‐about a girl‐
重たい瞼を開けると眼前には可憐な少女。跳ね退いた。
「な、何? 」
「朝というかもう昼」
ああ、そういえば璃音がやってきたのだ。
「親は?」
「もう出ていった」
璃音に急かされるままリビングにいく。テーブルの上には食器が並べられていて、そこにはなんかグロテスクなものが置かれていた。
「……何これ?」
「何って朝ごはん。マスターがなかなか起きてこなかったから、昼ごはんになってしまったけど」
これは食べ物だったのか。まだ頭が冴えていないこともあって、小学生低学年のねんど工作かと思った。夏休みの宿題で見たことあるぞ。
「時間が経ったからおいしくないかもしれない」
そういう問題じゃないと思う。
「とりあえず、顔洗ってくる」
顔を洗ってきても食器の上にはまだブツが鎮座していた。どうやら錯覚ではなかったようだ。
「不慣れだけど頑張ってみた」
「そう、ありがとう」
「うん」
璃音は緊張した面持ちだ。手をきとんと膝の上に置いて見守っている様子は小さい璃音の体が余計に小さく見える。
「なんか、ちょっと感じ変わった?」
「そう?」
「なんか当たりが弱いというかなんというか」
「わたしは敵がいない状況でも集中してなんて頼まないよ。マスターの集中の持続にも限界があるからね。それとなぜ敵がいないかわかるのかという問いには、わかってしまう、そうとだけ答えとく。それともマスターは昨夜のように厳しい方がいい?」
「い、いや、遠慮しときます。さっきの感じでお願いします」
「よろしい」
さて、話題を変えても依然として目の前には僕を待っているものがある。
ここにはまず二つの選択肢がある。一つは食べる、今一つは食べないというものである……回りくどく考えても現実は変わらないんだよな。
「うん? その手は?」
璃音の指がなんか貼ったりケアされている。
「ちょっと包丁で切っただけ」
……食べよう。一択だ。そう、これは彼女の手から生み出されたのだ。いや、だからこそグロテスクの度合いが高まるわけだけど。まず一口……。
「マスター……?」
力が抜けてテーブルに伏してしまった。
璃音が揺するけど――というか揺するな。今揺らすとどうなっても知らないぞ。悲劇を起こしてしまうぞ。いや、止めておこう。ここでヤケになっても、璃音に引かれて後悔するだけだ。
「ちょっと、今は、触らないで」
「えっ……わかった」
どれくらいの時間が経っただろう。どうやらすべては時間が解決してくれたらしい。やっぱり時間は偉大だ。だから僕は困ったときに時間に身を委ねるのだ。
僕はゆっくり体を起こした。
「ごめんなさい、マスター。まずかった?」
「ごめん」
まずいという味覚のレベルではなかった。身体が拒絶反応を起こしたのだ。
「マスターは謝らなくていいのに……本当にごめんなさい」
「璃音の気持ちで十分だよ」
「気を遣わせてごめんなさい。苦しいのはマスターの方なのに」
「大丈夫だよ。これから色々覚えていけば」
「こんなのでごめんなさい」
彼女は俯いた。うーむ、昨日とは打って変わってやけにしおらしい。
「そんなことないさ。昨日だって璃音のかっこいいところ一杯見せてもらったし」
「あれだってもっと簡単に勝つことができた……」
「ごめん、僕が足手まといになったから……」
そう言えば僕も慰める立場ではなかった。ダメダメだ。
「いや、そういうことじゃなくて、わたしの能力の問題。ほんとにごめんなさい」
璃音は堪えていたが、あえなく涙は零れる。
「だから、泣きたいのはマスターの方だよね」
彼女は立ち上り、階段を上っていく。僕はあっけにとられていた。いくらなんでも昨夜と違いやすぎやいないか。しかし昨夜が戦闘モードで今が日常モードと考えればいいだけの話か。
ただ璃音の態度の変わりようとは別に問題があった。それは泣いてどこかにいった璃音に対してどうすればいいかということだ。昨日みたいにあれこれ言われるのは好きではないけど楽だ。僕はいつも心のどこかに罪悪感があって責められても仕方ないと思っている。責められてもそれは事実なのだからしょうがない。そう思うようにしている。
でもこうやって慰める立場になると態度の取り方がわからなくなる。本来的に僕は誰かを慰める立場にはなりえないのだ。僕はむしろ慰められる側の人間だ。こういう時はいつも謝っている。謝ると慰める立場からは解放されるのだ。
方針を決め、階段を上がる。僕はドアが閉じられている部屋の前に行ってノックする。
「璃音?」
「急に出て行ってごめんなさい」
「ううん。僕の方こそごめん」
「どうして?」
「うん?」
「どうしてマスターが謝るの?」
まさかの追及だった。両方謝ってそれで終わりっていうのがいつものパターンなのに。
「それは……昨日とかも迷惑かけたし」
「それはわたしの能力の問題であってマスターが謝ることではない」
「そう、かな……」
「そう。マスターは何も悪くない」
