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第八話 巡る一杯

 金曜日の午後三時。


 喫茶こもれびの扉が開き、灰色の帽子をかぶった野口が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 高瀬ひよりが声をかける。


「いつもの、もらえるか」


「はい。ブレンドコーヒーですね」


 野口はカウンターの端にある席へ腰を下ろした。


 毎週金曜日の同じ時刻。


 同じ席に座り、同じコーヒーを飲む。


 そして帰りには、必ず二杯分の代金を支払う。


 アルバイトを始めたばかりの頃、ひよりはその行動を不思議に思っていた。


 しかし現在は、二杯目がどこへ行くのか知っている。


 野口が支払った一杯は、小さな木札となってカウンターの奥に残される。


 そして、温かいコーヒーを必要とする誰かが店へ来たとき、その一杯が渡される。


「お待たせしました」


 義雄が淹れたブレンドコーヒーを、ひよりが野口の前へ運んだ。


「ありがとう」


 野口は新聞を広げ、いつものようにゆっくりとコーヒーを飲み始めた。


 店内には、穏やかな時間が流れている。


 そのとき、扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、二十代半ばほどの男性だった。


 紺色の作業着を着て、髪も短く整えられている。


 男性は店内を見回したあと、カウンターにいるひよりへ目を向けた。


「あの……」


「はい」


「前に、一度ここへ来たことがあるんですけど」


 ひよりは男性の顔を見つめた。


 すぐには思い出せなかった。


 しかし、男性が背負っている大きなリュックサックには見覚えがある。


「もしかして……預けられたコーヒーを飲まれた方ですか?」


「覚えてくれてたんですね」


 男性は少し照れくさそうに笑った。


 二か月ほど前。


 色あせたパーカーを着たこの男性は、メニューの値段を確認したあと、何も注文せずに店を出ようとした。


 そのとき義雄は、木札を一枚戻し、男性へ一杯のコーヒーを出した。


「雰囲気が変わってたので、すぐには分かりませんでした」


「あのあと、仕事が決まったんです」


「そうなんですか?」


「はい。寝屋川市内にある会社で、倉庫の仕事をしています」


 男性は、自分の作業着へ目を落とした。


「今日、初めての給料が入ったので、ここへ来ようと思って」


「よかったですね」


「ありがとうございます。あのとき、コーヒーを出してもらえなかったら、次の日の面接も行かずに諦めてたかもしれません」


「私は運んだだけです」


「それでも、ありがとうございました」


 男性は深く頭を下げた。


「お名前を聞いてもいいですか?」


「山本直樹です」


「山本さんですね。今日は何にしますか?」


「ブレンドコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 直樹は窓際の席へ座った。


 その様子を、野口が新聞越しに見ていた。


 ひよりは義雄が淹れたコーヒーを、直樹のもとへ運ぶ。


「お待たせしました」


 直樹は両手でカップを包み込むように持ち、ゆっくりと口をつけた。


「同じ味や……」


 小さなつぶやきが聞こえる。


 二か月前に飲んだ一杯と、今日の一杯。


 生活も服装も表情も変わったが、義雄が淹れるコーヒーの味は変わっていない。


 直樹は、今度は最後まで顔を上げたままコーヒーを飲んだ。


 会計のため、千円札をカウンターへ置く。


「ブレンド一杯で、五百円です」


 ひよりはレジを開け、五百円玉を取り出した。


「お釣りは大丈夫です」


「え?」


「二杯分でお願いします」


 以前、野口から同じ言葉を聞いたときと同じように、ひよりは直樹を見つめた。


「でも、山本さんが飲んだのは一杯ですよ」


「もう一杯は、預けておいてください」


「前の分を返そうとしてるんですか?」


「返すんやないです」


 直樹は、カウンターの奥に並んだ木札を見る。


「僕が飲んだ一杯は、僕に預けてくれたものです。せやから、この一杯は、その人に返すんやなくて、次に必要とする人へ渡したいんです」


「でも、無理をしなくても……」


「初めての給料で何を買おうか、ずっと考えてたんです」


