‐I‐
赤色はそっと息を吐いた。
窓の外には徐々に高度を下げている月。
欄干に座った赤色は自分の両の手のひらを眺め、もう一度空を見上げた。空には申し訳程度の星が散らばっていた。そっと踏み出し、空を飛んだ。
夏の夜に軽やかにたなびく金の髪。両手を広げ目を閉じ息を深く吸い込む。浮遊する体は何かに引っ張られように移動する。大の字に仰向けになって中空をたゆたった。そこには緊張のひとかけらもない。赤色はただあるがままに存在しているのだった。
時が満ちた。
赤色は一つ息を吐くと、一閃、空間を叩いた。途端に空間が荒々しくねりあげられ、もう一つの姿が具現する。
藍色の少女は背中を向けて月を眺めている。
「こんな夜は一人月に相対することこそ相応しき態度だと思わないかい?」
赤色は答えない。藍色の髪を風がさらった。
「一難去ってまた一難、風雲急を告げる、か。せっかくいい気分だったのに」
藍色は振り向き、不服そうな様子を覗かせる。
「ごめんなさい。でも時は満ちたでしょう?」
「そうだね」
今度、藍色は笑みを湛えしみじみと同意した。
「マスターたってのお願いなの」
「わかってるよ。それにしても」藍色は辺りを見回す。「なんという荒業だ。あえてこちら側の力を開放することで空間を作り出すなんて。並みの力だと飲み込まれてしまう。君だからこそできることだ。ほとんど反則技に近い」
「今の状況でもぎりぎりなの」
「一体どうなっているのか。ややこしすぎて僕には想像がつかないよ。なぜこのような状況が生まれるのか」
「月に訊いてみれば?」
「まったく、人を馬鹿にして。どうせ背を向けたら奇襲攻撃でも仕掛けるんだろう? 前にしたように」
「最後の戦いをそんな風に終わらせたりしないわ。これがマスターに捧げる最後の晴れ舞台なのだから」
「……なるほど、そういう状況なのか。それでおかしな空間になっているわけだ。でもいいのかい? これは果たして彼の望みなのだろうか。僕はそう簡単に君を勝たせないよ。きっと前回以上に苦戦するだろう。ますます痛手を負うことになるだろう」
「そうね。わたしもまったく矛盾しているわ。こんなおあつらえむきの舞台を用意して、マスターに醜態を隠すより自分の姿を見てほしいだなんて」
「だから君は君なのさ」
「それはどういう意味かしら?」
「褒めているのさ」
「それはどうも」赤色は恭しく礼をする。「さて、おしゃべりはここまで」
「ああ、時間は限られている」
「正直、早く帰りたいのよ。待っている人がいるからね」
「聞いてないよ」
「何よりマスターには穏やかに眠ってほしいのよ。眠りについてさえ苦しむなんて辛すぎるじゃない?」
「だから聞いてないって」
突如、藍色のリボンが伸び、赤色に襲い掛かる。軽やかに赤色は躱す。なおもリボンは赤色を追う。
「しつこい」
「褒め言葉だ」
執拗に迫りくる攻撃をステップ、ターンを踏みながら赤色はすり抜けていく。その口元からは笑みが零れている。夜更け、一人の少女の軽やかなダンスは止まらない。
「まるで重荷から解放されたようだね。本来の姿というわけか。しかしそうやっていつまでダンスを楽しむつもりだい?」
「あなたも楽しんでいるじゃない」
藍色も自ら意識しないうちに口元を緩めていた。表情を作り直す。
「まったく君は素晴らしいよ。パーフェクトだ」
「ありがとう」
「それじゃあ、次のレベルだ」
リボンはさらに数を増し激しさを伴う。だが赤色を捉えきることはできない。藍色のリボンは髪の毛一つさえも目標を捉えられない。藍色は攻撃の手を終える。
「さすがに次のステージが望める者の動きは違うね」
「もう終わり?」
「まさか。小休止といったところさ。ダンスの後はしばしのご歓談を、というわけさ」
「次はどんな出し物が登場するか楽しみね」
「その自信に満ちた表情も素晴らしい。でも、油断していると足をすくわれるよ?」
「誰に言っているのかしら。本当の強者は弱者に対しても全力を尽くすものよ」
「はてさて、言ってるそばから行動が伴っていない気がするのだけど?」
「実力者は力を隠すこともある」
「どっちだい?」
「どっちもよ」
「やはり君はおかしなことを言うね。君はもっと割り切ったことを言うと思っていたが。いやはや彼の影響かな?」
さあねと赤色は答えをはぐらかす。
「そうだとしたら好ましくない。君は君で十分なのだから。一体、君にとって彼はどれほど価値があるのだろうか?」
「すべてよ」
赤色のはっきりした物言いに藍色は少したじろいだ。
