セリ
日高の1歳馬セール会場は、朝から人と馬でごった返していた。
馬を曳く牧場関係者。その周りで馬体を見る調教師や馬主たち。
俺は彩夏さんと会場に入り、先に来ていた木場先生と合流した。
「木場先生、本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、陸さん。社長就任、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
木場健太郎調教師。現役時代のクダンアイズを預かっていた人で、木場厩舎は今でも九段レーシングの主要な預託先だ。
俺が高校生だった頃から何度も顔を合わせているけれど、今日は仕事。
こういう挨拶はちゃんとしておく。
今日は、俺が社長として初めて馬を買う日だった。
「木場先生。事前にもお話ししましたけど、今回は俺の目を信じて選ばせてください」
木場先生は少し考えてから頷いた。
「わかりました。最終的に決めるのは陸さんです」
一度、言葉を切る。
「ただ、馬体について気になるところがあれば、私は遠慮なく言いますよ」
「もちろんです」
「本当に目を見るだけなんですか?」
彩夏さんが割り込んできた。
「そうだけど」
「……クダンアイズも?」
「そう」
「未だに信じられないんですよね。アイちゃんがそんな風に見出されたなんて」
アイちゃん。
クダンアイズのことだ。
彩夏さんは筋金入りのクダンアイズファンらしい。
俺の目については納得していないみたいだけど、そのうち結果でわかってもらえるだろう。
◇◇◇
まずは比較展示だ。
上場番号順に数十頭ずつ馬が出てくる。ここで気になる馬に目星をつけ、あとで個別の馬房を訪ねる。そして最後にセリ。
俺の場合、この比較展示が一番重要だった。
馬の瞳を見る。
輝きには細かな差がある。俺は比べやすいよう、勝手にS、A、B、Cの4段階に分けていた。
クダンアイズやクダンロード級がS。その次がA。
狙うのは、その2つ。
「19番、A。31番もA。37番は……S」
「ちょっと待ってください、速いです」
彩夏さんが慌ててメモを取る。
俺には、1頭を見るのに数秒もあれば十分だった。
木場先生は俺が挙げた番号と手元の資料を見比べている。
「私が下見で気になった馬も、何頭か入っていますね」
「そうなんですか?」
「ええ」
木場先生はそれだけ言って、もう一度資料へ目を落とした。
比較展示を一通り見終え、候補を絞る。
Sと判定した馬は全部で2頭いた。
ただ、予算内で現実的に狙えそうなのは、母ムーンライトの仔だけだった。
「37番はセールの目玉です。スタート価格が4000万円ですし、かなり競りそうです。うちでは厳しいですね」
「絶対に走るのにな。恨めしい」
瞳の輝きは文句なしのS判定だった。
でも、今年の購入予算は4000万円。スタート価格だけで全部吹き飛ぶ。
高すぎる馬はどうしようもない。
A判定馬も同じように、予算に収まりそうな馬だけを残していった。
◇◇◇
候補に残した馬たちを確認するため、木場先生たちと個別馬房を回った。
母ムーンライトの仔を見ると、木場先生は脚や体を順番に確かめる。
「今のところ、大きく気になるところはありません。馬体もこの中ではいい方だと思います」
それなら問題なさそうだ。
一方、俺がAと判断した5頭のうち、2頭には待ったがかかった。
「これは脚元が少し気になりますね」
「買わない方がいいですか?」
「私なら避けます」
「じゃあ、やめましょう」
もう1頭も、歩かせたところで木場先生が首を傾げた。
「こちらも、私はあまり勧めません」
それなら外す。
説明は聞いた。ただ、理由まで覚える必要があるとは思っていなかった。
木場先生が避けた方がいいと言うなら、避ければいい。
まだA判定馬は他にいる。
◇◇◇
そして、セリが始まった。
最初のA判定は700万円で落札。
次のA判定も1100万円で買えた。
2頭で1800万円。
順調だ。
問題は3頭目だった。
「600万円!」
「800万円!」
「900万円!」
「1000万円!」
さらに手を上げようとしたところで、彩夏さんに止められた。
「社長、もう降りましょう」
「まだ1000万円ですよ?」
「本命が残っています。そっちがいくらまで上がるかわからないでしょう」
「でも、この馬も走る……」
「社長。予算は4000万円です」
すでに1800万円使っている。
ここでさらに値を上げれば、残りは1200万円を切る。
「……わかったよ」
上げかけた手を下ろした。
欲しい馬がいるのに買えない。
馬主というのは、意外と面倒だ。
そして最後に、本命の母ムーンライトの仔がセリに出た。
値段は上がったが――。
「1200万円!」
そこで止まった。
落札。
A判定を2頭。
俺たちに手が届く唯一のS判定馬、ムーンライトの仔も手に入った。
合計3000万円。予算も1000万円余った。
馬主って、思っていたよりチョロいな。