 直樹は笑った。


「一番最初に買いたかったのが、ここに預けるコーヒーでした」


 義雄は何も言わず、千円札を受け取った。


 カウンターの奥へ手を伸ばし、木札を一枚裏返す。


 小さなコーヒーカップの絵が現れた。


「これで、ええか?」


「はい。ありがとうございます」


 直樹は満足そうにうなずいた。


「また来ます」


「今度は、普通にコーヒーを飲みに来てくださいね」


「もちろんです」


 扉のベルが鳴る。


 直樹は商店街の中へ歩いていった。


 その背中を見送り、ひよりは裏返された木札へ目を向ける。


 かつて誰かの一杯を受け取った人が、今度は知らない誰かのために一杯を残していった。


「ええ顔になったな」


 背後から、野口の声が聞こえた。


 ひよりが振り返る。


「山本さんのこと、覚えてたんですか?」


「前に一度見ただけやけどな。あの兄ちゃんが、俺の預けた一杯を飲んだんか?」


「それは分かりません」


「分からん?」


「木札には、誰が支払った一杯か書いてませんから」


 野口は、カウンターの奥に並んだ木札を見る。


「そうやったな」


「でも、野口さんの一杯だったかもしれません」


「俺の一杯やなくても、別にええ」


 野口は残っていたコーヒーを飲み干した。


 いつものように千円札をカウンターへ置く。


「二杯分や」


「今日もですか?」


「毎週してることやろ」


 義雄が千円札を受け取り、もう一枚の木札を裏返した。


 直樹が預けた一杯。


 野口が預けた一杯。


 二枚の木札が並ぶ。


 どちらが誰のものなのか、見た目では区別できない。


「野口さん」


「なんや?」


「今日は、聞いてもいいですか?」


「何をや」


「どうして、毎週コーヒーを一杯預けてるんですか?」


 野口は帽子をかぶり直した。


「前にも聞かれたな」


「そのときは、義雄さんたちに止められました」


「ほんなら、今日も聞かんでええやろ」


「山本さんを見て、野口さんも嬉しそうだったから」


「別に、嬉しそうにはしてへん」


「してました」


「してへん」


「義雄さんと同じで、素直やないですね」


「何で俺まで一緒にされるねん」


 義雄が不満そうに言う。


 野口は小さく笑ったあと、扉へ向かいかけた。


 しかし途中で足を止め、壁に飾られた四十年前の写真を見上げる。


「あれは、三十五年くらい前やったかな」


 野口が静かに話し始めた。


「勤めてた会社が、急に潰れたんや」


 給料は一部しか支払われず、会社の寮からも出なければならなかった。


 野口は鞄一つを持ち、寝屋川市駅周辺を歩き回って仕事を探した。


 しかし、何のあてもない。


 面接を受けても断られ、財布の中身も残りわずかになっていた。


「その日は朝から雨でな。寒かったから、ここに入ったんや」


 当時の喫茶こもれびは、開店してまだ五年ほどだった。


 現在よりも新しいテーブル。


 色あせていない看板。


 若い義雄と千鶴。


 店へ入った野口は、メニューを開いたものの、財布の中身を確認して何も注文できなかった。


『すみません。やっぱり、ええです』


 水だけを飲み、店を出ようとした。


 そのとき、義雄が呼び止めた。


『兄ちゃん』


『何ですか?』


『コーヒーが一杯、預けてあるで』


『預けてある?』


『先に代金を払った客がおる。飲む人は誰でもええって』


 義雄はそう言い、野口の前へ一杯のコーヒーを置いた。


「名前も知らん誰かが、俺のために一杯残してくれてた」


 野口は当時を思い出すように目を細めた。


「腹が膨れるわけでもない。仕事が見つかるわけでもない。ただのコーヒー一杯や。それでも、あのときは温かいもんを飲めただけで、もう一日だけ頑張ってみようと思えた」


 その場にいた常連客が野口の事情を聞き、知り合いの会社を紹介してくれた。


 面接を受け、無事に採用された。


 野口はその仕事を続け、少しずつ生活を立て直した。


「最初の給料が入った日に、ここへ戻ってきた」


『この前のコーヒー代、返しに来ました』


 野口が代金を置くと、義雄は受け取らなかった。


『俺に返す金ちゃう』


『ほんなら、払ってくれた人に返してくれ』


『名前を聞いてへん』


『誰が払ったか分からんのか?』


『本人が名乗らんかったからな』


 野口はしばらく考え、千円札をカウンターへ置いた。


