「悪夢の牢獄」
アクセルが自慢の白い手袋を俺の胸に投げつけて去っていったあと、なぜか俺はその場から立ち上がれずにいた。妙な話だった。足がガクガクと震え、額とこめかみに汗が滲み出てくる。手さえも、まるで死んでしまったかのように感覚がない。何を言えばいいのか、何をすればいいのか分からず、頭の中にあったのはただ一つの問いだけだった――俺は本当に、怖がっているのか?
その思考を断ち切ったのは声だった。
「イヴィィィ! 大丈夫か!?」
ルディ兄上だった。その顔には明らかな恐怖が浮かび、額には彼自身の汗まで滲んでいた。
「イヴィ、大丈夫か!? 返事をしてくれ!」
肩を強く揺すられる。
「だ、大丈夫……」
そう答えたものの、頭の中はまるで別物だった。(なんで俺、こんなに怖がってるんだ?)頭を押さえると、確かにそれを感じた――アクセルの背後に漂っていた、あの黒々としたオーラを。本当に恐ろしいオーラだった。
ルディが叫ぶ声が聞こえた。
「ベティ! 手を貸してくれ!」
ベティが駆け寄ってきて、俺の襟を掴んで椅子の上に座らせた。
「イヴァン様、大丈夫でございますか?」
俺はまた答えられなかった。
「イヴァン様」
彼女は俺の額に手を当てた。
「熱は正常のようですね」
そう言って手を離す。その手には俺の汗が湿って残っていた。
「イヴァン様は、お部屋でお休みになった方がよろしいかと。あまり具合が良くなさそうです」
「ベティ、医者を呼んだ方がいいか?」
「必要ございません、ルディ様」
ベティの目を見ると、その瞳孔が異常なほど速く動いていた。彼女らしくもなく、焦っている様子だった。
「ルディ様、イヴァン様をお部屋へお連れください。わたくしはあとから参ります」
「し、しかしベティ、俺が……」
「早く」
ベティはルディの両肩に手を置いて言った。
「坊っちゃん。あなたは二人の弟の兄なのです。イヴィ坊やのことを、しっかり見ていてあげてください。アクセル様のことは、わたくしにお任せを」
ルディは何も言い返せなかった。ただ拳を強く握りしめ、口から出た言葉はたったひと言だった。
「……分かった」
「よろしいですわ」
ベティは素早い動作で立ち上がると、部屋を出て行った。
ルディは俺を肩に担ぎ上げ、部屋へと歩き始めた。震えが止まらない俺の目の下には、黒いクマができていた。
「なあイヴィ、俺がついてるからな。大丈夫だから。兄ちゃんがしっかり守ってやる」
彼はそう続けながら、努めて明るい声を出そうとした。
「明日、お前の職業と力が分かる。きっと俺たちみたいに――いや、俺たちよりも強い人間になるさ。だってお前、あんなに頑張ってるんだから」
だが俺は一言も返せなかった。ルディの声が沈んだ。
「……俺は、本当に駄目な兄貴だな」
そう呟きながら、俺の部屋にたどり着いた。ルディはドアを蹴って開け、俺をベッドに寝かせた。まだ俺はひどい有様で、目の下は真っ黒なまま、ルディの声にも何一つ答えられなかった。
「もういい」
ルディは強い口調で言った。
「医者を呼んでくる。お前の様子、本当に良くない」
部屋を出る前に、彼は振り返って言った。
「イヴィ、頼むから、アクセルが戻ってきても近づくな。奴と戦おうとするな。俺だって、剣であいつに勝てないんだ。分かったか? この件は、兄ちゃんに任せておけ」
そう言い残し、急いで部屋を出てドアを閉めた。
……なぜ、体が動かない。声すら出せない。前世でも同じだった。俺はいつもそうだ。ただ本の中に逃げ込むだけで、自分の失敗を誰か他人の問題にすり替えてきた。
俺は自分の顔を強く殴り始めた。
(俺は……俺は本当に、失敗作だ。ただの陰キャオタクじゃないか。人生がどんどん悪い方向に転がっていくのを、ただ黙って見ているだけの……)
気づかないうちに涙がこぼれていた。顔を両手で覆う。涙が止まらない。
(自分が嫌いだ。変わりたい。本気で変わりたいんだ。誰か……誰か助けてくれ。俺は……もう自分が何者なのか、分からない)
泣いているうちに、額に熱を感じた。足も、さっきよりずっと軽くなっている気がした。体が勝手に動き出し、鏡の方へと向かっていく。生まれつき額にあった、あの奇妙な紋様が青く輝いていた。少し痛みを感じる。
(な……何が起きてるんだ?)