「なぜ君がそこまで彼にこだわるのか僕には理解不能だ。らしくない」
「あなたに測れるわたしではないわ」
「それは同意する。でも今の君は好ましくないんだ。輝きが足りない」
「こんなに月が照らしているのに?」
「君は君自身で輝くべきだよ」
「随分と評価してもらえているようね。当然だとは思うけど」
「僕を彼女らと一緒にしないでくれ。彼女らじゃ君の相手は務まらない。僕はきちんと君を見ているよ。それにしても彼女らに随分と温情をかけたじゃないか。僕ならもっと手早くやる。正直やきもきしたよ。それも主がいるからかな?」
「なんでもマスターに結びつけたがるのね。単調で退屈だわ」
「だって君が、だよ? 彼女ら相手にてこずるなんて信じられないことだ。考えたくないがそれとも……」
藍色は目を覆うリボンを通して値踏みするような視線を送っているかのようだ。
「さあね」
「僕としても君が時間をかけてくれるから、こうやって楽しくおしゃべりができているわけだけど、そろそろ君の真の力を間近で見たいものだ。こうまで焦らすものかい?」
「時が、満ちていない」
「あはは。ここにきてまたおかしなことを言う。でもいいねぇ、その思わせぶりな態度は。時が満ちたのに時が満ちていない」
藍色は赤色の存在を味わう。
「その余裕の後ろには何があるのか楽しみだ。嵐の前の静けさ。たまらないよ」
「そこまで期待値を上げて大丈夫? いずれにせよわたしが勝つのだけど、あなたの趣味に合っているかなんて気にしていないから」
「いいさいいさ。わかるんだよ。これは何かが来る……」
「結局一人で興に乗ってしまうのだから」
「失敬。でもしかたないものさ」
「あなたがあなたであるから? くだらない。正直言ってあなたの興の乗り方は、わたしにとってそれほど共感の持てるものではないわね」
「そうかい? それだと申し訳ない。だけど、どうしてだい? 君だってこうやってわざわざ舞台を用意したというのに。まさかこの期に及んで力を出すのを躊躇っているのかい?」
「こうも言ったはずよ。マスターの願いだって」
藍色は顔をしかめる。
「……それで君は何が嫌なんだい?」
「こうしたものすべてが」
「うん? 言っている意味がよくわからない」
藍色は明らかに当惑する。
「そんなことが果たしてあるのか? 君は何を言っている? 君は自分で言っている意味を理解しているのか? それはいくらなんでも矛盾しすぎてはいないかい?」
「だから初めから言ってるのよ。わたしは不完全な状態にある」
「それじゃあ――」
藍色は大きく体を広げる。
「僕のこうした言動も、姿も、何もかもが嫌だっていうのかい!?」
「あるいはわたし自身も――」
「なっ、そんなのおかしい! 君はパーフェクトだ。そんなの許せないよ。自分を嫌う理由がどこにある? ないだろう? あるはずがない」
「そういえばマスターにリボンのスペルのことをからかわれたわ」
「……まったく無粋だね。そんなこと気にする必要がない」
藍色は不快を露わにする。
「でも、そういうものなのよ。リボンにアルファベットが記されても馬鹿にされるだけ」
「いやいやまだまだ現役さ」
「幸か不幸かね」
「それは僕らには関係ないさ」
「一緒にしないで」
「一緒にされると君のプライドが許さない、か」
「いいえ、もうわたしはあなたとは違う」
「いやいやまだまだ現役さ」
「そうかしら?」
「だってまだこんな力が使えるんだもの!」再度、藍色は体を広げる。「本当に素晴らしい力だ。君はそれに満足しない? いいだろう、それこそ君らしい」
「また始まったわね」
赤色は呆れた様子で髪をかきあげた。
「僕も君に、僕に、満足しないよ。だからこそ僕たちはこうして月の下で輝ける」
「それは悲愴な輝きよ。月がなぜ光っているかわかるかしら?」
「ふん、そのくらい知っているさ」
「わたし達は徒花よ。決して実を結ぶことがない」
「徒花でも構わない! その美しさは僕が知っている。僕には君が見えている。君も僕のことが見えているだろう?」
「そうね」
「なら――」
「あなたはちゃんとわたしの言いたいことがわかっているかしら?」
「もちろんさ。結局君の問題はこうだろう――夜と朝は交わらない」
「わからないようなら、この際言ってしまうわ」
「何さ?」
「わたしにはマスターが必要なの」
「まだそんなこと言っているのかい。馬鹿か君は! この期に及んでそんなことを言ってなんの意味がある。そんなのただの上面の話だろう? あいつを騙すための方便でしかない」
