‐no sweat,no sweet‐
大丈夫でした。
次の敵――ちびっこ二人は目の前で仰向けに転がっている 。
敵は自転車にサングラス付きヘルメットもしくはゴーグルといういでたちで公園に現れた。そして自転車を停めようとしている間にあっけなく璃音の攻撃を食らい地に伏した。
あっけないとはいえ、目の前であんなに隙を作るのは攻撃してくださいと言っているようなものではある。だけどやっぱり相手は納得がいかないようだ。
「卑怯者!」
「暴力女!」
「なんですって?」
璃音はピコピコハンマーで小さな体を小突く。
「こんなのありかー」
「こんなのなしだー」
「これが経験の差ってものね」
嘲笑する璃音。
「大人げない……」
「ちょっと!? これは戦いなんだから」
「わかってるって。でも敗者に対して酷いな、と」
「わかったよ。ほら立って。よく頑張ったね」
璃音が手を広げ、子ども達は璃音の胸に跳び込――まずにすり抜け僕の方に駆け寄ってきて、そのまま後ろに隠れた。
「ばーか」
「あほー」
璃音はゆっくりとこちらを向く。
「しつけが足りないみたいだね……」
僕のズボンを掴む子どもたちの手に力が入る。璃音がゆっくりとやってくる。子どもたちは僕を見上げ、その目は助けを求めていた。
「璃音、可哀想だからやめよ?」
「マスターはわたしが可哀想じゃないの? こんなに馬鹿にされてるんだよ……」
「いや、ほら、負けるのってやっぱり悔しいし。だから、多少のおイタは仕方ないというか。やっぱり子どもだし」
必死に弁護する。
「そうだぞー」
「こどもだぞー」
「なっ」
せっかく弁護してるのに。
「ばかなのかー」
「ばかなんだー」
璃音はハンマーではなく拳を掲げる。
「ちょ、それはまずいって」
「いいんだよ?」
璃音は朗らかに笑う。怖くてもう何も言えない。
「ぼうぎょー」
「バリヤー」
「は? うわっ――」
「えっ?」
僕は璃音に倒れ込んだ。おそらく頼りにならなくなったので僕を突き飛ばしたのだろう。なんていう分析を倒れ込みながら思った。
立ち上った璃音は攻撃を加えていく。敵は軽やかにかわしていく。璃音を馬鹿にしながら……。璃音も見事にその挑発に乗り攻撃が直線的になっていく。結果、攻撃はかわされ続け璃音の怒りのボルテージだけが溜まっていく。
璃音の攻撃は『カラフル・リフレクション』と『モノトーン・リフレッシュ』の二種類ある。
一つ目の『カラフル・リフレクション』はいわば近接攻撃だ。敵に向かって直接ハンマーを接触させ、自らの力を相手の体内で流動させるものらしい。
対する『モノトーン・リフレッシュ』は遠隔攻撃。空間を叩くことによって敵にむかって光を放出する。あの嫌な空気を振り払うのが『モノトーン・リフレッシュ』であるらしいので必ずしも具体的な敵に攻撃しているわけではないらしいが細かいところは説明されていない。
そもそも最初は戦いに関することを何も話さなかったのに、今朝聞いてみたらあっさり話してくれた。どうして最初話してくれなかったのか尋ねたところ、「マスターは何も言わずに引っ張ってくれる女の子がいいと思っていた」とのこと。
確かに行動力に乏しい僕に理想の女の子はそんなタイプだろう。恥ずかしいことにそんなことを実際に口にしたこともある。しかし夜中に空中に引っ張り出し、こちらからの質問に何も答えてくれないとはなんという斜め上の理想の実現だ。
さて、おてんばなわがメイドは勝利を手にしたにも関わらず今も目前の敵に苦戦している。
璃音の基本的な戦い方は遠隔攻撃を繰り出し、敵の行動を範囲を狭め、近接攻撃を繰り出すというものだ。しかしその攻撃パターンは相手が一人の時に有効となる。なぜなら両種類の攻撃を一度に行うことはできないのだ。よって二つ目標があると的を絞りきれなくなるのだ。
