断章0 光が堕ちた夜
その日、王都ルミナリアには、雨が降り注いだ。
王都に疫病が流行した。貧民街から始まり、瞬く間に下町全域へと広がった猛烈な熱病。
特効薬の処方は既に確立されていた。
二十七年前の夜、下級貴族で若き法務官だったルクシオール・レックスは、ずぶ濡れの体に泥水を跳ね上げながら息も荒く走った。胸には、王家の薬庫を開放させるため、判断の元となる法典の条文や判例を引き、倫理的、医学的所見を並べた“根拠”で命の価値を証明した許可状を抱えていた。
正確には、許可状になるはずだった紙切れであった。
王権によって正式に認められた文書となる王璽は押されず担当大臣たちの署名もない。
王族と貴族たち、それに商人・薬ギルドのトップによる強欲な会議は三日続き、薬の提供と輸送をどの商会へ任せ、どのように自分たちへ利益配分するかで揉めていた。
その間に、貧民街と商業・一般住居区画・下級貴族住居区画であった街区の中から二万九千人が死んだ。
「ルシア!」
扉を押し開けた時、家の中は静かだった。
寝台には、目を閉じていた妻ルシアが真っ白な貌で娘を抱いたまま壁に背を預けていた。
三歳だったヴェスペラは母の胸に頬をつけ、眠っているようだった。
ルクシオールは二人の前に膝をついた。
呼吸を探し、
脈を探し、
強く幾度も名を叫んだ。
夫であり父である彼にできたのは、冷え切った二人の身体を抱きしめることだけだった。
握りつぶされた許可状が、床へ落ちた。
その時さらに強さを増した雨が、人々から発せられた怨嗟の声を泡沫のごとく流したかのようだった。
翌朝、王家は薬庫の開放を決めた。
遅すぎた決定は、慈悲深い英断として布告された。
静かな埋葬のあと、誰もいない部屋で、独白した。
「感情に左右されず、欲に左右されず、純粋な正義のみを執行する“絶対の摂理” による秩序が、この世界には必要なのだ。」
机の上には、妻と娘を描いた小さな肖像画があった。
ヴェスペラは画家へ手を伸ばし、ルシアは困ったように笑っている。
「ならば、法が判断すればよい」
ルクシオールは法典を開いた。
愛する者を救えなかった男は、猛烈な怨恨を抱えた。
王家に対して。
貴族に対して。
世界に対して。
そして何より、妻と娘を救う力を持たなかった自分自身に対して。
法務官ルクシオール・レックスは、その夜から自らが絶対の摂理になろうと決意した。
◇◇◇
二十七年後。
朝、間諜からの報告を受けていた――ルクシオール・セヴェリウス・カシウス卿の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
王国首席判事
国王直属王宮筆頭顧問
王宮法務総監
異端審問局最高監察官
西部方面全権使
謀略と古代遺物の精神操作と書類の改ざんによってカシウス公爵家の養子へ収まったのを皮切りに、さらなる謀略と暗殺を積み重ね、彼はその五つの肩書を手に入れた。本来、互いに監視し合うべき五つの権力を一身に集めた。
そして法の精神に基づく美辞麗句が語られるその裏で彼が行ったことは、勅令、教会法、貴族法、領主法、慣習法、都市法、商人法・ギルド法など別々の法体系の条文や規則等を改正することで巧妙にそれらを関連付け、すべてを一手に掌握したことだった。
間諜からの報告は、アレリウス男爵の古城で全滅した精鋭の強化人間部隊と、死者を蘇生させた「隻眼」の男アポロについてだった。
――見つけたのではないか。私には成し得なかったことを成した男を。
報告を聞き終え下を向いていた彼の口元が、三日月のように裂けた。
だが、口にしては驚愕を演じた。
「我々が放ったあの精鋭百名が、ぜ全滅? 強化人間だぞ!」
間諜や秘書官、各部署の高官など室内に集まっていた秘匿された者たちは、ルクシオールの激昂に息を呑んだ。
「我々の切り札の一つと考えていたものを……化け物か……『隻眼』と、しかも死んだはずの『獣の女』によってだと?」
ルクシオールの瞳の奥に一瞬だけ宿ったのは、驚愕でも歓喜でもなく、深い羨望と嫉妬だった。