どうしよう。謝ることを封じられた。どこかに謝れる要素はないだろうか。何か迷惑かけてないだろうか。いや迷惑はかけっぱなしなんだけど、璃音はそれを自分の問題にするのだ。そこまで言われると僕が謝るのも筋違いというものだ。
とはいえこのまま無言でいるのもいたたまれない。とりあえずこの場に合った発言をしよう。
「そんなに気にすることはないよ。誰でも失敗はある」
「これはわたしの奉仕内容だから、言い訳は許されない」
「そっか……じゃあ、僕は下にいるから」
「うん、少し待ってて」
彼女にもプライドがあるだろう。これ以上慰めるのはかえって彼女を傷つけることになる。いや違うだろう。何を言っていいわからなかっただけだ。僕が璃音を慰めることに失敗したそれだけの話だ。
なんかうまくいかないな。しかし、昨日今日で急に仲良くなるなんて僕の経験からしたらそっちの方がめずらしいわけだ。これはもう仕方ないな。
テレビをつけてソファに腰を掛ける。高校野球は残すところ数試合となっていた。手持無沙汰なのでパソコンをいじることにする。手持無沙汰なら宿題でもした方がいいかもしれないが、それとこれとは話が別だ。どう話が別なのかわからないけどまあいいや。
パソコンをいじるといってもほとんど斜め読みでページをスクロールするだけだ。何かを集中して取り組んだところで後から璃音が降りてくるだろう。いや単に何かに取り組むのが億劫なだけだ。やはり僕には集中力も想像力も欠片すらなかった。先が思いやられるな。
璃音が降りてくるのは思ったより時間がかからなかった。僕は顔を上げなかった。変に反応してもどうしていいかわからないからだ。
沈黙が続く。ちょっと後悔する。まさかこんなに空気が重くなるとは思わなかった。それなら適当に話しかけた方がよかった。でも残念ながら時すでに遅し。今から口を開くとなればそれなりの内容を伴っていないといけないような気がする。残念ながら僕には適当なトピックを伴う話を持ち合わせていなかった。
そんなハードルの高い沈黙を破ったのはもちろん璃音だった。正確に言えば璃音の腹の音だった。間抜けな音がリビングに鳴る。
「……ごめん」
笑った。
昼ご飯――というか僕は朝を食べてないに等しいけど、でも一応は食べたのである――は僕が適当に作ろうと思ったらあまり素材がない。いつもなら適当に済ますところだけど、彼女にも申し訳ないので買い出しにいく。
「璃音は待ってて」
「わたしも行く。というかわたしが行かないと。敵も来るかもしれない」
「璃音は目立つから余計にそっちの方が標的になるよ。僕なんか誰も相手にしないよ」
僕みたいな平々凡々な子どもはどこにでもいるから相手にも個体認識できないだろう。
「う……」
どうやら璃音もそれは否定できないようだった。自分の正しさが嬉しような悲しいような。とりあえず今は事を進めよう。
「じゃあ、行ってくるね。多分親は帰ってこないし、リビングにいても大丈夫だから」
まだ何かを言おうとする璃音を振り切って外に出た。本当に昨日と同じ璃音とは思えないな。コントロールしてるとはいえ、夜と日中でこうも違うものか。といってもやっぱり昨日の今日だから、璃音のことを理解しているなんて思ってはいない。まあ璃音も探り探りということかな。
久しぶりの陽光が目に頭に染みる。クラクラしてどうにかなってしまいそうだ。太陽はあまりにも輝きを放ちすぎていて僕は頭を垂れるしかない。日陰がなく照り返しがきびしい。サングラスがほしい。もちろんこんな街でサングラスをしていたら浮くだろうけど。
璃音が隣にいても浮いてしまうだろう。メイド服を差し引いても十分おつりは来る。そんな注目はまっぴらごめんだ。
家の中でも蝉の声は聞こえていたはずだけど、それは意識されていなくて、今気づいてここで聞こえる蝉の声はわざとらしくて騒がしい。あいにく僕は彼らの声を聞き分けることができないのだ。というか僕がわかったところですることがない。いつだって僕ができることは何もないのだ。
歩いているのにどうも現実感がない。この状況のせいか、しばらく日中外に出ていなかったせいか、どちらだろう。体力が落ちていて外界に対応できていないということだろう。
とはいえ、用事もなく外に出るほどアウトドア派ではないし、わざわざ用事を作ろうとも思わない。そうなるとただただ中学の時の体力づくりが綻んでいくのを眺めることだけになる。
もともと綻ぶほどの体力がなかったから高校で運動部に入らなかったというわけでもあるけど。そんな因果関係のことよりこの弱体化をどうしようか。体力が衰えるってことは物理的に不便なんだっていうことが近頃よくわかった。ものを運ぶ時とか本当に痛感する。
でも問題は体力があってもしたいことがないことなのだ。ほんと体だけじゃなく考えも軟弱だ。すっかり細くなってしまった腕。甘えた考え。
「どうにかならないものかしら、っと」
いや、なんとかしろって話か。こりゃ堂々巡りだ。思考打ち切り。この混乱は暑さのせいか、本来の性格か。駄目だ駄目だ、また錯綜し始めてる。
まばゆい住宅街を進むと目の前には小学校前の平凡な歩道橋。何があるってわけでもないけど最近よくここを使う。いつか毎日使った歩道橋だ。