それにしたって双子の動きは見事なものだ。片方はシューズが武器で移動に特性がある。もう一方は短剣だ。ともすればお互いが進路を妨害しかねないが、連動して璃音の攻撃をうまく散らしている。あれだけすばしこかったら実戦でも苦戦していたかもしれない。速攻をした璃音の判断は適切だったと言えるだろう。
「マスターちゃんと見てる?」
遠くの璃音に僕は応えた。別に璃音がかまってちゃんなわけではない。どうやら璃音の力の源は月の光にあるらしい。ハンマーの打撃は月の光を呼応させ攻撃の力を生み出しているのだ。
だが天気が悪いと月の光が届かない。そこで僕の視線が重要なものとなるらしい。なんで僕の目にそんな力があるのか。ここのところ毎夜、月の観察に勤しんでいたからそんな力があるとかなんとか。理解しがたかったが璃音にとって必要ならその役目を引き受けようではないか。そう思い璃音から視線を外さないようにしている。
璃音がこちらに寄ってくる。
「マスター、ちょっと手伝って!」
「はいはい」
僕は半ば呆れ半ば笑いながら璃音と手をつなぐ。
「本気でやるからね」
「了解」
流石に璃音が本領を発揮し始めると、相手も分が悪くなりついには璃音の攻撃を受けてしまう。地に伏した彼らの表情は晴れやかだった。充分遊びつくしたようだ。
「楽しかったー」
「疲れたー」
「あなた達、なかなかやるわね」
璃音も肩を上下に揺らしながら、手を伸ばす。子どもたちはそれを受け取り、今度こそ璃音に抱きつく。
「よしよし」
璃音が子どもたちの頭を撫でる。微笑ましい光景だ。
「ぺちゃぱい」
え?
「すかすか」
ちょっと?
「なんですって……」
璃音が凄む。
「「逃げろ―」」
「……」
「えっと、璃音?」
震える肩に手を置く。
ああ、怒っている。出会って以来一番怒っている。相当気に障ることだったんだな。
「冷静な分析しないでよ……」
こちらを向く璃音は涙目である。
「じゃーねー」
「たのしかったよー」
敵の二人は逃げるように天空に吸い込まれていった。
「あっ、おい」
この状況をどうしてくれるんだ。
「マスターぁ」
「情けない声出すなよ。子どもの戯言だよ」
「でも事実だしぃ」
「……」
「反応に困らないでよ!」
僕を叩くピコピコハンマーが情けなく鳴る。
「別に気にするようなことじゃないし。ほら、戦闘の時にも邪魔にならないし?」
「わたしの実力なら胸が大きくても勝てるよ!」
「ま、まだ成長過程かもしれないし」
「ほんとですかぁ?」
なぜに敬語なんだ。
「うん、多分」
「やっぱり確証はないんだ……」
呟く璃音にはちょっとした絶望感がある。何をそこまで気にしているのやら。
「でも実際問題、気にすることないって。何が問題なの?」
「だってマスターを抱擁する時にさ、なんかさ抱擁してるのに包容力がないっていうか」
「どういう状況を想定してるのさ。別にそんなことしなくていいって。やっぱり邪魔なことの方が多いって」
思わぬ発言に動揺が抑えられずちょっと早口になってしまった。
「本当に?」
「多分」
「やっぱり慰めなんだ!」
「大丈夫だって。僕のこと信じられない?」
「それは……いじわる」
「はいはい、いじわるでいいから」
「ずるい」
「ずるいね」
「性根腐ってるよね」
「そこまで!?」
「えへへ」
璃音は笑みをつくった。いや、えへへじゃないし。けっこうひどいぞ。
と、璃音の肩掛けカバンから何かがひらひらと落ちた。えっと……取扱説明書、「ストーンは能力者の想像力によって戦闘服を変形させます」だって?
