断章Ⅱ :名を持たない天使
王都の大聖堂。その地下深くに、一般の信徒には存在すら知らされていない「異端審問局」の本部がある。
冷たい石畳の広間に、白装束に身を包み、顔を仮面で隠した集団が整列していた。
神の敵を秘密裏に抹殺するために訓練された、感情なき処刑人たちであった。
その前に立つ男、異端審問官イグナティウスは、異端審問局 最高監察官 ルクシオール・セヴェリウス・カシウス卿からの書状を読み、低い笑い声を漏らした。
「嘆かわしいことだ。次期大聖女と目されていたエステル様が、あろうことか『死を弄ぶ傭兵』たちに誑かされているとは」
――聖女エステル。あれほど・・あれほど目をかけてやったというのに。
イグナティウスの背後には、十二体の「小さな人影」が控えていた。全員が、金糸で刻まれた分厚く黒い法典を両腕でしっかりと抱え法典から顔を出す様が異次元の存在感を示していた。
元々古代遺跡から発掘された遺物をもとにアレリウス男爵の城で回収されたデータを用い、ルクシオール卿がさらに改良を重ねた生体兵器――『神兵』として造られた十二体の試作体だ。
イグナティウスが洗練された所作で手を振ると、仮面の男たちが一斉に跪く。
「標的は砦都シルヴァリア。『隻眼』のアポロ、獣人のシルク。そして、もし聖女エステルが彼らに加担するならば―」
イグナティウスが斬るような動作で強く手を振り、一瞬の沈黙の後、残酷な宣告が下される。
「異端者として、その場で浄化せよ」
「「「「「「「「「「「「「浄化!!」」」」」」」」」」」」」
狂信の叫びが地下聖堂に木霊する。解き放たれた狩犬たちは、血の匂いを嗅ぎつけた獣のように、西の空へとその眼光を向けた。青い薔薇を摘み取るための牙は、すでに研ぎ澄まされていた。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
十二体の神兵たちには、名前がなかった。
第一条。第二条。第三条。
そう呼ばれるたびに一体が顔を上げ、黒い法典を胸へ抱き直した。
命令を受け、命令を実行し、命令が終われば壁際へ戻る。
食事は必要だった。
睡眠も必要だった。
傷を負えば血が出た。
そして、命じられれば空を飛んだ。
けれど研究官たちは、それを人間である証とは考えなかった。
兵器にも油と整備が必要なのだと言った。
訓練室の高い天井を、小さな鳥が横切った。
第十二条だけが、その鳥を目で追った。
一度、見えなくなった。
また戻ってきた。
――十三回。
――十四回。
数えることは命じられていなかった。
「何をしている」
『待機しています』
「外を見ていただろう」
『視界内に動体を確認しました』
「危険は」
『ありません』
「なら見る必要はない」
『承知しました』
第十二条は正面を向いた。
鳥の影が床を横切った。
目を動かすことはしなかった。それでも影が消えたあと、胸の奥に小さな空白が残った。
何かを失った時に生まれる感覚だと、彼女はまだ知らなかった。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
同じ頃。
王都の執務室では、ルクシオール卿が一人、揺らめく燭台の炎を見つめながら愉悦に満ちた声で独り言ちていた。
「さあ、聖女エステル。お前はどう動く?信仰を守り、彼らを見殺しにするか?それとも、愛に狂い、神に背いて『魔女』へと堕ちるか?」
ルクシオールは、どちらに転んでも構わなかった。見殺しにすれば、死と生命の境界を越えた者たちを、こちらで確かめられればよい。
もしエステルが介入すれば――
それはそれで、面白い。神の裁定を、人の意志で覆せるという証が手に入る。
「さあ見せてみよ。愛する想いが、どういうシナリオを迎えるのか。」
執務室に、乾いた声音が響いた。
――それは終曲の合図か、それとも新たな狂詩曲の始まりか。
復讐に捕らわれた男は、そこに気付けない。
彼が弄ぼうとしている「駒」たちが、盤面そのものをひっくり返すだけの熱量を秘めていることを。
次回 ――「真昼の決闘」。
神の法典を抱く十二の神兵たちと、満身創痍の《隻眼》。シルクは剣を封じられ、エステルは声を奪われる。
太陽が最も高く昇る刻、三人の運命を分ける決闘が始まります。