「違うわ。わたしはマスターの下で真摯に務めているつもりよ。もちろん手抜かりはたくさんあるけれど」
赤色の申し訳なさげな態度に藍色は気持ちをかきたてられる。
「あいつはただの愚かな従者だ! 君こそが真の主人じゃないか!」
「それ以上マスターを貶めると許さない」
赤色の目が鋭く光った。その様子に藍色は当惑する。
「ありえない。君はどうしてしまったんだ。おかしい。今の君は僕が傾注すべき対象じゃない」
「あなたはそこまでわたしが見えなくなってしまったの?」
「君の方がおかしくなったんだ!」
「話にならないわ。こんなことを延々と繰り返していても意味がない」
藍色はうなだれた。長い髪がだらりと垂れる。
「まあ、いいさ。随分と君を見ることができた。これでいい」
「見返りに何か頂こうかしら?」
あざけたような金色に藍色はしっかり目線を返した。
「ああ。僕の力、すべてをもって君への餞としよう」
「言ってなさい。力の差を測れなくなったあなたに勝ち目はないわ。一撃で終わらせる」
赤色が深く構える。
「近接技、か。君の姿を近くで拝むことができる。ありがたい。だが、少し、悲しい。惜しい」
「やはりあなたは力の差をわかっていないようね」
赤色に力が集中する。藍色は動じずその姿を目に焼き付ける。
「綺麗に終わらせてあげるわ。マスターには少しもの足りないかもしれないけど、許してもらおう。あなたも余裕をかまして負けても文句は受けつけないから」
「いいさ、君が高くあれば高くあるほど僕も輝ける」
「最後まであなたはわたしも自分自身も知らなかったようね」
赤色の表情が闇に包まれ、獲物を狙う獰猛な眼だけが妖しく光る。
「いい顔だ」
赤色はさらに深く深く態勢を沈ませる。
「レディのする格好とは思えないけどね」
やはり赤色は答えず、武器を持つ右手のほかはほとんど匍匐になり、力が目一杯ため込まれている。
藍色は人差し指を小刻みに折り曲げ挑発し、それを合図に赤色は空間を蹴る。最高速度をもってして赤色は確かに目標を捉えた、はずであった。
みるみる対象はリボンに姿を変え解けていく。
「なっ――」
驚愕する赤色の手足をリボンが捉える。
「囚われ過ぎだよ。もっと周りを観察しないと。どうしたんだい? そんなありえないことが起こったみたいな顔をして」
「ありえないわ。あなたがすり替わっているなんてわたしが気づかないはずがない……あなた、本当にいるの?」
「僕が存在するかどうかは君が決めることじゃないかい?」
「わかったわ。あなたはいる。わたしが存在するようにね」
「素直でいいことだ。」藍色は満足げに頷いた。「そう君が存在するように僕も存在し、君が振る舞うように僕は振る舞う」
「わたしはそんなに劇がかってないと思うけど」
「“月は僕の味方だ”」
赤色の冷やかしに応じることなく藍色は宣言する。
「僕の能力は月の力を浴びることで能力を増大させる。つまり、君と同じさ。もっともあくまでこれは結果にしか過ぎないけども。君を追い続けた副産物だよ。君が君であるからこそ今の僕たりえているのさ。君が輝けば輝くほど僕も自分を焚きつけて輝くことができ、君が落ちぶれれば僕も落ちぶれる。こんなところでどうかな。君は僕の能力をどう思う?」
「わたしの能力に比例すると言うことはいつもあなたの能力はどれだけ頑張ってもわたしを越すことが無い。わたしの能力以下ってことじゃない。それでどうやってわたしに勝とうというの? まさかこのままおしゃべりするのが望みとか言わないでしょうね」
「ダメかい?」
「ダメね」
「つれない。確かに僕は君に勝つことはできない。僕はそんなことすら考えたこともないんだ。僕は君と肩を並べるのが関の山だ。だけどそれで十分じゃないか。君と同じように月の下で息するなんてこれ以上ない願いだ。そして君とともに夜を、月を抱いて消えよう」
「消える? 引き分けということかしら?」
「すべてを終わらすんだ。君は僕と一緒に消える」
「あなた無茶苦茶ね。最後の敵が自爆ってどういうこと? それで何が残るっているの?」
「何が残るとかそんなことはどうでもいいさ、僕が欲しいのは君だけなのだから。本当はこの空間を作り出すことが精一杯だったんだろう? 本来、君は今の様に一直線に攻撃するのが主だからね。 君の力は枯渇していた。だからこその時間稼ぎだ。僕が君の魂胆に勘づきながらも動かない、これがその答えさ」
「回りくどいことをするわね。わたしならもっと手早くやるわ」
どこかで聞いた言葉に藍色は一笑した。