「ということは、つまり璃音は自分でその園児服を選んでいたってこと?」
「えっ? 嘘だよっ」
「だって書いてあるんだから」
「し、知らない」
璃音はそっぽを向く。
「素直になった方が、傷は深くならないよ?」
「知らないって」
「ふーん、そうなんだ」
僕にはまったく理解できていない事柄だしそれはそれで納得するしかないだろう。戦闘服の発注の手違いがどのようにして起こるのかなんて、僕には理解する術はないのだ。
「……今ならまだ間に合う?」
「何が?」
「い、いや、何も」
「ただ物事を始めるに遅いはないって言葉はまま聞くな」
実感したことはないし、全然、関係ない話かもしれないけど。
「……じゃあ、白状する。自分でイメージしてたかもしれない」
「そっか。へー、璃音はそういう趣味なんだ」
「違う!」
「そっかそっか」
「だから違うって……じゃあ、マスターは嫌い?」
哀願するような目だった。これは迂闊な答えはできそうにない。
「うーん、そう言われると難しいけど。実際、似合ってるし。でも、どうかなぁ……」
我ながら煮え切らない答えである。果たして認めていいのか非常に微妙なのだ。認めないと璃音は傷つくかもしれないし、認めると僕の嗜好性が危うい。
「変えた方がいいかな?」
「メイド服でいいんじゃない? やっぱり不利になることは避けた方がいいよ」
「そうだよね」
「それと璃音、敵の言うことに一々動揺していたらダメだよ」
「だってマスターが優しくしろって言ったんじゃん。それだと怒れないじゃんか」
「一応、怒ってはいたよね」
「いたけどさ!」
「まぁまぁ落ち着いて。なにか飲み物でも飲もう」
僕の提案に璃音は渋々従った。
僕の手にはストレートティー、璃音の手にはオレンジジュース。ブランコに乗って僕は揺れる璃音も揺れる。
「まだなんかむかむかする」
「あらら。じゃあアイスとか食べる?」
「別にいい」
「じゃあ他になにか買おうか?」
「いいって。本当はこうやってるのでさえありがたいことなんだから」
璃音は両のてのひらでペットボトルを挟んでころころ転がしながら呟いた。口がとんがっているのは気のせいだろうか?
「このくらいどうってことはないよ」
「わたしにとってはありがたいの」
「わかったよ。でもそんな風には見えないけど」
「笑えばいいの? 笑えないけど」
「やっぱり気に障ったんだ?」
璃音は言葉の代わりにじっとこちらを睨んで応える。
「ごめんって」
「本当はさ、すっごく嬉しいんだよ。でもこんなに甘えていいのかなって」
「いいと思うけど」
何が問題なのだろう。
「難しい問題なんだよ」
「甘えるか甘えないかで言えば甘えてくれた方が僕だって安心なところはあるし」
「そう言われるとそうする」
「うん」
「アイス食べたい」
「……うん」
甘々すな。
☆
心配そうな面持ちの璃音がそこにいた。単に部屋が暗いだけかもしれない。
僕は自分でも意外なほど落ち着いて言葉を口にすることができた。
「……どした?」
「大丈夫?」
「大丈夫って何が?」
僕は掛布団を引き寄せる。璃音は視線を落とした。
「何でもないようなら、何でもない」
「何それ?」
僕は笑ってみせた。時間を確認すると眠って数時間くらいしか経っていない。真夜中にも関わらず一体璃音は何しに来たんだ?
「ちょっと失礼」
璃音がカーテンを開ける。街灯の光が入ってきて不快に思ってしまった。
璃音は指を組み合し目をつむり、祈るような格好になった。
「何、してるの?」
「祈っているの」
われながら愚問だった。
「今は敵はいないはずだよ?」
「今回は違う。マスターがどうか安らかに眠れるようにって」
「なんかそのまま永眠してしまいそうだな」
「茶化さなくていいから」
「うん、ごめん」
気まずさに普段しないような軽口を叩いたことを悔いた。僕の場合はまず祈る前に謝る必要があるだろうな。謝って済むならそれが一番だ。
窓の外の光を反射するのではなく、璃音の髪が光を放っているように見える。多分寝ぼけ眼だからだろうけど。
「“月のあなたに。あなたはわたし。わたしはあなた。姿が見えずとも御身を見出し、導き手となりますように……”」
小さい体をさらに小さくして、ささやかな願いを届ける。璃音の真摯な様に僕も胸を打たれる。璃音の身を祈りたく思う。どうか璃音の試練が成就しますようにと。とはいえ僕が祈らずとも璃音ならきっと成し遂げることができるんだろうな。
そもそも璃音のこの所作は祈りとか願いというよりも宣言の意味合いが強いらしい。このように宣言することで自分をこの世界に位置づけるものらしい。
「さぁこれで良く眠れるはず」
