100.未来へ
彼を想って、もう何年になるだろう。
同じ想いを返してい欲しいと願いながら、ずっと何もできずにいた。拒絶されるのが、彼の想いを聞くのが怖くて……近づいては逃げて、結局自分の殻に閉じこもっていた。
でもやっと、この想いをあふれんばかりの愛しい気持ちを伝える決心をした。もう逃げない、と。
―――――好きだよ
その言葉を理解するまで、数秒を要した。杏実は呆然と颯人を見つめる。
今……なんて?
「ずっと、好きだった。お前が“アメ”だった時から……ずっと」
「う……そ……」
杏実がとっさにそうつぶやくと、颯人は微かに笑い声をあげた。
「なんで嘘なんだよ。本当だよ。実家のことが片付いてから言おうと思ってた。俺にとって婚約者のフリも……この指輪も嘘なんてなかったよ」
颯人の言葉の一つ一つがが杏実の中に入ってくるたび、うれしくて胸がいっぱいになる。そして知らぬ間に涙があふれて来ていた。
颯人はそんな杏実の涙をぬぐいながら、優しく微笑んだ。
「泣くなよ」
「だって……私……私も……ずっと……」
「うん」
そうだ。ずっと言いたかった。この想いを伝えたかった。
「好きだったんです」
そう言い終わると同時に、颯人に引き寄せられて、深く口づけられた。
背中に強くたくましい腕の感触を感じながら、息もつかないキスを受ける。苦しいのに、そのすべてが颯人から与えられているのだと思うとうれしくて、全身で颯人を受け止めた。
そのキスからも杏実のことを好きだと言われているようで、身体が熱くなった。
「好き……すき……んぅ……」
うわごとのように伝えたかった言葉をつぶやくと、その想いを受け取ったかのように颯人の腕の力は強まり、荒々しいキスの嵐が降ってくる。
「んぁ……」
気がつけばソファーに横たわり、颯人が覆いかぶさって唇から頬、首筋と熱く流れるようなキスを落としていた。杏実は、くすぐったいようなそれでいて背中がぞくぞくするような感覚に、身体が蕩けていく。
颯人の手のひらは次第に腰から上に上がっていき、柔らかく盛り上がった杏実の胸を這っていく。服越しに受ける颯人の愛撫は心地よく、杏実は甘い吐息を吐きだした。
「………ん」
恥ずかしいのにうれしい、そんな感覚は初めてだった。
「杏実……」
颯人が何気なくつぶやいた名前さえ“愛しい”と言われているようで、うれしくて涙があふれてきた。
「私も大好きです」
杏実がそう言うと、颯人はピタッと愛撫を止め杏実を見つめた。眉が下がり困ったような表情を浮かべている。
「あんま可愛いこと言って煽るなよ」
「え?」
そう言うと、颯人は杏実の耳の後ろにキスを落とす。
「ひゃ……」
「……止められなくなるだろ」
そう言いながら、巧みに耳殻を甘噛みされる。その熱く柔らかな唇の感覚と、欲望を抑えたような低く擦れた声が、身体の奥底に響いて杏実に麻酔をかける。もう手足さえ自由に動かせそうになかった。
「……ゃぁ」
「待ってやりたいのに……抱きたい」
その言葉を証明するかのように、颯人の手は杏実の服の中に入り込む。杏実よりも少し体温の低い大きな掌が杏実の素肌を滑っていくたびに、その部分が熱くなっていく。いつの間にかブラの留め金が外れそのふくらみに颯人の巧みな愛撫が与えられると、杏実の唇から甘美な声が漏れだした。そしてその声をも飲み込むかのように、何度も颯人から深いキスを受けた。
すべてのことが初めてなのに、戸惑う暇さえ与えられず、颯人の愛情の渦に飲み込まれていく。
「……杏実……好きだよ」
時折、耳元でそうささやかれると、頭の中が真っ白になって颯人のこと以外見えなくなっていく。
いったい自分はどうなってしまうのだろう。
やがて颯人の手が次第に下に伸びようとした時、かすかに遠くの方でドアが開く音がし、叫び声が聞こえた。
「―――――……ゃーーん!」
その声にハッと我に返ったように、颯人が身体を起こした。
