‐on your side‐
月が風邪を引いている。メイド服の少女に手を引かれながらそんなことを思った。
少女は熱帯夜を軽やかに跳躍する。電信柱のてっぺんを踏み台にしながらの跳躍だ。そんな少女に手を引かれているということは僕も必然的に空中を跳んでいるのだった。
一つまた一つとでくの坊が踏まれ、金色の長い髪が、モノトーンのメイド服がたなびく。そんな少女の向こうに月が臨める。もっとも雲がかっているのでその姿はおぼろげだ。
「集中力が足りない」
注意されてわれに返る。あまりの突然の出来事に呆然としていたのだ。結果いつもと変わらず月と夜空を観察していたのだけれど。どんな状況でも人のくせはそう変わるものではない。
「シカトとはいい度胸じゃない」
「いやそんなつもりは」僕はただ言葉を失っていただけなのだ。「君は、うわっ――」
突然の急降下。足の骨がやばい、と思ったが無事着地。
僕的には十分な緊急事態だったが少女はこともなげだ。彼女は闇に包まれた住宅街をすくと見据える。対する僕はまた言葉を失っている。
まったく何がどうなってるんだ。確かいつも通り夜をやりすごそうとしていたはず――。
途端、嫌な感じがした。熱帯夜の空気とまた違う。でも確かに僕の中にその嫌な感じが僕の中に入ってくる感じ。
「来た」
少女の言葉は僕に向けられていない。別にいいけど。
彼女はろくに現状把握もできない僕から手を離し、ひざまずいて言った。
「“月のあなたに――”」
彼女の声だけが聞こえる。
「わたしはあなた、あなたはわたし。その姿が見えずともわたしの導き手となりますように」
祈りが終わったのかメイド服の少女は立ち上り、こちらを見据える。その瞳には強い意思が宿っている。
「始めよう」
「始めるって何を?」
すでに理解不能な事象が多数発生してしまっているのですが。これ以上何かが始まるなんて考えたくない。受け入れたくない。いや別に百歩譲ってそれは認めるにしても関係ないところで始めて欲しい。そもそもいったい何が始まるっていうんだ?
またもや行動不能の僕に少女はぴしゃり、
「想像力が足りない」
「うっ」
「もう戦場に足を踏み入れているというのに呑気なものね」
「せ、戦場? 戦いが始まるの?」
「戦場でピクニックでもするの? そうしたいのならそれでもいいけど」
「いや、遠慮しとく」そんなに僕は神経が太くない。
さて、と少女は金色の髪を手で払う。正直、綺麗だと思うけど暑そうだ。
「戦うにあたってそれなりの恰好をしましょうか」
僕は自分の服装を確認する。半袖短パン。寝巻だった。だって部屋から急に連れ出されたのだからしょうがないじゃないか。だが一応謝る体は見せておく。
「あの、僕の服装……ごめんなさい……」
「これはわたしの問題だからその服装で構わない。目の前で着替えるなんて女の子としてはしたことないことは承知で先に謝っておくわ」
言うが早いか彼女は光に包まれた。驚きと暗闇に目が慣れていていて僕は目を瞑った。
数秒経っても僕の身には何かしらの影響はない。目を開けようと思いかけてやめる。わざわざ目を開く必要はないんじゃないか。そう思う。今までそうしてきたように、ここで思考停止しても悪くないんじゃないか。
「えっ」
少女の驚きの声。戸惑いも混じっている。
好奇心が恐怖に勝った。恐る恐る僕は目を開き、彼女の姿を認める。
黄色いスクール帽。白い襟がついた水色の服。黄色い小さな肩掛けカバン。ひざ掛けひざ丈の黄色いスカート。
「これは……」
紛れもない園児服だった。
まさかのいでたちに僕はたじろぐ一方、これが通ってしまう領域もまた存在するのだと、僕の理解を超えた道理があるのだと読み取った。いや率直に言えば単に少女に園児服が似合っているということだ。ただ単に自分がそんな趣味がないことと思いたいだけなのだ。
僕が自分の気持ちに整合をつけるていると、当の園児服を着こなした少女の方はよろめいて塀に手をつきその身を支えた。
「どうして……」