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして……うん?」
無言の僕に璃音はこてんっと首を傾ける。
「なんか髪、綺麗だなって」
「ありがとう」
璃音は控えめに笑う。光の加減でちょっと大人びて見えた。
「マスターも祈ってみる?」
「実は璃音が祈った時に祈ったんだ」
「本当? なんて祈ったの?」
「それは言わない」
「なんで? わたしはなにを祈るか口に出してるのに」
「祈りとか願いって口に出す方が少ないよ」
「ふーん、わたしは口に出した方が願いが叶うって思うけども」
「願いが叶わなかった時、その事実を誰かに知られるのは嫌だよ。そっとしといてほしい」
「でもわたしの願ったことは紛れもない事実で、それは誰に知られてもわたしは同じって思うけども」
「それは璃音が強いからだよ」
「強い?」
「うん、つまり、璃音がそれほどまでに月の力を信頼しているってことになるんじゃないかな。誰に何を思われようと信じ続けるわけだ。そういう揺るぎなさは強さの証だと思う」
「なるほどね。わたしとしてはただ事実を口にしているって感じが強いんだけどね。だってわたしはそういうふうに祈って導いてもらってしか力を発揮できないんだもの。昼とかはむしろマスターに迷惑をかけちゃうくらいだし」
「僕はそれでも構わないんだけどね」
「だからそういうことを言わないで。優しさでわたしをダメにしないで」
「そんなつもりはないけどさ。璃音はさ、向上心が強いんだね。僕は月の下で輝こうだなんて思わない。僕は月を眺めてたいだけなんだ」
「うん、わかってる。だからマスターはわたしの力になれるんだよ。マスターがぐいぐい出てきたらわたしと衝突しちゃうもの。マスターは本来従者のわたしを立ててくれるよくできたマスターです」
「そりゃどうも」
璃音に褒められてどうしても頬が緩んでしまうのが自分でもわかる。
「さっきマスターが祈った内容って、どうか世界がこのまま変わりませんように、って感じなのかな?」
「残念ハズレ。というか世界が変わらないことって祈るようなものなのかな。世界が変わらないことって僕には単なる事実ように思えるんだけど」
「うーん、そうかな? マスターも成長期というか色んなことを吸収する時期なんだから自分だけじゃなくて世界の見方とか変わっているんじゃないの?」
「成長ね、僕にはあまり関係ない話だな。僕は変わらないし、世界も変わらない。僕はただ月を眺められればそれでいいかな。確かに僕は月を眺めることしかできないけれども、それで璃音の助けになれるならそれでいいやって思う。僕の月を眺めるだけの行為も悪くないって思える」
「ふふ、もう大丈夫そうだね。元気出たっぽい」
「最初から大丈夫だって。璃音も大丈夫? 今日の敵はあっさり終わったけど」
試練のための大事な敵のはずなのに。
「わたしに敵う相手なんていないって」
初戦のことは触れないでおこう。
「世界は食べられてるんだよね。それって大丈夫なの? 虹の色を集めてるって言ってたけど」
「虹の向こう側に行きたいの」
虹の向こう側? 虹は近づいても捉えられないと思うけど。しかし璃音が目指すなら僕には止める権利も義務もない。ただ璃音の試練が無事に終わることを願うのみだ。
「マスターは世界がもし壊れちゃったらどうする?」
突拍子もない質問だった。
「どうするもなにも僕はなにもできないよ。ただ茫然とするんじゃないのかな。最初の敵のお姉さんにも街を滅ぼすって言われたけど、いまいちピンとこなかった。僕にとってこの街がなんなのかわからない。僕が暮らすのがこの街でなければならない理由がわからないんだ」
たぶん大切なものがないからだろう。それがあれば失われることに怒りだったり絶望だったりを感じるに違いない。
璃音が僕の頬に手を添える。当然僕の鼓動は高くなる。
「うん、無理してこだわる必要はないと思うよ。でもそんな寂しい顔されたら困る、かな」
どうして璃音が困ることがあるのだろう。それで集中力が乱れたりして戦闘で不利になるからだろうか。
「もし本当に世界が全部食べられてしまったらどうなるの?」
「自分から訊いときながらなんだけど、そんなことはありえないよ。ちょっとマスターがどう思っているか知りたかっただけなの。不安にさせてごめんね。大丈夫、わたしがいるんだもの。マスターはただわたしを見ておけばいいの」
僕は同意して頷いた。
でもそれってなんの意味があるのだろう。なんの力になれてるんだろう。もっと他に力になれることはないのだろうか。璃音自身に訊いてもこうやって出会えたことに意味を持たせすぎだって言われるだけだろう。といって自分では思いつかないし初戦では集中力を乱して失敗もしている。このままでいるしかないのかな。
