百五十・襲撃者 肆
リリスの一撃から、しばらくして――
砂煙がゆっくりと晴れていく。
だが、そこにはもう……仮面の男の姿はなかった。
「……逃がすものか。」
リリスの瞳が紅く揺らめく。
怒りの熱が空気を震わせ、周囲の魔素が悲鳴を上げる。
――マズい、このままじゃ。
《以心伝心》
「リリス……!落ち着いて! もう大丈夫だから。
深追いしなくていい……!」
リリスは静かに目を閉じ、
その黒いオーラがふっと霧のように薄れていった。
「……申し訳ありません、ヒナタ様。取り乱しました。」
その声は、いつもの穏やかなリリスに戻っていた。
怒りの残滓が風に流れ、森に再び静寂が訪れる。
よかった……落ち着いたかな。
安堵の息をつく。
けれど、ふと違和感が胸をよぎった。
……ん、待てよ。
このまま黒いオーラが消えたら――
リリスの素顔が、ユリウスにバレてしまう。
まずい!どうにかしなきゃ……!!
焦りの思考がよぎった、その瞬間。
「すまないが……ボクも覇王竜に付き合うほど無謀ではないんだ。」
ユリウスの声。
軽い口調の裏に、確かな決断の気配があった。
彼が指を鳴らすと、
空間がきらめき、無数の光が収束していく。
【༄ 明奏無༄】
柔らかな光かと思いきや――次の瞬間、世界が裏返った。
轟音と閃光。
森の一角が消し飛び、視界が真白に塗り潰される。
……何が起きた?
耳鳴りとともに、空間が静まり返る。
目を開けたとき、そこにユリウスの姿はなかった。
風が吹き抜け、
ただ残ったのは、彼の気配が完全に消えたという“確信”だけ。
「……逃げて、くれたのか?」
ユリウスの気配が完全に消えた空を見上げながら、
安堵のため息をつこうとした――その瞬間。
「ヒナタ様〜〜っ!!!」
視界いっぱいに黒色の髪が飛び込んできた。
リリスが勢いそのままに抱きついてくる。
「ちょ、ちょっ!? リリスさん!? ちょ、落ち着いてっ!」
「無事で本当によかったですぅぅ!」
その声には、先ほどまでの覇帝竜の威圧感なんて微塵もない。
代わりにあるのは、心の底からの安堵と――過剰なスキンシップ。
森の残骸の中で、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。
……うん。
さっきまでの“世界の終わり級の戦闘”が、まるで嘘みたいだ。
少し休憩を取ったあと、
倒れた木の上に腰を下ろしながら、リリスと話をする。
「さっきの仮面の男……一体何者だ?
聖王ユリウスとも互角に戦っていた。」
リリスは静かに目を伏せて答えた。
「あの聖王……奴は本気を出していなかった。」
「え……?」
さらりと恐ろしいことを言う。
「それに――あの仮面の男も、力を隠していたでしょう。」
「……まじでか!!」
思わず立ち上がる。
ちょ、ちょっと待て!?
つまり……全力だったの、俺だけ!?
俺の全力って……この世界の強者たちにとっては“ウォーミングアップ”だったのか。
頭を抱えながら、
俺は空を見上げてため息をついた。
リリスが、ふと遠くを見つめながら呟いた。
「あの男の気配……どこかで感じたことのあるものです。
――魔王の持つ、特有のそれに。」
「……魔王……!? あいつが……?」
驚きのあまり、思わず声が裏返る。
リリスはゆっくりと首を横に振った。
「現魔王に、奴のような者がいるとは聞いたことがありません。
今の魔王ではないことは――確かでしょう。」
沈黙が落ちる。
森の風が、戦いの焦げ跡を撫でていく。
別の魔王……?
そんな存在が、まだこの世界に?
胸の奥がざわついた。
まるで、終焉の幕がまた一枚、静かに開いたように。