コスチュームの変更に何か問題が発生したようだが、当然僕はその答えを持ち合わせていなかった。思うことは変身失敗なのに園児服なんて色気とは正反対だなということだ。似合ってはいるがそういう観点からは本当に純然な失敗でがっかりだ。おっと、考えが変な方向にいっている。かといって彼女の当惑を解決することはできない。こういう時は思考停止。手渡しだ。
僕はわかりやすく首を傾げ疑問を呈する。
「えっと?」
「気にしなくていい。これくらい想像の範囲内だから……」
とてもそうは思えないくらい沈んでいるようなのは気のせいか? 声も震えているし。
彼女は精神的にはどうかは知らないが姿勢的に立ち直る。彼女はふたたび前を見据え右手をかざした。
「先に言っておくと戦うには武器が必要」
先回りの説明に僕は頷いた。
光が集まり一つのフォルムが象られていく。今度は反射的に目を瞑ったものの、完全に閉じることはない。
彼女の手にはしかるべき武器が握られた。ピコピコハンマーだった。
「……これも想像の範囲内、とか?」
「……」
今度、彼女は跪いてしまった。金色の長い髪がアスファルトに垂れている。
どうやら気まずいから話しかけてみたが逆効果だった模様。ちょっと嫌味になってしまったような気もする。でも、だからってどうすればいいんだ。やっぱり出来事は目の前を通り過ぎるだけで、何一つ理解できていない。
彼女は無言で立ち上がりスカートを払い、前方に向き直る。この人、どこまでも前向きだな。少女はハンマーを振り上げると、大きく前に振り下ろした。
腹いせかと思ったけど違った。彼女は空間を叩いたのだ。叩かれた場所に光の円が刻まれる。空間が息づき始める。不穏な気配が消え失せた。
「行こう」
彼女は跳びながら嫌な気配がする度に空間に働きかけ打ち消していく。何が起こっているのだろう? 戦いってなんだ? こんな僕と年の頃も変わらない小さい女の子が戦うなんて一体どういうことなんだろう。
「小さいとそんなに不安?」
「いやそんなことは――って、あれ?」
どうして僕の考えていたことがわかるんだ?
「それはわたしが聞こうと思っているから」
全然、答えになっていないような気がするんだけど。
「いいから戦いに集中して」
「はい」
「まったくらちが明かない」
どんどん数が増す嫌な気配。彼女は精一杯肩を回すと大きな円が描かれた。大きな光の放出。攻撃は的確に目標を捉える、というより目的を達成すると言った方が事実に即しているだろうか。
「終わった……?」
「まだ」
「まったく失礼なものだねー、レディに日の目も当てないなんてさ」
「レディでもないし、日の目に当たる気なんてさらさらないでしょ?」
「まーね、気分が悪くなっちゃうもん」
アスファルトに響く足音。声の持ち主がギラギラとしたLEDの電灯に照らし出される。
黒いハイヒール、黒いドレス。身に纏っているものは黒ばかりだ。ただ首には紫のリボンが巻かれている。顔はやはり黒いベールによって覆い隠されている。
「モーニングベール」
「え?」
「あのベールの名前」
「そう、なんだ……?」
夜なのに。
「朝という意味ではないからねー。これは喪服なんだよ」
確かにそう言われればそのように見える。あまり縁起がいいとは言えないな。
「マスターが消えてくれって」
「ひどーい、こういうのって大切なことなんだよ?」
漆黒の女は胸に手を当てる。喪服のせいかその挙動には喪われたものへ想いが窺われる。
「騙されないで。あんなのただのポーズに過ぎない」
「ひどーい」
足下に何かが突き刺さる。矢だった。矢じりには紫色の石がついている。って、ちょっと待て。アスファルトに刺さってるんですけど。
「さ、これで戦いの幕は開けられたねー」
ふたたび目標が暗闇に溶ける。
「早速暗転じゃないの」
「せっかちだね。焦りは禁物。それもこれも最高のフィナーレを迎えるためなのさー……」
敵の気配が消えると同時に嫌な気配が戻ってきた。
「目標を倒さないと終わらない。さ、行こう」
「ちょっと待って」
「なに?」