元の数歩は気持ちを込めて、それからいつものように若干間隔の狭い階段を上っていく。少しでも太陽に近づくから暑くなるというのは気のせいだろうけれども、なんとなくそんな気がしてしまう。子どももいないし誰もいない。と、思っていたら違った。先客がいた。
「なっ」
昨日の敵――漆黒の女が僕がいつもするように橋の真ん中で街並みを眺めていた。今さら引き返すのもなんだと思い、無言で後ろを抜けることにした。
「暑い……」
でしょうね。何してるんだこの人。通り抜けてすぐに背後で音がした。
お姉さんがへなへなと倒れ込んでいた。考えるよりも先に足が動いていた。
「大丈夫ですか? 溌溂そうにみえて案外虚弱なんですね」
対するお姉さんはきょとんとしている。
「あの、どこかでお会いしました?」
「あー……すいません、間違いでした」
覚えていないなら覚えていないにこしたことはない。自分の特徴なさに感謝した。
「お会いしていたのならごめんなさい。わたし忘れっぽくて、よく記憶が飛んじゃうんです」
僕の観点からすると、こんな日差しの中黒い服装を着ていることは頭も跳んでいるとしか思えない。というかこの人は昨日、物理的に飛んでいたのだった。
ゆっくりとお姉さんは体を起こす。
「気にしなくていいですよ。体、なんともありませんか?」
「どうも暑くっていけません」
「暑いならその日傘を使えばいいんじゃないですかね?」
言われて初めてお姉さんは日傘の存在を認識したようだった。
「あら、本当ですね。どうして今まで気づかなかったんでしょう」
「それじゃ」
案件を一つ解決して、次なる案件、昼食の買い出しに向かうことにする。
「ひさしぶり!」
「はい?」
振り向けば当然お姉さん。
「だからひさしぶりだね。って、昨夜ぶりだからそんなでもないか」
いや数秒ぶりです。
「見知った顔がいるのに無視なんてひどいじゃん。おっはなし、しっましょっ」
「人違いですよ。さてと、ご飯ご飯」
「この街がどうなってもいいのかなー?」
僕は足と止めた。正直、どうなってもいい。けれど、璃音がいない状態で攻撃されればひとたまりもない。なるべく刺激しないようにしなければならない。僕は相手の様子を窺う。
「もう少し気楽にしてくれてもいいんだよ?」
「だって敵なんでしょう?」
「嫌ならこの街を――」
「わかりました」
「よしよし」
僕は渋々隣に並ぶ。まったくどうなってるんだ。せっかく誰かに親切にしたのにひどい仕打ちじゃないか。
「そんなに距離を取らなくてもいいのにさー、こっちゃ来い。嫌なら――」
返事の代わりに傘の影が届く範囲まで近寄る。と同時に、芳香が鼻先を刺激した。
「よしよし、質問かもーん。どしどしかもーん」
「は?」
「昨日は怖いお人形さんに邪魔されちゃったからねー。なんかわからないこととかたくさんあるんでしょ? おねぇさんが優しく手解きしてあげるよん」
「じゃあ、何してるんですか?」
「調査だよー。じ・えくすぷろーる」
「調査?」
「まともに戦ったって勝ち目がないからねー。地形を把握するにこしたことはないっていうわけですよ」
「そんなに璃音って強いんですか?」
「え、わからないかなー?」
「今日だって落ち込んでましたよ」
「それは君が悪いね」
「は?」
お姉さんはこちらの反応を無視し言う。
「昨日の戦いでも垣間見えたようにやっこさんの根幹には近寄りがたいものがあるのさー。君には理解したくないようなドロドロしたものが渦巻いてるんさ」
「僕にはただの意地っ張りに見えますけど」
「お気楽でいいなー。ま、そのくらいじゃないと釣り合わないのかもね」
認識の違いがあるようだけれど、自分の主張を押し通すつもりもなかったし、彼女の主張を受け入れるいわれもなかった。言葉だけであろうとできるだけ争いは避けたい。
僕らの静寂と引き換えに、道路の喧騒が耳に入る。もちろん今までも車は通っていた。
「何のために璃音と戦うんですか?」
「彼女も言っていたでしょ? 彼女と私は敵対するものなの。お互いがそのような存在として定められているのさ。彼女はかつてあたしたち側の存在だったのさ。それどころかその長だったんさ」
「長? 璃音が?」
「そう。でも、何がしかの理由で敵対することとなったわけ」
「どうしてですか?」
「あまり女性の秘密を暴くのはどうか思うよ。しかも、人伝で」
そういえば璃音は璃音で話さないのにも理由があるって言ってたな。僕の理解力が乏しいからだとかなんだとか。
「和解とかないんですか?」
彼女はおかしそうに笑った。
「それ、いいね――ありえないことだけど」
「負けるとどうなるんですか?」
「さあ? あたしはほとんど何も知らないのさー。そのような疑問を持つ余裕さえない、というのが実情かな。今だって彼女が現れないか内心どきどきしてるよ」
「そんな風には見えませんけど」
「隠してるもん。それもレディの嗜み」
彼女は微笑した。
「せっかく隠しているのをわざわざ暴き立てるんだから、意地悪さんめ」
「えっ? いや、そんなつもりは――」