『ほんなら、コーヒー一杯もらう。残りは、次に困ってる人へ渡してくれ』


 それが、野口が初めて預けた一杯だった。


「誰に助けてもらったか、今も分からへん」


「探さなかったんですか?」


「最初の頃は探そうとした。でも、名前も顔も分からん人を見つけられるわけないやろ」


「そうですね……」


「せやから、探すんをやめた」


 野口は裏返された木札を見る。


「誰に助けてもらったか分からへん。ほんなら、誰を助けるかも決めんでええと思ったんや」


 その言葉は、以前ひよりたちが考えていたとおりだった。


 野口は恩を返す相手を探す代わりに、次の誰かへ一杯を渡し続けてきた。


 そして今日、その一杯を受け取った直樹が、さらに次の誰かへ一杯を残した。


「山本さんも、同じことをしてましたね」


「あの兄ちゃんの一杯も、そのうち誰かが飲む。そいつも生活が落ち着いたら、また一杯預けるかもしれん」


「ずっと続いていくんですね」


「続けるかどうかは、受け取った人が決めたらええ。無理に返すもんやないからな」


 野口は扉へ向かう。


「ほな、また来週」


「来週も二杯分ですか?」


「一杯しか飲まへんけどな」


 いつもの言葉を残し、野口は店を出ていった。


 扉のベルが鳴り、その背中が商店街の中へ消えていく。


 ひよりは、二枚の木札を見つめていた。


「いい話ですね」


 千鶴が、静かに笑う。


「そうやね」


「野口さんを助けた人、今もどこかにいるんでしょうか」


 千鶴の笑顔が、少しだけ変わった。


「おらんよ」


「え?」


「野口さんのコーヒーを先に払った人なんか、最初からおらんかった」


 ひよりは千鶴を見つめた。


「どういうことですか?」


「あの頃は、コーヒーを預ける仕組みなんかなかったんよ」


「でも、義雄さんは誰かが払ったって……」


「この人が勝手に淹れたんや」


 千鶴は、カウンターの中にいる義雄を見る。


「野口さんがお金を持ってへんことに気づいて、ただで出した。でも、ただやと言ったら、野口さんは受け取らへんと思ったんやろね」


 ひよりも義雄を見る。


「義雄さんだったんですか?」


「昔の話や」


 義雄は表情を変えず、野口が使ったカップを洗っている。


「野口さんは、三十五年間ずっと、知らない誰かに助けてもらったと思ってるんですよ」


「そうやな」


「本当のこと、言わないんですか?」


「言う必要ない」


「でも、野口さんは義雄さんにお礼を言いたいと思います」


 義雄は洗い終わったカップを布巾で拭き、棚へ戻した。


「俺に返されたら、そこで終わりやろ」


 ひよりは言葉を失った。


 義雄が名乗れば、野口は義雄へ恩を返す。


 それで三十五年前の一杯は終わる。


 しかし義雄が名乗らなかったことで、野口は知らない誰かへ一杯を渡し続けた。


 その一杯に救われた人が、また次の一杯を預けていく。


「最初の木札を作ったのは、野口さんが二杯分を払ったあとなんですか?」


「ああ」


 義雄が答える。


「あいつが余分に置いていった金を、普通にレジへ入れたら忘れるかもしれんからな」


「じゃあ、この仕組みを始めたのは義雄さんですね」


「最初に金を置いていったんは野口や」


「でも、義雄さんが嘘をつかなかったら、始まってませんでした」


「どっちでもええ」


 義雄はそれ以上話すつもりがないように、新しいコーヒー豆を用意し始めた。


 カウンターの奥には、二枚の木札が並んでいる。


 一枚は野口が預けたもの。


 もう一枚は直樹が預けたもの。


 しかし、どちらが誰の一杯なのかは分からない。


「義雄さん」


「なんや」


「どっちが野口さんの木札ですか?」


「忘れた」


「さっき裏返したばかりですよ」


「誰の一杯か分からん方がええやろ」


 義雄はそう言い、店の入口へ目を向けた。


 いつか、この一杯を必要とする誰かが扉を開ける。


 その人は、野口の名前も直樹の名前も知らない。


 二人も、自分の一杯を誰が飲んだのか知ることはない。


 それでも、コーヒーは確かに誰かへ届く。


 三十五年前、義雄の優しい嘘から始まった一杯。


 その一杯は人から人へ渡り、今も喫茶こもれびの中を静かに巡り続けていた。

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