第一章 愛する者を守った男
王都ルミナリアの豪奢な石畳から遙か西。赤茶けた岩肌を晒す辺境の砦都シルヴァリアは、今日も容赦ない日差しと砂埃に焼かれていた。
ミスリル銀の鉱脈が引き寄せるのは、一攫千金を夢見る山師や、硝煙の匂いを纏ったワケありの傭兵たちやツルハシを担いだ屈強な獣人、賞金稼ぎ、ドワーフたち、エルフなど様々だ。
ひび割れた大地から吹き込む熱風が、乾いた土の匂いを運んでくる。そこに路地裏の酒場から漂う刺すようなスパイスと安酒と汗の匂いが混ざり合い、シルヴァリア特有のむせ返るような空気を形作っていた。
そんな喧騒から一歩退いた路地裏。荒々しくスイングドアが弾かれる音が路地裏に響く。
ならず者たちが集う煤けた看板を掲げた場末の酒場兼食堂『モフモフ亭』
その厨房から漂うのは、砂を噛むような荒野の日常を忘れさせる、野生牛のすね肉を赤ワインと数種のハーブでトロトロに煮込んだ濃厚な香りだ。
「おい、隻眼! 三番テーブル、追加でフレッシュトマトのパスタだ! それと『気まぐれシェフの灼熱アヒージョ』、まだできないのかい!」
厨房に怒声を飛ばしながら注文されたエールを提供していた。その声の主は、華奢で可憐な狐耳の少女――に見える給仕係だった。
かつて戦場を真紅の疾風の如く駆け抜けた女傭兵シルク。だが、今の彼女の姿は、悲劇的な死を遂げた双子の妹、ティナのものである。シルクが着けていた少し大きめのエプロンが、彼女の今の身体には不釣り合いで、忙しなく動くたびにふわりふわりと揺れる。
「急かすな。美味いもんを作るには、適切な火加減と時間、それにシェフへの敬意が必要なんだよ。それに水が少ないこの荒野だからこそ、トマトは生き延びるためにとびきり甘く、濃くなるのさ。人間と同じだ。」
と言いつつ、ニンニクの香りを立たせたフライパンに荒く刻んだトマトとバジルを放り込む。煮たてたソースに茹で上げたパスタを加え、ソースが絡み切るまで一気に煽った。
隻眼の古傷、無骨な筋肉。その手にあるのは魔導銃『サンダーボルト』ではなく、使い込まれた鉄鍋だ。 アポロは完成したアヒージョとバジルが飾られたフレッシュトマトのパスタもカウンターにドンと置く。
その時、店の扉が乱暴に開かれた。
「た、大変だ! アポロ! 緊急依頼だ!」
飛び込んできたのは、辺境伯騎士団の伝令兵だった。彼は息を切らし、顔面を蒼白にしていた。
「北の街道沿いに、見たこともない魔獣が出現した!行商人の馬車隊が襲われている!騎士団の先遣隊が向かったが、歯が立たない!アレは『再生』するんだ!」
「再生する魔獣だと?」
アポロの隻眼が鋭く細められる。禁域の魔獣ならば珍しくはないが、街道沿いに出現し、騎士団を圧倒するほどの再生能力を持つ個体など聞いたことがない。アポロはカウンターの下部に隠していた愛銃『サンダーボルト』を掴んだ。
「話は後だ。行くぞ、シルク」
「あぁ!」
現場は凄惨だった。
破壊された馬車の残骸、逃げ惑う人々、そして血溜まりに沈む数名の騎士たち。その中心で暴れまわり殺戮を行っていたのは、悪夢のエキスを煮詰めたような異形の獣だった。狼のような頭部、爬虫類の鱗に覆われた胴体、そして背中からは蜘蛛のような鋭利な長めの節足が数本生えている。
「キメラ・・・・・・いや、あんな不格好な合成獣じゃない。もっと洗練された『兵器』だ」
アポロは直感した。これは自然発生した魔獣ではない。人為的に造られ、解き放たれた実験体だ。 魔獣がこちらに気づき、咆哮を上げる。
「来るぞ! シルク、右から行けるか!」
「おう!」
アポロの指示と同時に、シルクが駆ける。妹ティナの身体能力は、本来シルクのものより劣るはずだった。だが、アポロの魂とリンクしている影響か、彼女の動きは生前と同等、いやそれ以上のキレを見せていた。 シルクの双剣が閃き、魔獣の脚を斬り飛ばす。
「ギャオオオオッ!」
魔獣が悲鳴を上げるが、斬り飛ばしたそばから切り口の肉が盛り上がり、新たな脚が生え変わった。
「チッ! 本当に再生しやがる!」
「しぶとい客には、閉店時間を教えてやるか。急所を撃ち抜く!」
アポロが『サンダーボルト』を構え、
「加速・展開」
その瞬間、世界から音が遠のいた。
舞い上がった砂粒が空中に縫い止められ、風さえその動きを失っていく。
魔獣の動きが緩慢になり――やがて静止画のように見えた。
狙うは、魔力のコントロールや供給源と考えられる「眉間」そして「腹部」。
時間差で狙う二点への射撃。
――これで決める!!
