九段レーシング
クダンアイズが天皇賞(春)を勝ってから、5年が経った。
大学を卒業し、九段商事へ入社。地方営業所で法人営業を3年。
そして先日、父さんが急死した。
葬儀を終えて間もない頃、俺と2人の兄は爺ちゃんに呼び出された。
九段商事ホールディングス本社の社長室。
俺たち3人を前にして、爺ちゃんはいきなり言った。
「わしは社長を退く」
爺ちゃんは79歳だ。いつかその日は来ると思っていた。
ただ、父さんが亡くなってすぐだとは思わなかった。
「大司、お前がホールディングスを継げ。全体を見るんだ」
「わかりました」
「智也、お前は九段商事を継げ。グループの中核だ。頼んだぞ」
「はい」
そして爺ちゃんが俺を見た。
「……俺は?」
「お前には九段レーシングを継いでもらおう。しっかりやるんだ」
「九段レーシング?」
「そうだ」
もちろん知っている。
九段家が中央競馬で馬主をするための会社だ。
知っているんだけど。
「……社員、何人だっけ?」
「1人だ。しっかりやるんだぞ」
2回言われた。
しっかりやれ、と。
九段商事ホールディングス。
グループ全体で従業員約1500人。
その社長になるのが大司兄さん。
グループ最大の事業会社である九段商事を任されるのが智也兄さん。
そして俺。
社員1人。
……差が酷くないか?
とはいえ、大司兄さんはすでにホールディングスの取締役としてグループ経営に関わっていた。
智也兄さんも、九段商事で仕入から営業まで経験して役員になっている。
一方の俺は地方営業所で3年。役職もない普通の営業社員だった。
兄さんたちのようにはできないと思って、何かと楽な方へ逃げてきた。
爺ちゃんも両親も、俺には甘かった。
自分で蒔いた種。だから人事そのものに文句はない。
……社員1人という数字には、ちょっとだけ言いたいことがあるけど。
ただ、九段レーシングというのは悪くない。
中央競馬の馬主会社で、毎年数頭の馬を購入し、所有馬は10頭前後だったはずだ。
そして競馬に関して、誰にもない俺だけの武器がある。
馬の瞳を見れば、その馬の強さが、俺にはわかる。
クダンアイズは天皇賞馬になった。
俺が勧め、爺ちゃんが買ってくれたもう1頭、クダンロードも今では重賞馬だ。
要するに、2頭とも結果を出した。
会社経営で兄さんたちにかなう気はしない。
でも、競馬なら話は違う。
むしろ俺が九段レーシングを継ぐのは、正解なんじゃないか?
「爺ちゃん」
「なんだ」
「俺が買う馬を決めてもいいんだよね?」
「社長になるんだからな。ただし、調教師や牧場の話はちゃんと聞け」
「わかってるよ」
話は聞く。
でも、強いかどうかだけなら、俺の方がわかる。
◇◇◇
社長室を出た俺は、エレベーターで4Fへ移動した。
九段レーシングの事務所は、同じビルの一角にある。
社長として初めて入ったそこは、パーティションで区切られた、こぢんまりとした空間だった。
応接スペースが1つ。執務スペースが1つ。
そして人間が1人。
長い髪の女性が席を立った。整った顔立ちだが、目つきは少し強い。
「飯田彩夏です。改めまして、よろしくお願いします、社長」
「……本当に1人なんだ」
「私が聞くのもなんですが、この広さで何人いると思っていたんですか?」
「ごめんなさい」
社長としての初仕事は、社員への謝罪だった。
「では社長、早速ですが、こちらをご確認ください」
彩夏さんが机に資料を並べた。
所有馬一覧。
預託先一覧。
予算資料。
そして、セールカタログ。
俺の手は、迷わず最後の1冊へ伸びた。
「今年も夏のセールで2、3頭購入する予定です。予算は4000万円です」
ページをめくる。
「木場先生や稲田先生などにも、現地で馬を見てもらう予定です」
「へえ」
血統表。
生産牧場。
母馬の戦績。
種牡馬の実績。
色々書いてある。
正直、よくわからない。
競馬は好きだし、馬だって何度も見てきた。
でも、血統表から何かを語れるほどの知識はない。
――まあ、問題ない。
馬の目を見ればいい。
クダンアイズも、クダンロードも、それで見つけた。
俺はセールカタログを閉じた。
次は、爺ちゃんに頼む必要はない。
これからは俺が、俺の馬を選ぶ番だ。