「嘘よん。自分から言いました」
「ちょっと、勘弁してくださいよ」
「面白いなー。やっぱり彼女とともに居られるという器なんだろうな」
「そんな大層なものじゃないと思いますけど」
「うん、褒めてないもん」
「え、そうなんですか……」
ぬか喜びだった。
「器が壊れているのさ」
彼女は微笑する。
「冗談、ですよね……?」
「冗談も何もあなたのことをよく知らないし」
「それでもへこみますよ」
「ごめんなさーい」
彼女はまったく悪びれた様子がなくかえって微笑した。
「勘弁してくださいよ」
「勘弁してあげよう」
僕も笑い、彼女も笑った。
「そういえば、貴方のお名前は?」
「秘密だよー」
「秘密さん、ですか」
「あまり人をからかうものじゃないよ」
「あなただって僕をからかっているじゃないですか」
「大人の特権さ」
「横暴だなぁ。これだから大人は」
僕は肩をすくめる。
「もちろん権利もあるよ?」
「例えば?」
「襲われる権利とか」
「それって権利って言う……あれ……?」
急に意識が遠のく。僕は彼女に吸い込まれ、柔らかな感触に包まれる。
「おやすみなさい、かわいい坊や」
頭が撫でられる。くそ、馬鹿にするな。でも、もう少しこのままでいたい、とか……?
こうして世界との通信は打ち切られた。
☆
唐突な再開だった。
「なかなか起きないから心配したよー」
「……自分からやっておいてなんて言い種だ」
すっかり夜が更けているけれど視界は明瞭。どこかで見たことのある風景。どうやら壁のない小さい建物にいるらしいけど現実感がないからはっきりとはわからない。何だか体もしびれている。
「夜だよ」
「無視だよ」見ればわかりますとも。
そう言えば敵に連れ去られたのになんで生きているんだろう。僕がいようがいまいが世界には何にも影響を与えないというのに。ああ、そうなると殺しても意味がないのか。だとしたらこうして生かされていることにも意味がないのだろう。世界も僕も何も変わらないのだ。
変わらないというか懐かしい池の匂い。思い出した。小中学校、部活の練習で来た池だ。あの頃は……なんて思い出に浸っている場合じゃないか。とりあえず時間を進めよう。事態を進めることはできなくとも。
僕は池の周りにぽつぽつとたてられている、木造で建てられた小さな休憩所の一つにいるらしい。その休憩所でお姉さんの真横に腰掛けているのだ。
お姉さんは僕のシャツのボタンを外していく。体がうまく動かない。
「ちょ、何を――」
「大丈夫、委ねてもいいよ。年下の権利だからね」
「いらない、そんな権利」
「かわいい抵抗だねー。あのお人形さんとじゃなくあたしといいことしよう?」
「僕を相手にしないといけないなんて寂しい人ですね」
「あはは、確かに君はタイプじゃないね。あたしは引っ張ってくれる人が好きなのです。多少無骨でも強引でもいいから、強く抱きしめてくれる人がいいんだな」
僕の精一杯の強がりを彼女は意に介することはない。左手を体に置き、彼女は僕の心臓に耳を当てる。
「あたしに興奮してるね」
「曲解だ」
「ああ、鼓動が愛おしい……ねぇ、愛おしくて人を殺したことがあってある? あたしは何度もあるよ。でも一番愛していた人は失敗しちゃった。その人の寝顔を眺めて迷っていたら突然彼はこちらに刃を向けたの。あたしは初めてじゃなかったのに騙してきたからね」
僕はどう答えていいか分からず、そっぽを向いた。彼女は僕の頬を撫でる。
「もう、かわいい反応だなー。あたしはね、死ぬ時にその綺麗な顔に傷つけました。わたしの愛を刻み込んだっつーわけです」
嫌気がさしてきた。そんな話どうでもいい。どうしてこうも状況がうまくいかないのか。それでも敵の話を聞き続けなければならないのだろうか。
そもそもこの状況に陥ったのは迂闊にも僕が一人で外に出たからだ。悪いのは僕だ。だから現状に不平を言う資格はない。そして璃音には自分の身で持って償うことにしよう。
「ねぇ聞いてる?」
「どうでしょうね。考え事してたんでちゃんとは聞いてなかったかもしれません」
「ひっどいなー。せっかくの人の恋バナを」
どこが恋バナだ。そんな人が殺すとか殺されるとかいう話、恋バナなんて言葉じゃ軽すぎる。
「あ、忘れてた」
いつもの健忘症ですか。
「わたし下着つけてない」
何の報告だ。
「ほ、本当だよ?」
何の当惑だ。
「ほら」
お姉さんはぐいっと自ら服の襟を引き下げる。白い肌が晒される。僕は慌てて目を固く閉じた。
「ちょ、何してんですか!?」
お姉さんは優しげな声で告げた。
「見ないと目を潰すよ」
ええ……。僕は大人しく目を開けた。
「どう? 触ってみる?」
お姉さんは胸の谷間を見せつけてくる。どうやら着やせするタイプらしい。
「しびれをとってあげる」
お姉さんが僕を引き寄せると、自分の体の輪郭がはっきりしてきた。ぐっぱぐっぱ。指先も自由に動くことを確認する。
これで僕に選択権が与えられたわけだが、どうしよう。これはたとえ辞したとしても今度は本当に目を潰されるかもしれない。ええい、ままよ!