――アポロ。
ルクシオールは、報告書に記された男の名を心の奥底へ深く呼びかけた。
――お前は、愛する者を取り戻せたのか。
そのどす黒く渦巻く情念は、瞬く間に冷たく冷え切った理性の仮面の下へと無理やり押し込まれた。
自分を律するかのように、ルクシオール・セヴェリウス・カシウス卿は椅子へ座り直し、静かに命じた。
「《隻眼》を監視対象に加えよ。辺境伯の”倍”投入せよ。」
間諜が頭を下げ恭順の意を伝えた。
「彼奴が、どのようにして神の摂理を破れたのか――すべて調べよ。これは最優先事項である。」
その声音には、何の感情も感じられず、引き上げ時と感じた間諜を含めたすべての者は室内から静かに引き下がった。
◇◇◇
シルヴァリア、モフモフ亭の二階。
重い瞼を持ち上げたアポロの視界に映ったのは、見慣れた天井だった。
「・・・・・・ここは……見慣れた天井だな。天使のキスはなしか」
身体を起こそうとして、鈍い痛みに顔をしかめる。昨日の戦闘の記憶が、じわりと蘇ってきた。
その時だった。 街の外から、地鳴りのような歓声が響き渡り、やがてそれはシルヴァリアのメインストリートへと近づいてきた。 鐘が鳴り響く。敵襲ではない。もっと晴れやかで、厳かな響きだ。
「なんだい? お祭り騒ぎかい?」
一階にいるシルクがいぶかしげに反応する。
「・・・・・・ん、この気配は」
二階の寝室で、アポロも異変に気づいた。まだ本調子ではない身体を起こす。彼の研ぎ澄まされた感覚が、群衆の熱狂の中に、桁外れに純粋で強大な魔力の波動を捉えていた。
階下では店の扉が勢いよく開かれ、常連の傭兵が転がり込んでくる音がした。
「おいアポロ、シルク! すげぇぞ! 帰ってきたんだ!」
「誰がだい。」
「『白百合の聖女』様だよ! 王都での修練を終えて、次期大聖女候補としてこの街に凱旋されたんだ!」
かつてアポロと共に旅をし、背中を預け合った少女。 フォーク一味や王都の馬鹿どもをせん滅した別れ際、「この街に残る」と言った彼女は、その後、類稀なる治癒の才能を教会本部に見出され、王都へと召喚されていた。
二階ではアポロが、
「……見舞いに騎士団まで連れてくるとは、ずいぶん出世したな」
と言い、
シルクは思わず、――アポロが眠る二階を見上げた。
「聖女・・エステルが・・・・・・?」
シルクが気鬱そうにつぶやいていると、店の前の通りが華やかな雰囲気に包まれた。
群衆を割り、純白の騎士団に護衛されて歩いてくる一人の女性。
かつてのあどけなさは残しつつも、その身に纏う空気は凛として洗練されている。
豪奢な法衣を纏い、黄金の杖を手にした彼女は、沿道の人々に慈愛に満ちた微笑みを向けていた。
だが、その視線が『モフモフ亭』の看板を捉えた瞬間、聖女の仮面が剥がれ落ちた。
「アポロさん! シルクさん!」
店の中に飛び込んだエステルを迎えたのは、カウンター越しに片付けをしていたシルクだけだった。
「エステルかい・・いや、聖女様か」
「もう! 他人行儀な呼び方は禁止です!」
そう言いかけて、エステルの足が止まった。
目の前にいるのは、見知らぬ狐族の少女の身体。だが、その立ち振る舞い、魂の波長は、間違いなく戦友シルクのものだ。しかし、何よりもエステルを戦慄させたのは、そこから漂う「魂の色」だった。
「・・・シルク、さん・・・・・・ですよね?」
「ああ、ちょっとわけあってね。姿が変わっちまったが、中身はこの通りさ」
シルクはおどけて見せるが、エステルの表情は険しくなる一方だった。
彼女はゆっくりと、震える手でシルクの頬に触れようとし直前で指を引っ込めた。
「・・・・・・冷たい」
「え?」
「魂から発する色が、冷たいです。貴女は生きている。でも、その身体と魂の結びつきは・・・・・・まるで、無理やり縫い付けられたかのよう・・・・・・」
言いかけて、エステルは店の中を見回した。
「アポロさんは?」
シルクの表情から、笑みが消えた。
「・・・上で寝てる。昨日、ちょいと無理をしちまってね」
「無理、とは」