苛立たしげな少女。でも聞かないといけない。まったく意味がわからなくてついていけないのだ。
「これはどういう状況?」
「彼女は敵。わたしはそれを倒す。それだけ」
その答えはあまりに簡潔過ぎて情報量がほとんど増えていない。思考停止している僕に呆れたのか彼女はため息をついた。そして言った。
「世界は食べられている」
目の前にいながらもこちらを見据えながらも、どこか遠くに隔てられている眼だった。
世界が食べられている……ということは詰まるところやっぱり意味不明じゃないか。直截的な言葉はやはりさっぱりで直截さだけが伝わるというバカバカしい状況に陥っている。
「……」
「……」
こ、こうした長い沈黙は親密な仲だからこそなのだ。そういうことにしておこう。少しでもポジティブな要素を見出さないと心が持たない。
「何か反応は?」
「さっぱりです」
白状した。彼女は眉を顰めた。
「何がさっぱりなの?」
「世界が食べられているって」
「世界は食べられているのよ」
僕は続きの言葉を持つ。
「世界は――」
「わかった。僕が悪いです」
あんたは壊れたテープレコーダーか。そういえば実物のテープレコーダーを僕は見たことがあったっけ? いやいや、疑問点はそこじゃなくて。一つずつ整理していこう。まず世界は食われているっていうこと。って僕もしつこいな。それで――。
「世界はなぜ、誰に、食べられているの?」
「言ってもわからない」
ちゃんと質問したらこれか。じゃあ次。
「君は、一体何者?」
「わたしはメイド」
えーと、それに対するごく普通の反応はこうかな?
「園児服着ているけれど……?」
「大事なのは心構え!」
「わ、わかったよ」
どうやら間違えたらしく慌てて制する。自分で話を逸らしていたら世話がない。
「君はどうして僕の目の前に――」
「想像力が足りない」
くそう、僕はどうすればいいんだ? 混乱してきた。人と話すことってこんなに難しかったっけ? いや、夏休み間は文章でしか人とやりとりしてないとはいえこんなにハードでなかったはずだ。
「賽は投げられたということ。マスターが投げたのよ?」
僕が? まったく話が見えない。それにマスターって。
「マスターって僕のこと?」
「それ以外にいる?」
「いや……」
でもマスターと呼ばれることに慣れていないので変な感じだ。マスターなんて実際に耳にしたのは喫茶店くらいだ。
「わたしにとってのマスターはただ一人。マスターはマスターただ一人なのよ。いけない?」
マスターの過剰供給に頭が混乱する。
「ねぇ、マスター。もっともらしい反応なんて必要ないからね。さっきのが敵だったとしてマスターにとってどんな意味がある? 世界が食べられていてどんな意味がある? マスターにとってどんな意味がある?」
「それは……」
「おおげさに振る舞う必要なんてない。わかるよね?」
確かにそうなのだ。世界がどうなろうと知ったこっちゃない。勝手にしてくれってって感じだ。でもそれを実際に口に出すことはできない。それはちょうど学校のクラスでの活動に似ている。なんでそんな面倒なことをしなくちゃならない、とは絶対に言ってはならないのだ。黙って笑顔で引き受けなければならない。
口角を上げることを意識して言う。
「わかった。それであいつは敵で、君はそれを討つ」
いちいち感じた疑問を呈するよりは事態を進める。そうでないとやっていけない。
「さっきから君だのなんだの、わたしにはしっかりした名前があるのよ。ちゃんと呼んで」
僕は躊躇してから改めて彼女を見据えた。僕はその名前を知っている。なんてことはない。園児服にとめられている名札が彼女の名前を示しているのだ。
「璃音」
「はい」
彼女は微笑した。
「僕は璃音を見ていればいいんだね?」
璃音は頷く。そしてきざっぽく腰を落とし、頭を垂れ、左手を差し出す。
「マスター、どうぞ壇上へ。お取りください」
「僕にとっては面目ない構図だね」
本来であれば僕がリードしないといけないような気がする。
「素直に手を取るのが一番スマートですよ」