体は独りでに動き続け、部屋のドアへと向かい、開けた。そのまま俺の体は全力で走り出した。走って、走って、走って。右に左に、階段を上り、また右に曲がり――たどり着いたのは家族の書斎だった。俺がいつも時間を過ごしていた場所。
(なんで俺、こんなところに……?)
手が勝手に軽く動き、書斎のテーブルの一つに向かった。すばやくボタンを押し込む。
(な……なんでこんなところにボタンがあるんだ?)
何かが引きずられるような音がした。顔を上げると、そこには一本の通路が現れていた。一歩、また一歩と近づき、中へと足を踏み入れた。真っ暗な通路だった。今も体は自分の意志で動かせないままだ。書斎のドアが閉まる。前に進むたびに、蝋燭が独りでに灯っていく。どうやら、これも見たことのない未知の魔法らしい。
さらに下り続ける。降りれば降りるほど、奇妙な匂いが強くなっていった。鉄のような、けれど鉄そのものとは違う――何とも言い表せない匂いだった。
数分後、ようやく地下の底にたどり着いた。一滴、また一滴と水滴が絶えず床に落ち、響く音が反響していた。さらに近づいていくと、遠くに光が見えた。体はまた走り出し、そこにたどり着く。
そこは非常に古く、大きな円形の通路だった。薄暗い明かりが漂い、周囲には無数の牢獄が並んでいる。そして、あの匂いは――ますます強くなっていた。
「ここは一体どこなんだ……なんで俺の体は、こんな場所まで連れてきたんだ……」
声に出して呟いた瞬間、闇の奥から答える声がした。聞き覚えのある声だった。
「ここは――地獄だ」
その恐ろしい声色に、闇の中から剣を手に姿を現したのは――アクセルだった。
「ア、アクセル兄上……ここで何を……それに、地獄って、どういう意味……」
アクセルは俺を見て言った。
「よく聞こえなかったのか、この馬鹿。ここは、アストロバイン家の地獄だよ」
「兄上、今は冗談を言ってる場合じゃ……」
アクセルはさらに一歩、また一歩と近づいてきた。足がまた震え始め、固まっていく。手も、もう上げられなかった。俺は再び地面に崩れ落ち、体は激しく震えた。
彼は俺の前に立ちはだかり、恐ろしい表情で言った。
「俺が冗談を言ってるように見えるか、クソ野郎」
答えることができなかった。
「あ……あ……」
「もっと大きな声で言え、聞こえないんだよ」
剣先が俺の首元に突きつけられた。本物の鉄剣だった。
「聞け」
彼は剣を引くと、地面に放り投げた。
「まさか本当に来るとはな。正直、驚いた。もう二度と来ないと思ってたのに――お前がこの俺に決闘を挑む度胸を持ってたとはな」
彼は元来た闇の方へ戻り、訓練用の木剣を二本、引きずり出してきた。一本を自分で持ち、もう一本をこちらへ投げてよこした。
「ほら、立て。かかってこい」
「な……何を言ってるんですか、兄上。俺はまだ加護すら得てないし、剣なんて一度も握ったことが……」
言葉を詰まらせながら答えた。
「関係ない。三年間、訓練の代わりに書物ばかり読んでたんだろ? なら、その本の知識とやらの実力とやらを、見せてもらおうじゃないか」
彼は続けた。
「言っとくが、お前が年下だからって手加減する気は一切ない。俺が一番嫌いなのは、怠け者と弱者だ。さあ――立てよ」
声はさらに鋭さを増した。俺は立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かなかった。
「あ、兄上……俺、無理です……できません……」
泣きながら言葉をこぼした。
「ごめんなさい……俺が兄上の場所を奪ってしまったから……俺だって、また生まれ変わりたいなんて望んでなかった……ただ、この問題を解決したかっただけで……兄上は俺の兄なんだから、俺を守ってくれるはずじゃ……」
言い終わる前に、腹に強い蹴りが叩き込まれた。
「うっ……ぐっ……」
体が二歩分、後ろに吹き飛ばされた。痛い、これは本当に痛い。
「……兄上、これ、本当に痛いです」
彼は嫌悪感を露わにして言った。
「気持ち悪い野郎だ。お前みたいな弱者が、一番嫌いなんだよ」
さらに一歩、詰め寄ってくる。俺は後ずさろうとした。
「兄上……待って、本当に痛いんです。やめてください……」
もう一度、顔を蹴られた。
「立て。男らしく、正々堂々と向き合えよ」
俺は地面に崩れ落ちた。すぐ手の届くところに木剣が転がっている。口から血が流れ出てくる。
(……立って戦わなきゃ。戦わなきゃ、殺される。誰にも見つけてもらえない)
痛みに耐えながら、両手を地面につき、必死に立ち上がろうとした。木剣を握り、それを支えにして体を起こす。木製とはいえ、驚くほど重く感じた。
――生き延びるために、戦わなければならない。




