クダンムーン④
桜の季節になった。
桜花賞を1週間後に控えた美浦トレセン。
俺は彩夏さんと、クダンムーンの1週前追い切りを見に来ていた。
追い切りを終えたクダンムーンが戻ってくる。
俺には、いつもどおり順調に見えた。
「木場先生」
声をかけると、木場先生が手を上げた。
「すみません。少し後でお願いします」
そう言って、中野騎手のもとへ向かっていく。
2人はその場で話し始めた。
「木場厩舎で、調教助手じゃなくて騎手が追い切りに乗るのって珍しいですよね」
彩夏さんが言った。
◇◇◇
しばらくして、木場厩舎へ呼ばれた。
木場先生のほかに、中野騎手と陽菜ちゃんもいる。
何の話だ?
「陸さん。桜花賞は回避したいと思います」
「え?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「獣医にも診てもらいました。今のところ脚元にも異常はありません。出走できない状態というわけでもないんです」
「じゃあ、どうして?」
「飼い葉食いが落ちています。デビューからここまで休まず使ってきましたし、私は一度休ませる方がいいと思います」
陽菜ちゃんが頷いた。
中野騎手は黙っている。
「将来がある馬です。ここで無理をさせず、いったん休ませたいと思います。幸いチューリップ賞で収得賞金も加算できました。秋華賞に向けて立て直すこともできます」
「ちょっと待ってください。具体的にどんな状態なんです?」
俺は中野騎手を見た。
「動きそのものは悪くありません。前走くらいは走れると思います。ただ、最後の反応がいつもより少し鈍い気はしました」
走れる。
「だったら、回避なんてもったいないですよ。前走、あれだけ大きな不利があっても2着だったんです。まともに走れていれば、クレールドールと勝ち負けしていたはずです」
「……それはそうなんですが……」
木場先生が苦い表情をする。
「中野騎手から見ても、走れない状態ではないんですよね?」
「走れないとは思いません。ただ、万全とは言えません」
「でも、カイ食いが悪くて、目に見えない疲れが溜まっている気がするんです。陸……オーナー」
陽菜ちゃんが俺を見る。
いつもの溌剌さはなく、目には必死さが浮かんでいた。
わかっている。
木場先生も、陽菜ちゃんも、クダンムーンのことを考えて言っている。
でも。
桜花賞に挑めるのは、一生に一度しかない。
クダンムーンはS判定だ。
前走だって、あれだけの不利を受けながら2着まで来た。
しかも去年のセリでは、S判定の馬を1頭も買えなかった。
次にこんな馬を持てるのが、いつになるかもわからない。
「オーナーとしてお願いします。出走できるのであれば、出走していただきたい」
「……私としては、回避した方がいいと思っています」
「それでも、お願いします」
木場先生は俺を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて頷く。
「わかりました。出す以上は、できる限りの状態に整えます」
「お願いします」
これで桜花賞に出られる。
そう思った。
◇◇◇
そして、桜花賞当日。
パドックには18頭の3歳牝馬が並んでいた。
その中でも、クレールドールとクダンムーンの瞳の輝きは抜けている。
やっぱり勝つのはこの2頭のどちらかだ。
ただ、1つだけ気になった。
クダンムーンの馬体重は、前走からマイナス8kg。
チューリップ賞に続いて、また美浦から阪神競馬場まで運ばれてきた。
2度の長距離輸送がこたえたのかもしれない。
でも、大丈夫だ。
瞳の輝きは変わっていない。
大丈夫。
◇◇◇
クダンムーンは好スタートを切った。
中野騎手が無理をさせず、3番手につける。
そのまま流れに乗って4コーナー。
手応えは良さそうだ。
クダンムーンが2番手へ上がる。
「よし!」
ここからだ。
直線。
中野騎手が追い出した。
だが。
クダンムーンが伸びない。
「え?」
後ろから1頭にかわされた。
さらにもう1頭。
「ムーン!」
次の瞬間、中野騎手が追うのをやめた。
「なんで――」
クダンムーンの速度が落ちていく。
馬群から離されていった。
競走中止。
馬主席から馬場を見る。
クダンムーンの周りに関係者が集まり始めていた。
その中に木場先生と陽菜ちゃんの姿もある。
俺は席を飛び出した。
◇◇◇
どうやってそこまで降りたのか、よく覚えていない。
クダンムーンのところへ着いたときには、馬運車が待っていた。
陽菜ちゃんが手綱を持っている。
俺は何も言えなかった。
陽菜ちゃんに曳かれ、クダンムーンが馬運車へ乗り込もうとする。
その直前、クダンムーンがこちらを向いた。
目が合った。
その瞳には、輝きがなかった。