璃音は顔上げることなくそっと諭した。戦いの舞台への誘いに応じるべく僕は璃音の手を取る。と同時にまた空中に浮かんでいた……やっぱりか。
「そもそもおしゃべりしている暇なんてない。状況は刻一刻と変わっているのだから」
璃音は忙しそうに光の円を次々作る。でも璃音だって乗っていたくせに。
「ご不満ですか? マスター」
だから、聞かれると困るんだが。
「集中力が足りない――っと」
僕たちは地面に降り立った。
「じゃじゃーん」
「できれば、早々の退場をお願いするわ」
「つれないなー。ふーんだ。びゅっ、びゅっ」
そんなふざけた掛け声に相反して物騒なものが飛んでくる。足下に矢が突き刺さる。璃音は確認すらしない。
「下手くそ」
璃音の言葉気にせず敵はふたたび自分の胸に手を当て、慈しむ所作で言う。
「“わたしの攻撃に触れることはできない”」
どういうことだろうか。僕は地面に刺さった矢を確認する。
矢じりには粗く削られた黒い石。わずかな街灯の光を吸い込み妖しく反射する。一体なにできているのだろうか? 僕はおそるおそる手を伸ばす。
「触っちゃダメ!」
うかつな行動に叱責を受けてしまった。ちょっと息がうまくできなくなる。
「毒があるから」
「うーん、どうかな。薬には違いないよー」
「良い薬にはなるかもね」
「死ぬことはないよん。むしろ――」
璃音は攻撃を始める。
「ちょっとちょっと。不躾だなー。あなた嫌われちゃうんじゃない? 大体、彼はそれを望んでいるの? ただのじゃじゃ馬に過ぎないかな?」
「マスターの有害となるものを掃い去る。それもメイドの仕事」
「だから訊いているの。彼はそれを望んでいるの? 訊いてみれば?」
「必要ない」
「身勝手だなー」
璃音は精一杯肩を回し大きな円を作る。
「いつ愛想を尽かされるか見物だね。しっかり見届けよう」
確かに僕もわけもわからないままこの状況に陥っているから、説明があってもよさそうなものだけど。
「まったく聞き分けのない主ねっ――」
「だっ」
思いっきり塀に叩つけられた。なおも肩がぎりぎりと押さえつけられる。体を小さいのにどこにこんな力が秘められているのか。
「日常生活に置いてどうして雨が降ってくれるとか風が吹くとか考えたことある?」
僕は勢いに押されるままゆるゆるを首を振った。
「さっきから聞いているのはそういうこと。行き交う人の顔をいちいち覚えている? 単に時間の問題。こうして出会ったから? そんなのはわたしからすれば一滴の時間にもならない。それともマスターは行き交う一人ひとりに自分に意味づけをしているっていうの? 日常に飽いて非日常には意味がわからない? 大した身分だね」
矢継ぎ早に畳み掛けられるもものの、そこで語られたこともまた僕には理解不能だった。
やはり身動きできないでいるかしかない。璃音ははっとして体を放してくれる。
「ごめんなさい」
「う、うん。大丈夫。僕の方こそごめん」
「あらあら、戦いが興じて本来の調子が出ちゃったね。主を貶しめ、それでも君は主のために戦うと言えるの? あるいは自分のためと開き直るのかな?」
璃音は口をきっと結んだ。
「お咎めはなしかな? 優しい主でよかったねー。あるいはあなたはそれを甘えというのかな?」
璃音は光の円を作る。
「都合の悪いことは隠すんだね。あるいはそれもいいかもね」
「あなた、目障り」
「おお、こわっ。主には見せられないような顔をしているよ?」
璃音は次々円を作る。その後ろ姿は鬼気迫るものがあり、近寄りがたく思える。
暗闇から敵の弓矢が璃音を襲う。一つ、二つ、璃音は後方に跳んでかわす。
「こんなことをしていたら夜が明けてしまう。ちまちまやっても仕方ない」
大きな円。今度ははっきりとした輪郭をもって円が飛んでいく。しかしかわされたようだ。
「まったく乱暴だなー」
「お互い様」
敵の気配が消える。
「行くよ、マスター」
また僕と璃音は夜を跳ぶ。多くの家々がすでに息を潜めている。
「そんなことはどうでもいい。集中力が足りない。そうじゃないとわたしも戦闘が覚束ないから」