颯人はドアの方を見ると、チッと舌打ちをする。やがて杏実に向きなおって、赤く火照った杏実を見つめ、名残惜しそうに一度キスを落とすと、力の抜け切った様子杏実の身体を起こしにかかった。そして杏実の身なりを整えながら焦ったようにつぶやく。
「萌が来る!」
「………え!?」
颯人が乱れた杏実の髪を下に撫でつけた時、その言葉を証明するかのように、大きくドアが開く音と共に、萌がリビングに飛び込んできた。
「杏実ちゃん!!」
そしてその視線を部屋に巡らせ、颯人の隣にいた杏実をとらえる。そして杏実を見つけるなり、萌は今にも泣きそうに顔をゆがめ、駆け寄ってきた。
「杏実ちゃーん!! もう~なんでぇ~!!!」
そう言いながら萌は、展開の速さに戸惑う杏実に抱きつき、首に腕を巻きつけた。
「萌……ちゃん?」
「またいなくなっちゃったかと思ったよぉ~~~!!」
なるほど。そういう事だったのか……。
萌は目を覚まして杏実がいないことに気が付き、探しに来たらしい。
「大丈夫。いるよ」
「うん……うん……」
杏実の肩に顔をうずめ、そう言ってうなずく萌の不安を、少しでも和らげようと杏実は優しく萌の髪を撫でる。
そうする横で、颯人の不機嫌そうな舌打ちが聞こえた。その音にようやく颯人が杏実の隣にいたことに気が付いたのか、萌は杏実の肩から顔を上げた。
「あれぇ……颯人お兄ちゃんいたの?」
「……まあな」
「なんだぁ。お話してたんだぁ~」
お話?……そうだ。私……颯人さんに告白された!
両思いになったんだ……!?
しかしその後の親密な出来事も頭の中に呼び戻された。うれしい反面たまらなく恥ずかしい。萌に見られなくてよかった。
「あれ? 颯人お兄ちゃんなんか怒ってる?」
「……怒ってねーよ」
「うっそだぁ! なんでぇ~?」
「………怒ってねーって言ってんだろ」
颯人のかすかに苛立ちを含んだ言葉に萌は不思議そうに首を傾げ、改めて颯人と杏実を交互に見た。そして何を思ったか、大きくうなずきながら「あぁ~」とつぶやいた。
何を思いついたんだろう。まさか……
先ほどの出来事を勘づがれたとすれば、恥ずかしい。杏実は赤くなった顔を見られたくなくて、とっさに視線を下に向けた。
どうか萌が気づいていませんように。
しかしその期待はむなしく、萌の楽しそうな言葉が続く。
「わかっちゃったぁ~」
「……萌、お前」
「ま~た、いちゃついてたんでしょ?」
「!?」
その言葉に杏実は視線を下に固定しながらびくりと身体を揺らす。
「お前はすぐそういう事を……」
「萌に隠しても無駄です!……しかも今の微妙な空気で、萌には全部わかっちゃったんだからね」
「あのなぁ……」
「ちょっと颯人お兄ちゃんは黙ってて!」
萌はそういって颯人に人差し指を立てると、杏実に向き直り耳元で「杏実ちゃん、しょんぼりしないで。萌に任せて」とつぶやいた。
……しょんぼり? 何か奇妙な違和感を感じたが、未だ萌に悟られたという恥ずかしさから、顔を上げられずにいた。そしてその杏実のうつむいた動作が萌にどう取られていたかは、全く気が付かなかった。
ただ……なんだろう? 頭の隅に……―――――かすかに嫌な予感がした。
「杏実ちゃんは嘘つけないからさぁ、萌には、いつかこうなるんじゃないかって思ってました」
そう言って「うんうん」と萌は一人で何度かうなずいた後、颯人を振り返って目を細めて非難めいた視線を向けた。
「……まったくぅ。だからって杏実ちゃんに怒るなんて……一番やっちゃいけないことだよ?」
「はぁ?」
「男はプライドより愛情だよ」
「………さっきから何を……」
「だからぁ~認めなきゃいけないって言ってんの! 杏実ちゃんのためにも」
「……何を、だよ」
颯人のその言葉に、萌はわざとらしくため息をついてみせ、「これだから……駄目だなぁ~」とつぶやいた。
颯人はさらに怪訝そうに眉をひそめて、萌を見つめる。杏実もさすがに不思議に思って顔を上げると、颯人と視線が交差した。
“萌は何言ってるのか、わかるか?”そう言われているように感じた。
怒る? 認める? ―――――私の、ため?