「そうだね。そうしてもよかった。でも慎重には慎重を重ねないと。君に対しては注意してもしすぎることはないのだから。それになにより、君との会話を楽しみたかったのさ」
「泣けるわね」
「高貴な君に触れている時は、ほんの少しだけ自分ことを好きになれる」
赤色は表情を崩さないで相手を見つめる。
「君は誇り高くあるべきなんだ。それなのに、なんてあっけないんだ。君はこれほどまでに堕ちてしまったのか」
「勝手な評価ね」
「君と同じ力をつけてしまうだんてどうしたことだろう。ああ、次に僕はどうすればいいんだろう……」
「これくらいで終わるわたしじゃない」
赤色は回復した僅かな力を使い、リボンを切り離す。しかし、再度その手足は縛り付けられる。
「無意味だよ。この一帯は僕の手のうちさ。いやこの月の照らすうちは僕の世界だ。もはや君は僕の手の中にある。くだらないことにね。ああ、君が手に入るなんてくだらない」
「そう。ならこれはどうかしら」
静かな息遣いとともに力が集まり赤色が輝き始める。対する藍色の瞳は憐憫に満ちている。
一度、光始めたもののその密度が上がらない。
「どうして……!?」
「君の力は頂いた」
藍色はリボンが複雑に絡まる手を掲げた。
「一定の力が集まるこちらに流れるようにしている」
赤色は力を止めた。
「急な戦いだったのに随分と手が込んでいるじゃない?」
藍色はつまらなさそうに抑揚なく話した。
「君が勝つには今日しかないと思った。時が過ぎればその力も次第に失われていくだろう。主の呪いが進み、これからの天候はどうなるかわからない。闇夜は力であるとともに今の君には敵でもあるからね」
「こちらの内情はお見通しというわけね」
「月が照らしていたからね」
「月なんかなくても街灯で十分見えるでしょう?」
「まったく情緒というものがない」
「その場その場を楽しむのが粋ってものよ」
「そこに安住するのか。それでは成長がないね」
「勝手に失望してくれて結構。わたしにはマスターがいるもの」
「そうかい。それはよかったね。あの馬鹿と仲良くすることがそれほどに大事かい?」
「それ以上言うと許さないわよ」
「何度でも言おう。彼は馬鹿だよ。間抜けだ。そこなし屑だ!」
「……加減はできないわよ。後悔しなさい」
赤色が力を集め始める。
「だから、それは意味がないって――」
赤色の咆哮とともに力が結集する。
「なっ」
「わたしの力を奪う? あなたこそ愚か者よ。あなた如きが吸収できる力ではないわ」
「まさか、君は――」
「ええ、この状況を脱するためなら少々の無茶はしなくちゃ。自らとわたしを結んだことが仇となったわね」
さらに咆哮する赤色。強張る藍色。
呼応するように力の結集はさらに加速していく、はずだった。赤色の思惑に反し、みるみる力が分散していく。
「なっ、どうして!?」
「こ、これは愉快だ」
静まり返っていた藍色が高笑いを始める。
「こんなことがあっていいのか。君とあろう者がなんでそんなことにも気づかないんだ。言い忘れていたけど、もっとも気づいてしかるべきだろうけど、君の力は全部こちらに流れるわけじゃない。そんなことをしたら身を滅ぼすのは明々白々だからね」
赤色は息遣いを荒くする。
「僕だってそれなりには考えているさ。なんといっても君を相手にするわけだから。君のその驕りを逆手にするしかないと思っていた。それでも、それでも君はそれ以上の力を有していると思っていた。それなのに、やはり君は堕ちてしまったんだね。君を見守る者だけが知っている君の弱さ。そんな醜い願いの数々が君を変えてしまった。やっぱり君の主は自己保身しか能がない屑だよ。完璧には綻びがないし、澱みもない。どこから見ても同じように輝いているはずなのに、それが理解できないんだ。不肖ながら僕が葬り去ってあげるよ」
疲弊し呼吸することで精一杯の赤色は答えられない。藍色はゆっくり近づいていく。
「これはいいや。もっとその顔を見せてごらん。君の瞳はどのように彩られている? 焦り? 怒り? 悲しみ? 喜びだったら傑作だよ」
「下品な、やつ……」
「ん? なんか言ったかい?」
藍色は金色の顎を取り、持ち上げる。
「力が入らないとこれほどまでに重いものか。主人ともども頭はからっぽのくせにね」
突如金色は手首のみで武器を振りまわす。藍色は間一髪でそれを避ける。
「危ない危ない」
改めて藍色は距離を取る。
「かわいい抵抗だけど、少し頭にきたよ」
「ぐっ」
赤色を縛り付ける力が突如強くなる。