「ごめん」
「いや」
何度この謝罪を繰り返せばいいのだろう。やっぱり足手まといなんだろうな。どうして僕はここにいるんだろう。だがこの疑問もまた璃音を苛立たせるものだ。ここは大人しくしとこう。
やはり跳んでいるのは目立つようで、敵の矢が遠方から飛んでくる。その度に璃音は払い落とす。敵はなんというか逃げ腰であまり本格的に戦いに入らない。
「まともにぶつかったらわたしが勝つから」
ありがたい解説に僕は頷いて了解する。
やがて巨大な建物が姿を現した。この辺では突出した高さのビルだ。
璃音は壁を蹴って垂直に進んでいく。ただあまりにもまっすぐだと狙われやすいのかもしれない。璃音はビルを斜めに跳躍する。壁伝いに大きな螺旋を描いていて上っていることになる。
ほどなくして屋上に降り立った。と同時に攻撃が及ぶ。璃音はなんと目の前でそれを手で掴んだ。
「読まれているか。ここだとどこからでも対応できるのに」
「自分の弱点はよくわかっているからね」
「どこでもそこでも自分の場所にできるなんて身軽というか尻軽というか」
「口が悪いなー、おてんば娘さん」
「失礼。事実でも言っていいことと悪いことがあるものね」
「言っとけばー」
断続的な攻撃に璃音は円を描き続け対する。こんなに敵の攻撃を受け続けていて怖くないのだろうか。僕にはその心中は読み取れない。そこにあるのは静寂のようで激動でもある。ただそうあるように、高いところのもが低いところに落ちるように、日が昇り沈むように、璃音は戦っているのだ。
姿を現してノーガードでやりあうというのは派手かもしれないけど、最善を尽くしたとは言えない。相手の手の内が見えないならばできるだけ自分が不利にならないように対処しなければならないのだ。
おそらく二人の戦いにはさまざまな伏流があるに違いない。だけど僕の目の前に繰り広げられているのは、ただのヒット&アウェイでしかない。やはりほとんど機械的に時間は流れていくだけだ。
僕は何もない日々を過ごすのには困らないのだけど、残念ながら地道に生きるというには真剣さがなさすぎる。こんな戦場でぐだぐだ考えて何が言いたいかと言うと自分で突破口を見つけようということだ。大げさなことではなく周りを見て敵の姿を探すだけなんだけど。
しかし屋上はヘリポートで特に遮蔽物もないので、ここに敵はいないようだ。僕はさらに視線を遠くにやる。
暗い。夜だから当たり前なんだけど、それとは別にという話だ。ここが突出したビルだから他から受ける光が少ないのだろう。それと――。
僕は宙を見上げる。月が雲に覆われていた。月の光がなくて暗いのだ。しかし、隠されていた月が露わになり 、そこには小さな影が一瞬浮かび上がる。
「あれか!」
「違う! 今はここに集中して!」
「ごめん……」
璃音はギリギリで矢を振り払う。
「まったく脆いなー。このくらいで劣勢に陥るなんて」
「本当に。自分に腹が立つ」
「全力を出せないあなたに勝算があるのかな?」
「勝ち目は自分で作る!」
璃音が一喝すると、敵の攻撃がぴたりと止んだ。だけど璃音も足を止めた。どうしたんだろう。
「今日はこれまでー。とりあえずは顔合わせということで」
「怖気づいたの?」
「どうぞ言っといてください」
嫌な気配がするすると無くなっていく。璃音は依然として前方を見据えている。
「どう、なったの?」
「逃がした」
「えっと……僕のせい?」
「別にマスターは気にすることない」
璃音はふいっと僕の脇を通り抜けていく。一応敵の姿を確認しているようで頭を左右に振っている。しかしやっぱり敵はいないようで服装がメイド服に戻った。園児服が戦闘服とかやっぱり間が抜けていると思うが機嫌を損ねるかもしれないから特にそのことについて発言はしない。
「さあ、行こう」
璃音が手を差し出す。僕としてはこんな高いところめったに上る機会がないから景色を楽しみたいところだった。でもピクニックに来てるわけじゃない。戦いに来ているのだ。僕は璃音の手を取る。家に帰るために僕たちはまた夜を跳んだ。