引き金を引こうとした、その瞬間だった。
シルクはアポロから見て魔獣の前方まで回り込んでいたが、その死角へ、魔獣の背中から伸びた蜘蛛の脚が予備動作もなく襲いかかる。
そして、その脚がほんの一瞬――アポロと魔獣の眉間を結ぶ射線へ重なろうとしていた。
――シルクっ!
アポロは腹部への狙いを捨てた。だが、加速中の急激な軌道修正は、術者の脳と肉体に甚大な負荷をかけた。さらに、シルクを守るため、アポロは無意識に加速の出力を上げてしまっていた。
!!
胸の奥で、心臓が焼け裂けるような激痛がはじけた。アポロの口から、どす黒い血が噴き出す。
「がはっ・・・・・・!」
「アポロ!」
それでもアポロは、蜘蛛 脚の関節と眉間が重なる、その刹那に引き金を引いた。
実際には一瞬の加速された知覚の中、魔力で形作られた一発の銃弾がゆっくりと空間を裂いていきシルクを襲う脚を粉砕し、勢いそのままの弾丸が魔獣の眉間を撃ち抜いていた。
――くそぉ腹は外した!
そして、その代償としてアポロの集中が切れ、加速が強制解除される。無防備になったアポロに向かって、急速に接近した魔獣の巨大な爪が振り下ろされようとした。
「さっさと店じまいしやがれ!」
シルクが叫び、側面から魔獣の背に飛び乗り、返す刃が魔獣の首を薙ぐのはほぼ同時だった。
アポロの放った眉間への攻撃が効果的だったのも幸いし、再生が追いつかないほどの双剣の連撃で、獣はようやく動きを止めた。
戦闘は終わった。だが、アポロはその場に膝をつき、激しく咳き込み、指の隙間から鮮血が滴り落ちる。
「アポロ! しっかりしな!」
シルクが駆け寄り、身体を支える。厚手のシャツの下、彼の胸元がわずかに青く発光しているのが見えた。誰にも見せたことのない光だった。
『青い薔薇』の契約。それは、あのアレリウス男爵との戦いの最中、死の淵にあるシルクの魂を現世に繋ぎ止めるため、アポロが持つ「生命(Skill3)」の力を常時接続し続けるという、禁断の荒業だった。アポロは平然と振る舞っているが、その負担は計り知れない。
彼は常に、世界の摂理そのものがシルクを排除しようとする圧力に、たった一人の魂の力で抗い続けているのだ。それは、緩やかな自殺となりつつあった。
「・・・・・悪い、シルク。ちょっと、な・・・」
「喋るんじゃないよ。歩けるかい」
肩を貸しながら、シルクは唇を噛んだ。
――アタシがドジを踏むたびに、アポロの魂が削られる。それを、今日はっきりと見てしまった。
二人が店へ戻り着いたのは、夜になってからだった。
アポロは二階の寝台に運ばれ、荒い息を繰り返しながら目を閉じた。
そして、静かな寝息を確かめてシルクが部屋を出た。
アポロの意識は、深い闇の底へと沈んでいった。
その時、シルヴァリアには珍しく、雨の匂いがした。
アポロがこの世界へ堕ちてくるよりもずっと前――王都ルミナリアで、愛する者を守れなかった男がいたことを、彼はまだ知らない。