「あまりにも辛かったら言ってごらん。一応検討はしてあげるからさ」
みしみしと骨が軋む。それでも金色は歯を食いしばり耐える。
「そういう風に我慢されると余計むかつくんだけどなぁ」
一層力が強められついにはその手から零れた武器は重力の影響下となった。
「そうそう、素直な方がいい。これで反撃する手立てはなくなった。どうするつもりだい?」
赤色は答えない。
「大体君も憐れだよ。あんな主人に仕えてしまったせいでろくに力は発揮できず、結局は二人もろとも傷つくのだから。救いようがなくお互いを傷つけあう君たちを見ていて胸が痛んだよ。でも、それもこれで終わりだ。彼は彼一人で苦しめばいいさ。君は君で崇高に苦しむんだ。だからこそ僕は君に夢中になれるのだから」
風だけが鳴いた。
「なんとか言ったらどうだい? 君が言った通り僕は君に語りかけているんだよ。自分に言っているんじゃない。もしかしてすべて力を使い果たしちゃったかい? 無理もない。君の言うとおり不完全だったんだ。皮肉だね。君の零落をもって君の言葉は証明された。ただ間違っていたのは君と僕が別の存在であるということ。一緒だよ。所詮君は君のためにしか力は使えず、君は君で苦しむんだ。さあ、美しい苦しみを手にしようじゃないか」
赤色は沈黙を貫き息を整える。
「ああ、なるほど、こうしている間にも君も回復するのだったね。さて、勝つためには急所を押える必要がある 」
坦々と藍色は続け、赤色に近づいた。武器がなくなった赤色には反撃する手立てがなく、藍色はそんな惨めな赤色の髪をいじくる。撫でたかと思うとくしゃっと掴む。指を這わすようにしてくせのついた髪を丁寧に何度も梳いた。
「やっぱり僕はこのリボン、いいと思うんだけどなぁ。でも君の大切なマスターに言われたら仕方ないよね? 外すの僕が手伝ってあげるよ。めんどうくさいから髪ごと切っちゃうから」
「べ、別に外せとはいわれていないっ」
「なんだちゃんと話せるんじゃないか。マスターに関わることだからか。妬けるなぁ」
鋭利になった藍色のリボンが髪にあてがわれる。
「や、やめ――」
赤色が首だけで避けるも無慈悲に藍色は髪を絶つ。
「危ないだろ。動くなよ」
金色は吐息だけ洩らす。
「また返事なし、か。なってないなぁ。君の主人の教育はどうなっているんだい? 今頃馬鹿面して眠っているんだろうねぇ」
赤色は藍色を見据える。
「うーん、良い顔だけど、動機が気に入らない。さぁ、次にいこう」
「ま、まだするつもり?」
「当たり前だろう。君にくだらない理由で存在して欲しくない」
赤色は切実に訴える。
「あなたにはくだらないかもしれないけど、わたしにとっては大切なことなの!」
「それは見解の相違だな。こういう時はどうすればいいんだっけ? ああ、力でけりをつければいいんだ。今まで君のしてきたようにね」
切られた髪から辛うじて残ったリボンが抜き取られる。
「か、返してよっ」
当然、それに応じることなく藍色は見せつけるようにリボンを口に入れた。
「さてさて」
藍色は咀嚼しながらもう一方の髪に狙いを定める。藍色は嚥下して言う。
「何か言うことはあるかい?」
俯く赤色から言葉が漏れる。
「ごめんなさい、許してください…… 」
「へぇ……懺悔の言葉は誰に言うものなんだい? 地面に向かって言うのかい?」
赤色が顔を上げると悲痛な表情が露わになる。
「ごめんなさい。許してください」
「そうだろうねぇ、悔しいだろうねぇ。きっと彼もこの長くて綺麗な髪が好きだったろうから。とはいえ敵に懇願するものか。そこまでして存在が惜しくなったかい? 失望するよ」
「失望してもいいから、お願い」
赤色はほとんど聞こえないような声で請う。
「あのね、失望するのは僕なんだよ。君じゃない。君はもはや自分への誇りさえも捨てている。君には苦しみはないだろう。だからこれは君から僕への贖罪だ。僕の絶望であり希望であった君が変わり果ててしまったことへの償いなんだ」
「償い……? そうしたら許してくれるの?」
「許すさ」
「だったら――」
「君の存在だ。馬鹿に感化されたか混乱してるかしらないけど、随分愚かになった君に直截教えてやるよ。君は君の全存在を持って僕に償うんだ」
「そんなこと……」
償ったとしても自分の主人に会うことはできない。赤色は自らの願いが叶わぬものであることを知り放心した。
「そのためにはプロセスが大事なんだけどね。君に失望し傷ついた僕の心が癒えるまでは君をここにいさせてあげるよ」