心当たりはない。杏実はその意味を込めて首を振った。
「お前、さっきから何を言ってんだ?」
「もう! にぶいなぁ~。お兄ちゃんは下手だって言ってんの!」
「へた?」
「もう! キスが下手だって言ってんの! 下手なんだよ! 全然ダメなんだってば!!」
「……………は?」
颯人の呆然とした声とともに、杏実も驚いて萌を見つめた。
萌は何を言ってるんだろう???
そう思った後に、ハッとホテルでの出来事を思い出す。あの時動揺して、いったい何のことを言っていたのかわからなかったのだ。しかし……まさかその誤解が……まさか……
「そもそも男と女って感じるところが違うしさ、独りよがりになるのも仕方ないと思うんだよね。特にお兄ちゃんは顔がいいからぁ、いままで誤魔化せてた部分も多いとは思うし、気が付かなかったのもうなずけるよね。それにこういう事って相性もあるじゃん? だからお兄ちゃんだけが原因ってわけじゃないとは思うけどさぁ、杏実ちゃんの反応が悪いからって怒るなんて、一番しちゃいけないことだと思うわけぇ。正直な気持ちなんだし、仕方ないじゃん。下手なんだもん。そこを認められるか認められないかは、男の力量っていうかさぁ~……」
「もっ……萌ちゃん! さっきから何を言ってるの!?」
「いいのよぉ。こういう事は、今後のためにずばーと言ってやるのが優しさっていうかさぁ。努力したら上手くなっていくかもじゃん」
「ちがっ……そうじゃなくて……」
杏実が必死で否定しようと言葉を重ねた時、後ろからどす黒いオーラと共に地を這うように低い颯人の声が聞こえた。
「ほぉ~…………下手ね………」
その声に杏実はびくりと身体を震わす。さすがに萌も怖くなったのか、杏実の手をとっさにぎゅっと握りしめてきた。しかしそうしながらも、口を動かす。
「な……なによぉ! ほんとのこと言って怒るなんて、最高にかっこ悪いんだからね」
萌ちゃん~~~!!!
火に油を注ぐ言動に、さらに颯人の表情が歪む。
誤解を解かなくてはと思うが、どう言えばいいのかわからない。そう考えているうちに、事態は悪化していく。
「萌……てめぇ何の根拠をもって、そんなこと言ってんだ!」
「杏実ちゃんが言ってたもん。下手だって!」
え……? ええ~~~!! 言ってないよ!!!
「ちっ……違う! 言って……言ってない!! ごっ……ごかっ……誤解です!!!」
慌てて否定するが、萌が「ほんとだもん!」と、その言葉に重ねて颯人に言い放つ。
「……なる、ほど……」
口元を引きつらせながら、颯人はそうつぶやいて、床に落とした視線をゆっくりと杏実の方へ向けた。杏実はただ誤解を解きたくて、必死で顔を横に振る。
「違うんです。本当に……違うんです」
そう繰り返しつぶやくが、言い訳にしか聞こえない。案の定何の効果も見られず、颯人の黒く翳ったオーラ―が弱まった気配はなかった。
「杏実」
先ほどの優しい瞳と打って変わって鋭い視線を杏実に向けた颯人に、再びびくりと身体を揺らす。
怖い。声が……出ない!