もしかして璃音、怒っているのかな? 僕が足手まといになったばっかりに敵を逃がしてしまった。
「怒ってないから。マスターのせいじゃない。これはわたしの問題」
だから聞かないでほしいんだけど。
「何も考えないこと。ただ状況に対処すること。マスターもそのくらいは苦にしないでしょう?」
「うーん、そうかな? 問題なら山積みだけど」
なんせ夏休みの宿題がほとんど残っているんだから……。
「それでも最後には帳尻が合う」
そうなんだけど、なぜ知っているのだろうか。
「マスターのことはよくわかっている」
これ以上この話は聞きたくないな。誰かに理解されるなんてあまり気分のいいことじゃない。
それからは二人とも何も言わず、ただ僕の知らない夜の街が過ぎ去っていく。言ってしまえばもともと僕はこの街のことをほとんど知らない。学校があればほとんど学校にいるし、学校がなければ家にいる。目的地以外のことなど気にしたことがないのだ。
では特定の場所に執着していると言えばそうではない。その目的地である家も学校もこの街もここである必然性はない。別の場所であれば別の場所で同じように過ごすだろう。
ここに自分がいる必然性はどこにもない。ここにいるのが自分である必然性もどこにもない。璃音の隣にいるのが僕である必然性はどこにもないのだろう。
ベランダから帰還、そこはもう今は使っていない部屋だ。僕らは手を離す。
「それじゃあ、わたしは戻るから」
「戻るって?」
もう部屋には戻っているじゃないか。
「今日の役目を終えたから元の姿に。マスターが一緒にいないと意味がないし」
よくわからないけど璃音の言葉には僕には嫌な内容に思えた。元の姿なんて知りたくない。璃音は今のままの璃音でいいじゃないか。僕はそう思った。だから怒られてばかりなのに、僕はつい厚かましくお願いをした。
「あのさ、できるなら、ずっとこのままでいてくれないかな?」
「了解。確かに敵が襲ってきた時、すぐに対応できなくちゃならないし」
そういうわけじゃないけども。望が叶うならいいか。
「じゃあ、そういうことで」
僕が自室に戻ろうとしたら、璃音もついてくる。
「どうしたの?」
「どうしたのって、マスターが言ったじゃない。このままでいろって」
「いや、僕の部屋にいなくていいから」
「部屋が違うのにこのまま?」
「うん、そう」
僕に関係なく璃音は璃音でいてほしいのだ。
「おかしなことを言うね」
「うん、それでいいから。おやすみ」
「おやすみなさい」
寝巻に着替えるなりすぐにベッドイン。なんというか疲れた。僕は何もしていないのだけれど疲れた。どうしてこうなってしまったんだろう。
確かいつもの通り月を眺めいていたはず。夏休みの間にいつの間にか習慣になったのだ。夏休みにしたことと言えばそのくらいだ。それだけでただ時間は過ぎていったのだ。
僕はカーテンを開けて改めて習慣に則ることにした。
月が風邪を引いている。かつて月が雲がかっている様を姉はそう言った。もともとそういう表現があるのか姉が作ったのか言葉なのかは知らない。いつもながら煌々と光を放ってスタンバイするパソコンを使えばいいだけの話なのだけれど、なんか面倒で調べていないままだ。
もしその言葉が姉の作った言葉だとして、僕しか覚えていないのならば何のために存在する表現なのだろう。使い手と行き先を失われたものに対して僕はどうすればいいだろう。
世界は食べられていると璃音は言った。しかし、だからなんだというのだろう。失われていけない世界などあるというのだろうか。僕の目からは世界は不完全で不整合に思える。網の目が粗くてポロポロと物事を取りこぼしている。それでもこの世界は失われてはいけないというのだろうか。
僕は気を取り直してベッドに寝転がった。
いいだろう。そんな大仰なテーマは僕の考えることではない。とりあえず璃音についていけばいい。僕は今までそうしてきたはずだ。誰かが考え誰かが行動してくれる。そうしてここまで僕はやってきたのだ。これは僕の宿題ではないはずなのだ。