赤色は口を開く。相手の機嫌をおそるおそる窺いつつ、笑いかけることで反意がないことを示している。
「あのね、お願いがあるの。わたしが消えてしまった後、マスターのことをお願いしたいの。どうかお願い」
「失望を通り越して驚いたよ。この期に及んで何を言っているんだ? 君はそんな立場にないだろう。まったくもって不快だね」
「だってわたしがいなくなった後マスターはどうすればいいの?」
「そんなこと僕には関係ないよ」
「そんなのひどい。そんなことはあってはいけない」
「まったく本当に愚かになったね。いかに主人のためだからといって敵に甘えるんじゃないよ。敗者は敗者の矜持というものがあるだろう」
改めてもう片方のリボンに狙いがつけられる。
「大体、あいつに何ができるっていうんだ。あいつは君を謳いあげることもできない。その末路が今に至っている。あいつはただ目の前の奇跡を心無く眺めるだけ。できるのは浅ましい自己保身だけじゃないか。残念だけど僕じゃどうしようもない。手遅れだよ」
「ちょっと待って、何か――」
「もういい、うるさい」
忌まわしげに藍色の攻撃は目的を終えた。
「あ――」
一気に脱力する赤色。リボンがぴんと張られ心を失った人形を支える。
「おっと。急に力を抜くんじゃないよ。危ないだろう。さて、君の瞳の色はどうなっている?」
藍色が俯く金色の髪を掴み持ち上げた。ため息が漏れる。
「なんだ、喪失か。つまらない」
藍色はもう一つのリボンを咀嚼しながら、赤色を空中に捨て去った。容赦のない重力に捉えられた赤色。いや、それはもう赤色ではない。ただの偽物をさらに何かに似せた人形だった。
かろうじて人形が木の枝々に引っかかった。予期せぬ来訪者に容赦なく枝々が人形を傷つけた。
「見ていて不快だよ。いまだに君は不届きにも何かの上にありたいようだけど、今の君にはそこにいる資格はないよ。早くそこを退きなよ」
やはり答えない人形に、藍色が中空から影を投げかける。
「ああ、そうか。こうして君が堕ちれば僕だけ月を浴びる。なんでこんな簡単なことがわからなったんだ。そうだね、君が輝きすぎていたせいだ。僕が君になろう。君は消え、君の面影に僕はなるんだ」
人形は虚ろに前方を見つめるだけだ。藍色はその前髪を掴みあげた。
「いいことを教えてあげよう。忠実と隷属は違うんだよ。君は間違いを犯した」
「わたしが、間違いを……?」
なおも人形は自分の職務への意識が存在するようだ。自らの過ちを意識し表情にはみるみる戦慄の色が浮かび、バランスを崩して幹から転げ落ちる。痛みに人形は悶絶する。
「君の誇りすべてを奪った挙句消してあげよう。さぁ、逃げるがいいよ」
反射的にその声から逃れるも、体をぶつけ呼吸が苦しく喘ぎつつ逃げる。
「武器もない今の君に勝ち目はないよ。いや、君には今何もないと言っていい。正直言うと僕は退屈し始めている」
時折、藍色が追手を伸ばすと、人形はその度に恐怖する。
「いやっ、来ないで」
「無様だねぇ」
時には追い越したり回り道をして人形を弄ぶ。
「自分がどうしてこんな状況に陥っているか胸に手を当てて考えてみなよ。君は彼の叫びを聞いただろう。でも、彼はそのことを認めようとはしない。そんな彼が君のために何かしてあげられるかい? 彼が存在するという事実? くだらないよ」
人形の存在でとことん遊んでみるが、藍色の吊り上っていた口が次第に垂れ下がってくる。
「飽いたよ」
人形の脚をからめとる。地べたに金色は投げ出され身体を打つ。藍色はその様を嗤う。
人形がその場で踏ん張る が、四肢は引き摺られていく。人形はなおも前へ進もうとする。
「最後の力かい? 無意味だよ」
ついには腕も掴まれ、あえなく引きずり込まれる。
「最後にもう一度空を飛ばしてあげよう」
疲弊し泥だらけになった人形が持ち上げられる。
「気分はどうだい?」
人形は答えない。
「つれないなぁ。お礼くらい言ってくれてもいいんじゃない?」
人形は沈黙を保つ。
「もっとも今の君に礼を言われたところで僕が満たされることはないけどね。ああ、その時がくる。君も最後にこの景色を眺めたらどうだい。大して目を見張るべき景色もないけどね。いや、僕ならどこでもそう言うか」
藍色は自嘲すると、人形の胸のストーンを乱雑に掴み引き抜く。ぶち、ぶちと糸が音を立てて外れそうになるも人形は反応しない。
「もはや月も君を見放した。祈りはどうやら通じなかったようだね。見るといい。そっけないものだよ」
「……」