ぴとっ。
「きゃああああ、触った触った触った、本当に触った!」
打って変わって取り乱し始めるお姉さん。引き気味に眺める僕。なんなんだこの人。
しばらくしてお姉さんも喚きつかれたようだ。肩で息をしている。今度はぐすぐすと泣き始めた。
え、何これ。僕が悪いんですか。
「こんなのあんまりだよ……視姦して、痴漢して、一体君は何がしたいの……」
恨めしげなお姉さんに僕はやはり身じろぎできない。
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい……」
「もうしません?」
「もうしません」
お姉さんは真剣な面持ちでしばらく僕を見つめて、
「しょうがない。子どものしたことだしね」
どうやら許してくれたようだ。
「あたしが襲う側、君は襲われる側、いい?」
僕は頷いた。もう僕に選択権は存在していない。なされるがままだ。
彼女はこちら側に乗り出し覆いかぶさってきた。手を体に添えたまま、首筋に顔をうずめてくる。
「さて」
彼女はベールを外す。やはり端正な顔だった。
「どうもありがとう。照れるなー」
「――っ!」
腹部に激痛が走った。爪が食い込んでいた。
「いけないいけない。つい嬉しくって。お返しをしなくちゃね。君がどうしてほしいかわかるよ」
彼女が顔を寄せてくる。僕は抵抗できない。これでおしまい。のはずだったが、彼女はその挙動を途中で止めた。
「これは……君――」
「何してるの?」
突如視界が上に移行して戸惑う。僕は元いた場所に視線を落とすと攻撃が空を切った。
僕は敵に抱きかかえられて空を飛んでいた。
「せっかく今からがお楽しみなのにー。いいや、続きはこの後でも」
「マスターを返して 」
璃音は静かに言った。 力任せにハンマーは振るわれる。
僕たちはそのまま宙を移動する。
「マスター、置いてかないで!」
池の畔から道路に移る。もう人気のない夜半、信号機が赤色で点滅している。馴染みのない街並みがどんどん過ぎ去っていく。しかし僕に馴染みなんてあるのだろうか。やはりそう思ってしまう。ただただ日が過ぎていくだけで積み上げがない。積み上がるのは課題だけだ。
こちらが浮遊する一方で璃音は建物を足場にして跳んでいく。しかし昨日とは明らかに状況が違う。璃音が遠い。その距離は開いていく。
「わざとあの娘の滞空時間が長くなるようにしてるの。あの娘が跳ぶとわたしは方向転換。空中で方向転換はできないから差は広がる。それが跳躍と浮遊の違いっつーことです。そして、何より――」首筋にくすぐったい感触。
「君がわたしのものとなってるもの」
璃音の顔は中央にどんどん皺が寄っていき、みるみる不快の色に染まっていく。
「彼が醜いって言ってるよ」
璃音は身体を震わせ、足を止める。
「そんなこと言わないでよ、マスター。ちゃんといい子でいるから……」
彼女の狼狽ぶりが痛切に感じられる。
「マスター、わたしの名前、呼んでよ……」
もう挫けてしまいそうな璃音に声をかけようとすると、何かを背中から刺され、途端に脱力する。
「だめだよ。楽しまなくちゃ。もっと面白いものが見られるよ」
璃音を見守る。璃音は俯いたままだ。その側に敵の矢がかする。
「どのような顔をしているのかなー。きっと君が見たことの無い顔をしてるよー」
敵の攻撃を璃音は避けない。初めは威嚇だったものが、確実に璃音を捉えるようになる。脚に、腕に、矢が突き刺さろうとも璃音は俯いたまま、よろよろ前へ進む。
「あららー。あるいはもう終わりなのかも。所詮はつぎはぎだらけのお人形さんということなんだね」
その言葉に驚き、一層璃音を見守る。
璃音はやはり俯いている。
「……ないの……いらないの……ねぇ、マスター、わたしっていらないの? 邪魔? マスターがいらないっていうのなら、わたし、消えるよ? わたしはマスターのために存在しているんだから……やっぱりいらないよね。だって、わたしだし……」
璃音は髪を留めているリボンに手をかける。
「ごめん、マス――」
「このバカ璃音!」
彼女は驚いてこちらを仰ぐ。僕も驚いていた。気がついていたら怒鳴っていた。
呆気にとられる璃音の顔はぐしゃぐしゃに濡れている。
「なっ……」
「このバカ!」
「バカってなによ! あんまりじゃない! 」
「うるさいよ! バカはバカだ! 僕がどれだけ璃音を必要としていたか知らないのか。あれだけ名前を呼んでいたのに。それになんだ、僕が敵に口封じされているっていうのに勝手に自己解釈して自分が必要ないとか。わざわざ主人が口に出さないとわからないっていうのかよ。察しろよ! 璃音の方こそ想像力足りないんだよ! もっと想像力高めろよ!」
