ」

「そっか、一緒だね」

「こんな二人で明日大丈夫かな」

「大丈夫大丈夫。二人なら大丈夫」

「そっか」

「そうだよ」

 僕らは同じ夜の空気を吸う。

「ねぇ、マスター」

「うん?」

「つかぬことをお伺いしていい?」

 変な言葉遣いに僕は苦笑しながら頷いた。

「例えばね、綺麗な石があるとするでしょ。ずっと持っておかないといけない大切な石なの。でも、時が過ぎるとその石は風化してしまう。そのためには強度をあげなくちゃいけない。でも、そうすると周りと結びつくことで濁っちゃうの。それでもマスターはその石のこと好きでいられる?」

「好きだよ。僕は強い璃音が好きだよ」

 璃音は驚いた。

「バレバレだよ。いくらなんでもヒネリがなさすぎる。僕でもわかっちゃうもの」

「そっかぁ、わかっちゃうかぁ。悔しいなぁ」

 とは言いつつも璃音の顔はほころんでいる。

「マスター、ありがとう」

「うん」

 あまりに無邪気に感謝されると僕も頬を掻いてごまかすかしかない。

「あー、すっきりした」

「もしかしてそれを言いに?」

「ううん、今考えたの。だからこそバレバレだったけど……嬉しいよ」

「そっか。少しでも迷いがない方が戦いに専念できるからね」

「ああ、嬉しいなぁ……じゃあさ、わたしもお返しに何かしてあげるよ」

「え? 別になにもしてほしいことはないけど?」

「眠れないんだったよね? よし、歌でも歌おう」

「子守唄? 馬鹿にしてるな?」

「わたしのきちんとしたお礼なんだよ」

 璃音は口をとがらせる。

「ごめん、でももう夜だから静かにね」

「わかってるって」

「璃音は優しいね。この前だってわざわざ僕のために祈ってくれたし」

 本当は触れたくないけど、今さらだろう。

「実はさ、毎日あの時間にああやって祈ってはいたんだ。無事に戦い通してマスターが安眠できますようにって。でも、今日は……」

 そこで璃音は言葉を詰まらせた。確かに今日の出来事は璃音にとって大きな失態だった。

「いいじゃん。今はこうやってしていられるんだし。璃音が祈ってくれなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれない。ありがとう、璃音」

「お礼は早いって。今からお返しするのに」

「ああ、そっか」うっかりしてた。

「そうだよ。じゃあ、歌うね」

「お願いします」

 璃音はまた窓から月を覗いた。月への感謝も含まれているのかもしれない。

 しかしその歌声はとてものびのびとはしているけれども、子守唄にはならなさそうな調子だった。

「これだとさすがに眠く……あれ?」

 これと同じ感覚を前にもあったような……僕が倒れ込むと璃音が受け止めてくれる。

「ごめん、マスター。また嘘ついちゃった」

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