「話し相手にもなってくれない。つれない。つまらない玩具だ。もういいよ。それじゃあ、最後に君の大好きなマスターにお別れでも言ってみたらどうだい?」
「マスター……?」
「そうさ。今の君を見て彼が受け入れてくれるかは知らないけどね」
「……」
「希望を捨ててはいけない。確認できないのがせめてもの救いだね」
藍色は白々しく慮ってみせた。
「……っ」
「は?」
「あはははははは――」
無言だった人形は堪えきれないといった様に笑い始めた。狂気に満ちた哄笑がこだまする。
「ど、どうしたんだい……? 絶望のあまり気が触れてしまったかい?」
「これを笑わずには居られないわ。あなたのような道化も珍しい」
「ついには現実を歪曲かい。少し驚いたが悲しい抵抗だね。同情するよ」
「別に同情されるようなわたしじゃない」
「ああ、やっと調子が戻ってきたか。でも残念だ。遅い。ずっとその調子であれば僕の玩具としてそばに置いてあげられたのに」
「わたしが仕えるのはマスターただ一人」
「そうだったね。やはりよくできた下僕だ。ささやかな矜持。一応、称賛を送ることとしよう」
「あなたの称賛なんて要らない」
「そうかい。それじゃあ、最後のセリフをどうぞ」
藍色はにこやかに促した。
「時が満ちる――」
「君に決定権はないよ。君の運命は僕が握っているんだ」
人形は首を左に向け、精一杯左手を伸ばす。愛しげなその目は遠方に注がれている。
「……なんだい? もしかしてそっちにマスターがいるのかい? まったく泣けてくるよ」
藍色は嗤った。
人形はなおも見遣る。
「月のあなたに――」
「だから月はもういないんだよ! 君は独りなんだ!」
藍色が異変に気付く。
金色の髪が光り始めたのだ。彼女は金色になったのだ。
「錯覚か? どうなっている?」
金色は柔らかく微笑する。
藍色が慌ててその手の先を見る。
「あれは……」
空には煌々と輝く星の存在。
「金星――」
金色は金星の光を吸い、光り輝いているのだ 。
「まさかっ――」
狼狽えながらも藍色はストーンを引き抜こうとするがとするが、光の壁が突如として現れ、金色への拘束は解かれた。
金色から光線が広がっていく。街に金色を頂点にした五芒星の文様が浮かび上がった。街が金色とともに息づいている。
「どうして」
藍色は手で顔を覆った。
「ご存じのとおり、わたしは二種類の攻撃を使う。近接の必殺技があるなら遠隔の必殺技があると想像してもしかるべきだと思うけど? 想像力が足りないわ」
「遠隔攻撃は封じられたはずだ」
「そう、これは遠隔攻撃ではない」
「どうしてあいつも月もいないのに、独りなのに……こんなの聞いていない」
「わたしは言ったはずよ。月のあなたに、と」
「だから、月は……月のあなたに?」
藍色はその言葉を反芻する。
金色は嗤った。
「あなたって貴方ではなく彼方のことか」
金色は笑みでもって応えた。
「いや、おかしい。間違いなく君は月の力で戦っていたはずだ。月か主の目いずれかが必要のはず。だからこそ、僕はあらかじめそこに陣取っていたんだ」
「確かに初戦の夜、月にシミができていた時は驚いたわ。どこかで月の力は使えなくなる、そこに気づいた」
「だからってどうとでもできるわけじゃない。君には光が必要だったはずだ。君を照らし出すための光だ。もっとも太陽なんて野蛮で暴力的な光ではダメだ。だから、月の光で君は輝く。それを金星だって? そんな金星なんて確かな相貌さえわからない光をどうやって」
困惑する藍色に、金色が空中を踵で鳴らした。
はっとして藍色は自分を囲う忌々しげな紋様にあらためて眺める。
「まさか、この五芒星がそうなのか。陽光の反射である金星の光を五芒星で象徴的に呼応させた? なんだいそれは? 月の光で輝くことがすでにねじれているのに、代わりの金星の光をさらに代替させる? 無茶苦茶だ」
「偽物の偽物。わたしにはぴったりでしょう?」
自虐的な言葉を金色は澱むことなく口にする。対する藍色は頭を振る。
「僕が道化なんじゃない。君がペテンなんだ」
「言ったはず。あなたの趣味に合っているかなんて気にしていないってね」
「確かに言ったけれども埒外じゃないか」
「自爆しようとしたあなたが言えること?」
「僕はずいぶん葛藤したんだ。君には君らしい終わり方があるんじゃないか、僕とともに消え去るなんて美しくないんじゃないかって。それでも僕は君をずっと見ていたかったんだ。最後の瞬間まで君の姿を見ていたかったんだ。それなのに君は君でないやり方を使ったんだ。君に僕の裏切られた気持ちがわかるかい。わからないだろう」