「そ、そんなに怒鳴ることないじゃない!」
「それだけ怒ってんだよ! 僕は強い璃音が好きなんだ。いつまでもいじけてるなんて璃音じゃないよ!」
言いたいことをぶちまけると息が絶え絶えになった。熱気のせいか敵の毒のせいか頭がくらくらする。
璃音がこちらに視線を送ってきている。僕は頷いて応える。
「うん、そうだ……そうだよ、こんな雑魚に手間取るなんて本当に不覚。本当だったら解雇レベルだけど。だけど、マスター、わたしにもう一度チャンスをちょうだい」
こっちの方からお願いしたいくらいだ。
「璃音、来て!」
「はい!」
僕の受動的で情けない命令に璃音は元気よく応えた。
「まったく素晴らしく困ったもんだね。少し大人しくしててね」
体に毒が刺さる。今度は体までも脱力してしまう。
同じようにジグザグに浮遊していくけれど、璃音は光の円を飛ばし敵の行動範囲を制限することで距離を詰めていく。
「やるじゃん」
「逃がさない!」
「それはどうかなー」
敵は弩を引くことによって、璃音の手を防戦にも割かせることでまた距離を広げていく。
「まだまだ!」
璃音はさらにスピードを上げ追いついてくる。初めからその速度で追いついてきてほしかったものだけど、僕が思う以上に璃音自身も混乱していたのかもしれない。
昨日と同じように一進一退の攻防。月にはやはり小さな影。あれはいったい何なんだろう。しかし、そんなことより今は璃音を見守ることにする。
どうしようもない浮遊感と手ごたえのなさに覆われている、そんな僕に璃音は向かってきている。璃音はどこまで手ごたえを感じているのだろうか。地に足つけて跳んではいる。ともすれば勢いそのまま突き進んで僕にぶつかってしまいそうくらいだ。痛いのは困るけどまた離れ離れになるのも嫌だ。どうせならぶつかって終わりたい。
昨日と同じビルに辿りつき、戦場は屋上に移された。
璃音の顔には余裕がない。焦りの色が見られる。昨日は完璧に退けることのできた弓の数々を今日は弾き返せずに体にかすったりしている。あれには毒があるのではなかったか。おそらく璃音の体に毒が回っているはず。それを今も璃音は耐えて踏ん張っているに違いない。
内側から何かが込み上げてくるのがわかる。今度反抗したら殺されるかもしれない。一か八かだ。
果たして体を動かすことができて、僕は敵を前から押さえ込んだ。
「ちょっと乱暴はいや!」
「今だ璃音!」
「よくもマスターをたらしこめて! わたしだってマスターに抱きしめてもらったことないのに!」
また璃音がおかしくなっている……。
璃音が中空に大きな光の円を描くと、敵の姿が露わになった。
「なんて嫌な光……」
敵はそういいながらもその光に見蕩れる。敵にふり払われた僕は宙から落ちる。
「マスター!」
「璃音!」
ってなんで、攻撃準備してんの!? もしかしてそんなに怒ってるぅぅう!?。
璃音の攻撃は僕の横を掠め、後ろで何かが爆ぜる音がした。
「ちょっとちょっと、なんでわかったの!?」
璃音が咆哮する。それは確かに可憐な姿に似つかわしくないかもしれない。でもその崇高な姿に僕は魅了された。
璃音の攻撃が敵を捕らえ、勝敗が決した。お姉さんは伏した。
「もう終わり……? でも尖兵だからしょうがないかー……」
天空から虹色の光線が下りてきて彼女を照らす。コンクリートだというのに彼女の周りには紫や赤の花々が咲く。
「どうしてばれちゃったかなー」
「矢じりの石の削れ具合をみれば、どれとして同じものはない」
「なるほどね」
僕には話が見えない。
「もともと使える矢は七つ、だからあなたは移動する。矢を回収しなくてはならないから。攻撃にいちいち時間がかかるのは撃つ準備がかかっているのではなく矢の装備が必要だからということ」
「すべてお見通しかー」
確かに彼女はやたらともったいぶらせていた。そこに救われた部分もある。
「七つの矢を持っている。そしてマスターを拘束するために一つ持っているよね。それが切り札にもなっている」
「でも確かにあたしの攻撃は当たっていたよね?」
「もちろん」
「そんな賭けをする必要があったのかなー。だって、そんなことをしなくてもあなたは充分あたしより強いわけじゃない? わたしが矢を回収できないようにもできたんじゃないかな。攻撃を受け毒が回るとどうなるかわからない。じっさい精神的には相当参ってたみたいだし。それにあたしの矢が七本なんて確定できるわけじゃない」
「もちろんあらゆる可能性は残っている。でも勝負とは不確定要素が残るものよ。それにあなたがわざわざ矢を七本に見せる必要なんてどこにもないじゃない。わたしは矢の数なんて関係なく戦うことができるのだから」