「魔獣退治さ。街道の連中を助けにいった。いつものことさ」
シルクの声は、努めて軽い。だが、その手は無意識にエプロンの裾を強く握りしめていた。
エステルは、その様子をみて、それ以上何も聞かず、階段を駆け上がった。
寝室の扉を開けると、ベッドに横たわるアポロの姿があった。
眠っているにしては、呼吸が荒い。額には脂汗が浮かび、肌は土気色をしていた。
「なんてこと、アポロさん・・・」
エステルは震える足で歩み寄り、彼の胸元――厚手のシャツの隙間から漏れる、かすかな青い光に気づいた。
聖女としての経験と勘働きが、彼女に手を伸ばさせた。
そっとボタンを外すと、そこにあったのは、アザなどという生易しいものではなかった。心臓を中心に、血管そのものが青く発光し、皮膚を突き破って咲き誇る『青い薔薇』の刺青。
「……久しぶりに会って、いきなり脱がすとは積極的だな」
「起きていたんですか」
「今だ。続けてくれて構わん。そういうサービスは歓迎するぜ」
「・・黙っていてください!」
だが、その根はアポロの肉に深く食い込み、脈打つたびに彼の生命力を貪り食っているのが、目に見えてわかった。それは刻印というより、心臓に寄生した『呪い』そのものだった。
「・・・・・・やっぱり」
エステルは震える手を、その青い光にかざした。
「これは、魔力パスの共有なんかじゃありません。アポロさんの魂そのものを『燃料』にして、シルクさんの魂を無理やり燃やし続けている・・・・・・。こんなの、こんなのただの『心中』じゃないですか!」
エステルの悲痛な叫びに、アポロの瞼がゆっくりと開いた。
「ふっ・・心中、か。言い得て妙だな」
「笑い事じゃありません! 貴方、わかっているんですか!? このまま使い続ければ、貴方の魂は数か月も持ちません! 燃え尽きて、輪廻の輪にすら戻れずに消滅してしまう!」
「数か月か。思ったより長いな」
返答を返す言葉がみつからず、エステルの目から、大粒の涙が溢れ出す。愛する人が、目の前で自分の命を削り続けている。しかも、別の女を生かすために。これほど残酷で冷酷な現実があるだろうか。
戸口に、シルクが立っていた。
「もういい!もういいよ、アポロ!」
口を開いたのは、それまで黙っていたシルクだった。
彼女はティナの身体を抱きしめるようにして、唇を噛み切った。
「シルク」
「アタシは一度死んだ。妹と一緒に、あそこで終わるはずだった!今すぐこのパスを切れ!アタシは消える!そうすればあんたは助かる!そうだろ?」
シルクが叫ぶ。その瞳には絶望と、深い愛情ゆえの拒絶があった。
「却下だ。そのオーダーは通せねぇ」
シルクがアポロの胸の薔薇を爪で引き裂こうとする。だが、アポロはその手を掴み、力強く引き寄せた。
「ふざけるな!」
アポロは血で濡れた口元を拭い、隻眼でシルクとエステルの二人を順に睨みつけた。
「俺が、何のために神とやらに喧嘩を売ったと思っている!あのとき、シルクを失いたくなかった。こいつは俺の『エゴ』だ。文句は後で聞くよ。生きてたらな。」
その言葉は、愛の告白であり、同時に狂気もはらんだ執着の宣言であった。
エステルは立ち尽くす。
彼の中にあるシルクへの想いは、エステルが立ち入る隙間があるのか判別付かないほどに深く、重たいものであった。
――それは「愛」「慈しみ」なのか、それとも「渇き」「餓え」「絶望」なのか。
エステルは、岐路に立っていた。
信仰か、愛か。正しさか、想いか。聖女としての正義と、女としての嫉妬と真の絶望がない交ぜになり、エステルの心を激しく引き裂いていく。
「・・・・・・許さない・・」
エステルは、消え入りそうな声で呟いた。
「そんな自己満足の死に方、私が絶対に、絶対に許しませんから」
その瞳には、かつてないほど暗く、激しい感情が宿っていた。
三人の関係は、この瞬間、決定的に変化した。
神の摂理に喧嘩を売った男と、罪悪感に苛まれる女、そして断罪と救済の狭間で揺れる聖女。
――不協和音を奏でる狂詩曲は、最悪の形で幕を開けた。