「あなたはわたしの気持ちがわかるとでも言うの?」
「もちろんそうは言わない。でも僕は君に――」
「あなたはわたしに失望したと言ったわ。わたしはどんなことがあってもあなたに失望しない。敵に期待なんてしない。わたしが叶えたいものはわたし自身の手で叶えるべきだから」
「違う」藍色は反抗する。「君は初めから誰にも期待してないんだ。君は君自身だけを期待しているんだ」
誇り高い金色はそこで一度きっと口を結んだ。そして続ける。
「わたしの使命は鈍くとも強くあること、それだけよ。わたしも強くありたかった。もっともっとはっきりとした強さ。誰の目から見ても明らかな強さが欲しかった。どんなことにも自分の運命として受け入れられるほどの強さを手に入れたかった。でもわたしはそうはなれなかった。わたしは誰かのせいにしかできない。わたしがわたしなのは、大切な人がわたしを認めてくれる限りにおいて。そう気づいてしまった」
「君は変わってしまった。この戦いを始める前から終わっていた。君は初めから君自身を賭して変貌を遂げていた」
藍色は自分で言ったが受け入れることができない。どこかで反抗できないか。そう考えているとある事実に思い当たった。
「だがそんなことがありうるだろうか。率直に聞こう、本当のところどうなんだい?」
「どうって漠然としているわ。どういう意味かしら?」
「君たちの契約関係のことさ。君は自らの目標を達成するために主従関係を結び力を貸してもらった。だが君はやはり君で輝いた」
「またその話?」
「そうじゃない。わかっているだろう? さっきまでは君が月の光がなくても戦えることを問題にしていたんだ。それはもう済んだ話だ。君の能力は僕が推し量るべくもないものだったんだ。それはなんとか納得した」
「そういう風には見えないけど?」
藍色は金色の言葉に応えず続ける。
「僕は必要であったとしても君に相応しくないから君の主を否定した。でも君は主なんて必要なかったんだ。それなら君が奉仕する必然性はどこにある? 協力を得る必要なんてなかった」
金色は答えない。
「君はなんのために仕えるんだ? どうして自分自身を束縛しようとする?」
「わたしにはマスターが必要って言ったでしょ」
「その言葉は見返りがあるからこその言葉だろう。主がいる時といない時で何かが変わるんだ。そうだろう?」
「それは当然変わるでしょう」
「戦いに要らない主が要る理由。戦いではお荷物になる主が要る理由」
「あまり侮辱すると消すよ?」
「すまない。僕は君のことを理解したいだけなんだ」
「物は言いようね。次は許さないから」
「君はここまで苦戦してきた。それは事実だろう?」
「だけど最後には勝った」
「虹色への道。ストーン、リボン。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。だけど、赤は僕が呑み込んでしまった。一つ、足りない。大体、赤を失い君がこうして存在しているのもおかしな話なんだよ。君は逸脱してしまっているんだ。確かに君は僕たちの敵として異なる存在として現れた。それはいい。しかし、色が欠けちゃまずいんだよ」
藍色は一つ一つ確認するように弁じ、そこで気づく。
「色が欠ける。自分が自分でなくなる……君は何者だ?」
「わたしはわたしよ」
「違う。君は君であることをやめたんだろう? 君はもう赤色ではない」
「じゃあ何色なのかしら?」
「金星の光を受けた君はその色になる。だがその光を失えば君は白色だ。そうか。次のステージにいくということはそういうことか。試練のなかで君は次のステージに移行したんだ。今の君は今までの君ではない。ああ、それでも君は君だったんだ……」
「わかるようなわからないようなことを言って、無駄なことをしてるって思わない?」
「君は誰からの理解も必要としてない。ただ自分だけが自分を知っていればいい。君はやっぱり君だったんだ!」
「またそういう知ったふうな口ぶりね」
「当たっているだろう?」
「さあね。それならわたしは次にどうするのかしら?」
もたげた首を藍色は起こす。
「一つ、確認してもいいかい。今、君には最後の結び目がある。それで――」
「うるさいってば」
金色は藍色を消した。舞台はついに一人となる。ただ金色は宙に直立し、戦いの余韻だけが残される。
「まったくおしゃべりなんだから」
金色は天を仰ぐ。
「これで、わたしの役目は終わった。終わったよ」
金色の口元から笑みが零れた。