「そりゃそうだ。でもあなたは数を確定させて戦った。それはどうしてかな?」
「最短でマスターを取り戻したかったからよ」
「そっちの方が大事っすか」
「わたしにはマスターが必要なの。マスターが見守ってくれているからわたしは戦える」
「その主様は毒でふらふらだったけどね」
「マスターを信じていた。マスターなら毒とか吹っ飛ばしてくれる強いパワーを与えてくれるってね」
「そして実際にあなたは勝ったと。もしかしたらどの矢が何回放たれたかすらも把握してるんじゃないの?」
「もちろん。わたしの振り分けでは――」
「いや、わたしが覚えてないし。はぁ、そりゃ敵わないわ―。あーあ、これで終わりか。これでいいのかな? あたしはこれで、こんなんで終わっちゃってさ」
彼女は瞼を開ける。虚ろに中空を見つめている。
「いいのよ」
「そか……」
「今はまだ暗闇が取り囲んでいるけれど、いつか白日の下で明らかになるわ」
「……言わなかったっけ? 日にあたるつもりはありませーん」
「嫌でもわたしが引きずり出してあげる」
「まったく。乱暴はいやだよ」
僕には彼女にどのような背景があるかは知らない。でも、璃音の肯定は彼女に届いたようで、ふたたび目を閉ざした彼女は安堵したように見えた。
虹色のベールに包まれ彼女は天空に吸い込まれていった。
「――さて」
彼女を見送ると、璃音がこちらに向き直ると同時に倒れ込みそうになり、慌てて僕は受け止める。服装がメイド服に戻った。
「ごめん、疲れた」
「当然だよ。あんな大変な戦いをしていたんだから」
「そんなのただの言い訳よ」
「言い訳でもいいさ」
「……ありがとう」
一層、璃音はこちらに体を預け深く沈む。
「でも、ここから降りないといけないから。休憩は少しだけ」
「そっか。ほら、璃音もちゃんと抱きかかえてるよ?」
璃音はさらに頭をぐりぐりと埋める。
「うぅ、ごめんなさい。敵の毒でおかしくなっちゃってたから」
あ、やっぱり。僕だってまだ心持ちふわふわしているし。
「穴があったら入りたい」
「その穴も今は僕が作っているんだけどね」
璃音の動きがピタリと止まる。
「もうどうしていいかわからない」
「ごめんって」
「許さないんだから」
「ごめん。僕は償いにどうすればいい?」
「……このままでいて」
「了解」
幸いそれくらいなら僕にもできる。璃音は体も小さいし。
「ねぇ」
「うん」
「昨日は意地張って言えなかったけど、実はマスターの力が必要なんだ」
「そっか」
「わたしは不完全な形で存在している」
「そうかな」僕には十分に思えるけど。
「わたしなんてちぐはぐだよ。だからこうやってストーンとリボン、それを集めている。わたしがわたしであるために。それがわたしの試練。やっぱりマスターにすべてを理解してもらうことはできないけど、それでも、マスターはわたしの力になってくれる?」
「当然さ」
単語の意味はまったく解らなかったけど即答してしまった。
「ありがとう。本当にありがとう」
今までになかった柔らかい璃音の声。毒を受けているはずだけど前より毒気が抜かれているのでは。
「なんだって?」
「い、いや」そう言えば考えていることがばれるのだった。
「でも気が抜けてるのは本当か」
発言と同時にぐぅという珍妙な音が鳴った。
「もしかして、璃音、お腹空いてる?」
璃音はまた頭をぐりぐりと埋めた。否定のつもりなんだろうけど、耳が赤くなっているので残念ながら否定は失敗している。
「お腹が空いて力が出なかったとか、言わない、よね?」
「……」
「……」
「……ああ、そうだよ! お腹が空いてふらふらだったんだよ! ほんっとにっ、いらいらするんだからっ」
璃音はすごい剣幕だ。
「さいですか……」
「もう嫌だ!」
なんかまたご機嫌斜めになってきた。
「マスターにも格好悪いところ見られたし、今日はもう最悪っ」
「僕にはかっこよく思えたよ」
璃音がおずおずとこちらを見上げた。
「本当?」
「璃音はよくやったよ」
璃音は満足げに微笑んだ。
「そっか。じゃあ、いいや。ところでマスターってば大胆。こんなに胸開けて」
「あっ」
意外な切り返しに驚くも、そういえばそうだった。ボタンを留めたいけど、手が塞がってできない。すごく嫌な状況だ。
「ごめんね。マスター、でもよく頑張ったね」
璃音は優しい声で労って僕の胸をさする。抵抗したいけどやっぱり不可能だ。
「……こそばゆいから」
「胸襟を開くっていうのはこのことだね」
「僕は受動的に胸の内を覗かれているっていう感じだな」