「正直な意見もらったからには……存分に挽回の機会をいただかなくちゃな……」
「ひっ……」
言われた言動よりも、悪魔の制裁のような響きに思わず喉を引きつらせた。
なんで!!! 誤解なのに!!!
「今から……俺の部屋に来い。その生意気な口から可愛い声が出ねーくらいまで啼かせてやるよ……」
「は……はや……」
そう言って腕を伸ばした颯人だが、その手はむなしくも萌によって払い落とされた。
「駄目!」
その仕草にハッと萌の存在を思い出す。そもそも萌が落とした火種だったのだが、颯人の持つ雰囲気に圧倒され、すっかり忘れていた。
「萌~!!!お前は~~~!!!」
萌のおかげでこんな事態となったとはいえ、この修羅場に毅然と立ち向かう萌は頼もしく、助けてくれるのではないかというありえない希望を抱いてしまう。どうか……颯人の怒りを鎮めてくれれば……
「今日は萌が杏実ちゃん独占の日だから、颯人お兄ちゃんは後日」
「……は?」
「……え?」
場違いなほど悪びれもない口調で萌はそう言うと、杏実に腕を絡め、呆然とする杏実を引っ張りながらリビングのドアの方へと向かった。そして思い出したように振り向くと、同じくその事態を呆然と見つめる颯人に向かって言い放った。
「颯人お兄ちゃん、後で萌の恋愛バイブル貸してあげる。それで、いろいろ勉強してね!」
「………」
「さぁ、行こ~杏実ちゃん! 明日も休みだし、今日は寝かさないんだからぁ~」
そうして萌に引きずられるようにしてリビングを後にする。
“後日”
その意味する言葉に背中が凍るのを感じながら、悪びれもなく先導を取り仕切る萌を見つめた。
長い時を経て、やっと回り始めた二人の時間。騒がしくも温かい人たちに振り回され、見守られ、こうして颯人と歩んでいくのだ。すれ違って、歩み寄って、そうやってゆっくりと進んでいけたら良いと思う。
“ミルクティー”と蜂蜜が蕩けるように甘い彼の笑顔。
そんな颯人と過ごす幸せな時を、宝物のような毎日を大切にしていきたい。
そのためには、まずは今夜のうちに一刻も早く誤解を解く方法を考えなくては……。
杏実は決意を新たにし、ギュッとこぶしを握ると、その手に光る指輪が目に飛び込んできた。
この指輪は颯人の愛情そのものだ。そしてそのまっすぐに澄んだダイヤの輝きは、明るい未来を映し出してくれているような気がする。
杏実はその指輪をそっと両手で包み込む。そして、階段の手前で突然立ち止った杏実を不思議そうに見つめる萌に笑いかけると、ゆっくりとその未来に続く階段を登りはじめるのだった。
Fin
暁です。
100話ともなりましたが、蜂蜜とミルクティーはここで完結とさせていただきます。亀のような速度で進む杏実と颯人のストーリーを温かく見守ってくださり、本当にありがとうございました!
完結を迎えることができたのは、読んでくださっていた読者さんや励ましのメッセージをくれた方々のおかげです。
本当に感謝です!!
このお話が少しでも皆様の元気に貢献できていたら、なおうれしいです。(できてたかな?)
ここで杏実のストーリー終わりますが、次回は颯人サイドのストーリでお会いしましょう!
不定期でのろのろ更新になると思いますが、杏実との出会いや別の視点から見る蜂ミルもきっと楽しいと思います(初めに少しこのお話の続きなんかもあったりします)
よかったら読んでみてくださいね!
では、本日も皆様にとって良い日でありますように!!
ありがとうございました!!