対する璃音はちょっとおどけた感じで笑顔をつくる。思わず僕も顔が綻んでしまう。
「はい、マスターの負けー」
「なに? 勝負だったの?」
「そうに決まってるじゃん。笑ったら負けだよ」
「でも璃音が先に笑ってたよね?」
「わたしはいつもこんなだよー」とさらに満面の笑みを向けてくる璃音さん。僕は顔を背けざるを得ない。
「二敗目ー」
「そんなの反則だって……」
「どー反則なのー? こっち向いて言ってみー?」
「やだよ」
あまりに笑顔が素敵だからとか言えるか。
「なんでー?」
「嫌なものは嫌なんだよ」
「どうしてどうしてー?」
声音だけでさっきの笑顔を思い出してしまう。どうしようもなくてこらえきれず、僕は目をつぶって仰向けに寝転がった。
「わかったよ、僕の負けだよ!」
あまりに過剰な力は反則に近いな。というか勝負の初めからルールわからないし。
「ふーん……負けを認めるなら相手の目を見て言わないと」
「まだいじめるか」
楽しげに璃音が笑い声をあげる。僕は許しを請おうと目を開き、起き上がった。少し目線を交わすと二人で笑った。
束の間の休息が今日も優しい。こんな時がずっと続けばいいと、叶うことなんてないのに願ってしまう。少し寂しくなった。やっぱりなくなると困るものがあるというのは困る。
「僕はこういうシチュエーションは好きだな。ちょっと寝苦しい夏の夜」
夏の夜が好きなだけなのかもしれない。夜が好きなだけかもしれない。
「そうなんだ。寝苦しいのに好きなの?」
「なんでだろうね。気分がいいんだ」
僕は立ち上り窓辺に寄る。当たり前だけどそこには夜の風景があった。三角の屋根が街灯を反射させているのだ。よくあるような家並みが見えるだけだけれどもなぜか心落ち着く。
「平凡かもしれないけど、僕はこういう風景が好きなんだ。当たり前に見えて当たり前に感じられるもので。別にこの街に愛着があるわけでもないけどさ。だから平凡が好きなのかも」
「平凡かぁ」
「いや、違うかも」
「どっちさ」
璃音は苦笑する。
「やっぱり平凡は平凡なんだ。でもどうして好きなのか自分でもわからない」
「そういうものなんだ。確かになぜ好きかだなんて絶対に理由がいるものでもないしね」
「多分怖いんだと思う」
「怖い?」
不安を予感して息を若干長く吸い込んだ。すっかり高揚した気分はなくなっていた。
「例えば、僕にとって大切なもの、綺麗なものを敷きつめようとするんだけど、なぜかそれは小さくなって最後は散らばってしてしまう。どうしてだろうって考えるんだ。それはきっと本当はそれらがガラクタだったからだ。取るに足らないものだったんだ」
ああ、僕はなにを言ってるんだろう。別に興が乗っていないのにこんなにべらべらしゃべって。璃音の表情も暗い。そりゃそうだ。こんな話されても困るよな。
「いや、違うな。原因はそれじゃない。それらじゃない。それらは見ようによっては他の人の目から見ても輝くはずなんだ。だからダメなのは中心に不純なものが居座っていたからだ。観察する僕が不純だからだ。例えどんなに輝きを持っているものでも僕の視線を通せば汚れてしまう。そういうことなんだろうと思う。だから――」
どうしろっていうんだ? わからない。わからないけど僕は話さなくてはいけない。そう思う。
「だから、綺麗なものが壊れないように平凡なものを好きなようにしているのかもしれない。本当は興味がないのに興味があるようなフリをして。どうせ汚れたって本当は興味のないものだったって言えるように。困るよね? こんなこと言われても。僕だって自分でなに言ってるんだろうって思ってる」
「本当に、それだけの価値しかないのかな?」
「うーん……自分でも整理できないからなぁ。まぁ、勝手に言ってることだし。勝手に見て、勝手に平凡って言って、勝手に好きだって言って、勝手に本当は違うとかそんな感じだし。ご近所さんからすれば勝手にやってろっていう話だし」
「ご近所さんの話なんてしてない」
璃音がこちらを見据える。僕はベッドの縁を見遣る。
「ごめん。本当はこんなつもりじゃなかったんだ」
「別に謝ってくれなくてもいい。ただマスターは本当にそう思ってるのかっていう話」
でも、整理できてないし。とはいえ、謝りたいけど謝って済む話ではないらしい。祈ることも謝ることもできない。僕は一体どうすればいいんだろう。
「えっと、えっとね」
続きの言葉はなかった。何かを言おうとするポーズだけで姑息なあがきだった。