璃音に対しては今さらかもしれないけど。
僕と璃音は屋上の縁に座り、夜の街を改めて眺める。夜の街はささやかな休息についている。なんだか昼間の日常的な活動が嘘のように思える。まるでスクリーンに映し出された存在のように見えるのだ。ともすればとてつもなく長い夜にもなるけれど、今日の夜はどちらだろうか。
僕は夜の風にあてられ、何も考えずに話したいことを話すことにする。
「やっぱり良いと思わない? なんか住み慣れた街なのに違う街みたい。なんか眠っているっていうか。いつもは退屈なんだからどうせなら、さ」
「うん」
僕の意味不明な言葉にも璃音はしっかり頷いてくれた。
生暖かい風が僕と璃音をさらう。
「敵はもうあれで終わり? それともまだいるの?」
「いる。今回のが一番弱い」
そういや尖兵とか言ってたっけ。
「それじゃあ、どんどん敵は強くなっていくわけか。なんか大変だな」
「大丈夫。次はもっとうまくやれる。マスターもね。だから不安になることなんてない」
「璃音ってすごいね」
「何が?」
驚いた声音だった。
「だってあんなに戦っていけるしさ。僕には考えられない」
「これはそんなに大した力じゃないよ。確かにマスターにはすごいと思えるのかもしれない。でもマスターはそのままでいい。戦うことしかわたしにはできないんだから」
「でも、すごいよ」
「ありがとう」
璃音は右手を街に向かって目一杯伸ばす。その所作にはなぜだか愛おしさが感じとれた。なんでだろうか。璃音はこの街に愛着はないだろうに。
「見つけた」
璃音は拳を握った。
「うん?」
僕の疑問は璃音が僕の方に身体を預けることで行き場を失った。
街と同じように束の間の休息と少しの哀しみを僕たちも味わった。
ちょっと不安だったけど、僕たちは無事に帰路につくことができた 。
「そういや僕の両親に会った?」
「ううん、きちんとお部屋で待機していたよ」
「そっか。やっぱりばれるとまずいからなぁ。どうしよう」
「従姉妹だから大丈夫」
「うん?」
それで通るのか? いや絶対通るような問題じゃない気がするけど、自信満々の璃音に疑問を挟むのは野暮のように思える。
「納得できない?」
「わかったよ。そういえばさ、ずっとメイド服だよね」
「うん、そうだね」
それで今日も外に出すのが憚られたんだけど、親に見つかったらさらに混乱を招くだろうな。これはそのまま伝えるべきなのだろうか。
「まぁ園児服の時もあるけど」
「嫌味? まぁいいや。わたしはマスターの前では常に奉仕中だからメイド服なの。気になるようなら着替えるけど?」
それは辞しておいた。言っておくがメイド服を着せることが僕の趣味ではない。ただそれが彼女のこだわりなのだろうと思っただけのことだ。これ以上あれやこれや言うのもやめておこう。
「それと大事なことを言わないと」
「え?」まだなにかあるのか。
「わたしって髪を二つ結んでるでしょ? それとメイド服にも一つ後ろで結んでいる 」
璃音は軽やかに身を翻す。
「実はこの結び目がすべて解けるとわたしの力は無くなるの。さらに言うとわたしのストーンを失ってもアウト」
「色々ルールがあるんだね」試練だものな。
璃音の胸に埋め込まれたストーンは鮮やかな赤色を放っている。
「さっき言った通りわたしはマスターの手を借りる必要があるんだけど、力が流れ込むだけでは意味がない。ストーンによって流れに形を与える。リボンによって過剰な流れを循環させるの。だからリボンを失うと力は滞留し、わたしはわたしでなくなってしまう」
「さっきはそんな危険なことを……」
「でも、マスターの想いに充たされて終われるなんて幸せじゃない。それならそれで本望……どう?」
「どうって」
そんなこと言われてもどう応えていいかわからない。
「ふーん、そっか」
何も答えてないのに璃音は何か受け取ったらしい。
「いいよ。今のところはそれで。マスターも初めてのことで色々大変だろうし。ストーンとリボンのことを覚えてくれればいいよ」
そこで僕はあることに気がついた。
「ちょっと待って。さっきの園児服って」
「戦闘服」
「え?」
「戦闘服」
どうやらあまり園児服とは呼ばせたくないらしい。
「……戦闘服ってリボンあったっけ?」
「ないね。だからはっきりいって戦闘服は結び目が二つになってるから不利なんだよ」
「なんでそんな戦闘服なんだ……」
「ほんとにね。でも大丈夫。攻撃に当たらなければいい話だから」
璃音はこともなげだ。
「そんな簡単に言うけどさ」
「簡単な話なの。わたしをもってすれば」
でも、僕は不安だった。一番弱いという今回の敵でさえあれだけ苦戦していたのだから。




