クダンロード①
美浦のWコースを、2頭の馬が併せて駆けていた。
半馬身ほど後ろにつけていた栗毛に、鞍上が合図を送る。
次の瞬間、脚の回転が一段上がった。先行馬との差をたちまち詰め、並んだと思ったときには、もう前へ出ている。
クダンロード。4歳牡馬。美浦・木場厩舎所属で、主戦は中野竜也騎手。父クリムゾンロード、母ウインドベル。
去年のラジオNIKKEI賞に続き、今年はAJCCを勝った。今の九段レーシングを代表する1頭だ。
春もGⅠ戦線を走り、夏の休養を挟んで秋初戦にオールカマーを使った。そして次は、下半期最大の目標である天皇賞(秋)。
この馬を買った頃は、九段レーシングの社長はまだ爺ちゃんだった。
ただ、買って欲しいと勧めたのは俺だった。
落札価格は1900万円。
セリで初めて見たとき、クダンロードの瞳にはクダンアイズと同じくらい強い輝きがあった。
クダンアイズのあとも、爺ちゃんには何度かセリへ連れていってもらった。
そのたびに同じくらい輝いて見える馬を何頭か勧めたけれど、その中で実際に買ったのはこのクダンロードだけだった。
他は予算が足りないからと見送り。
あの馬たちも買っていたら、今頃どうなっていたんだろう。
答えはわからない。
ただ、クダンロードが重賞を勝つたびに、あのとき俺が見た輝きは間違いではなかったのだと思える。
水曜日の朝7時。
そんなクダンロードの1週前追い切りを見るため、俺は彩夏さんと美浦トレーニング・センターに来ていた。
普段から美浦には月に1、2回、栗東にも2か月に1度くらいは顔を出している。今月はいつもより美浦へ来る回数が増えていた。
クダンロードの追い切りが終わっても、木場先生は双眼鏡を覗いたままだった。
俺も彩夏さんも声をかけず、見終わるのを待つ。
しばらくして、木場先生が双眼鏡を下ろし、こちらに気づいた。
「おはようございます。熱心ですね」
「GⅠですからね。俺に何ができるわけでもないですけど、つい見に来ちゃいます」
「調教は順調です。思ったとおりに仕上がってきています」
「それは楽しみですね」
「後でロードに会ってあげてください。人参もいいですよ。ただし1本だけにしてください」
「1本だけですか」
「1本だけです」
そこは馬主の権限でも増やせないらしい。
先週も顔を出し、他の所有馬については話を聞いたばかりだ。改めて長い打ち合わせをすることもなく、俺たちは木場先生に礼を言ってスタンドを離れた。
◇◇◇
しばらく時間を潰してから、彩夏さんと木場厩舎へ向かった。
クダンロードは調教後に体を洗ってもらい、厩務員の中山さんに脚元を確かめてもらっているところだった。
「お疲れさまです」
「九段さん。見てました?」
「もちろん。よかったですよね?」
「ええ。順調ですよ」
中山さんに断ってから、人参を差し出す。クダンロードは迷わずかじりついた。
「今日は1本だけだからな。味わって食べろよ」
「あっという間に。かわいいですね」
彩夏さん、馬には優しいんだよなあ。
くだらないことを考えていると、後ろから声がした。
「おはようございます」
振り向くと、馬を曳いた陽菜ちゃんがこちらへ歩いてきた。
木場先生の娘で、木場厩舎の厩務員。24歳。短い髪がよく似合う、いかにも活発そうな美人である。
実を言えば、俺は木場厩舎へ来るたび、彼女に会えることを楽しみにしていた。
「おはよう。陽菜ちゃん」
「陸さんも彩夏さんも熱心ですね」
「そりゃGⅠだからね。熱も入るさ」
陽菜ちゃんはクダンロードへ目を向けた。
「ロード、先週より具合良さそうですね」
「わかる?」
「毎朝見てれば、それくらいは」
俺の目には、先週も今日もクダンロードの瞳は同じように強く輝いて見える。
「今朝も走り終わってから余裕がありましたよ」
「やっぱり毎日見てる人は違うな」
「担当じゃないですけど、同じ厩舎ですからね」
そのままクダンロードや厩舎のことをあれこれ話していると、中山さんがクダンロードの首を撫でながら言った。
「お前も可哀想な奴だよな。応援に来てもらってると思ったら、陽菜ちゃんに会う口実にされてるんだもんな」
クダンロードの反対側では、彩夏さんまで同じように首を撫でている。
「ホント可哀想」
「ちょっと、中山さん、彩夏さん。何言ってるんですか」
彩夏さんが俺を見る。
「そんなに陽菜さんと喋りたいなら、このあとランチにでも誘ったらどうですか?」
それもいいな。
「いいね。陽菜ちゃん、このあと時間ある?中山さんも彩夏さんも一緒にどう?」
「午前の仕事が終われば大丈夫ですよ」
「俺はまだ仕事があるんで。それに、人の恋路を邪魔して馬に蹴られたくないですからね」
「私は会社に戻ります。お二人でどうぞ」
「え、そうなの?じゃあ陽菜ちゃん、二人で行く?」
「え?は、はい」
誘ったときは4人のつもりだった。
でも、気づけば陽菜ちゃんと二人きりになっていた。
なんて言えば良いんだろう?棚からぼた餅?
こうして、クダンロードの1週前追い切りを見に来たはずの俺に、思いがけない予定が1つ増えた。