「マスター、もういいって。ただ疑問に思っただけだから。そんな苦しそうな顔されても困る」
「ごめん」
そんな顔を僕はしているのか。確認しようはないけど、それだととても見苦しいな。少し息を漏らすと璃音は無言で窓の外に目を遣った。
何を見ているのだろうか。きっと璃音には璃音の景色が見えているのだろう。きっと璃音の見ているものは僕のそれとは違う。きっとそれはずっと遠くのものに違いない。僕は目の前のことで精一杯だ。でも、目の前に璃音がいればそれで十分なんじゃないか。いや、そんなこと考えてもしかたない。今こうしていられることに意味なんてないんだから。
「わたしはここのことはよく知らないよ。でも、今はまだ落ち着かないけど、でも時間を重ねればいつか大切なものになるんじゃないかな」
「うん」
なにが「うん」だ。馬鹿だ。自分は大切なものなんかないくせに。
璃音はその手を僕の手に重ねた。そこで初めて僕は自分がきつく拳を握りしめていることに気づいた。
「マスターにはもう少し自分に対して優しくなってほしいかな」
「十分優しいと思うけど。甘いというか」
「ほら、優しくないじゃん」
璃音の指摘に僕は返答に窮する。
「そこのところよく考えて。さ、寝ようか。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
終わりあっさり璃音が部屋を出て行ってしまった。悪いことをしたと思うも代わりにできることもない。
さて、休もうか休むまいか。目がさえてしまったような気がする。というか、いつもだったらこの時間は起きていた時間だし。
起きていたとしても何かできるわけではない。夜は切迫感だけを押しつけてきて、それで僕は身動きができなくなる。いくらでも課題は山積みだというのに、こんなことじゃいけないとわかっているのに、僕にはどうにもできない。
どうにか夜をやり過ごそうと僕は視線を、思考を、散漫にする。僕ができるのはそのくらいだ。璃音が僕を連れ出したのもそんな夜だった。
夜に押しつぶされそうになっていてもたってもいられなくなった僕は姉の部屋に向かった。いつもの通り姉の部屋のタンスにあるサイコロを手のひらで転がしていたのだ。実際に振ることはなくタンスの上に戻すだけ。でもあの夜は間違えて手から零してしまったのだ。逃げていくサイコロを急いで追い、知りたくもない目を知るくらいなら破滅の目が出てほしいと願いながら僕は倒れ込んだ。
目の前に光の粒が集まり僕はその名前を呼んでいたのだ。そして彼女は応えた。応えて僕を夜に連れ出したのだ。
億劫だけど窓の外を見遣る。紛れもなくそこには夜があった。じりじり、やもやとした、短いはずなのにちょっぴり長く感じる夏特有の夜がそこにはあった。いや、それは夏休みで夜更かしをしているだけの話か。学校があったら疲れてすぐ寝るものな。
今頃、蝉達は明日に備えているのだろうか。土から這い出てきているのもいるだろう。蚊は相変わらず夜も徘徊しているようだけど。ご苦労なことだ。僕は特別、蚊に好まれる体質ではないようだけど、姉はよく刺されていた。姉は今もまたどこかで刺されているのだろうか。蚊も元気な人の血の方が良いだろう……そうなのか? それは知らない。もしそれが本当だったら体力つけると寄ってくるのかな? 今さら体力つけても先に夏が終わるだろうけど。もう何回かすれば夏休みの長い夜も終わる。学校が始まれば夜更かしもできなくなる。そうして何の変化の見込みもないままどんどん夜が過ぎていく。
ほんとに僕は夜が好きなんだろうか? わからない。自分のことだけどわからないのか、自分のことだからわからないのか。それとも自分のことではないのか。それすら判然としない。居たたまれない気持ちになる。
ああ……脳裡に閃光のように璃音の祈る姿が割って入った。
一人でいる時も一人でいさせてくれないなんて困ったメイドだ。おかげで落ち込んだままで怒られないように気を張っておかなければならないじゃないか。
僕は深く息をついた。メイドのしつけだ。気分を切り替えよう。
そっか。祈り。祈りがあった。途端、胸の中が何かでいっぱいになる。
月の光が届いている。月は今日も変わらず同じ面をこちらに向けてくれている。その裏側を僕は知らない。だけど、そんなこと知らなくていい。僕にとって月とはあの輝いている面を言うのだから。僕にとっては璃音が月なんだろうな、なんて唐突に思う。もちろん本人には直接言うことはないし、そんなやりすぎの表現が思い浮かんだことにも体が恥ずかしくなって体が熱くなる。
外的にも内的にも寝苦しい夜になってしまう、そんな夜だった。




