第七話 写真に写らない常連客
喫茶こもれびが開店四十周年を迎えてから、一週間が過ぎた。
常連客から贈られた花は少しずつ減っていたが、店内の壁には、千鶴が飾った写真がそのまま残されている。
開店当時の店内。
若い頃の義雄と千鶴。
店の前で撮られた集合写真。
クリスマス会や、商店街の催しに参加したときの写真。
長い年月の間に撮影された数十枚の写真が、喫茶こもれびの四十年間を伝えていた。
「千鶴さん、これ、いつ頃の写真ですか?」
高瀬ひよりは、壁に飾られた一枚を指さした。
現在よりも少し新しい看板を掲げた店の前で、義雄と千鶴、十人ほどの常連客が並んでいる。
「それは二十周年のときやね」
「二十年前ですか」
「ひよりちゃんが生まれる少し前やな」
「義雄さん、今と全然変わりませんね」
ひよりが写真を見ながら言うと、カウンターの中にいた義雄が顔を上げた。
「変わってるやろ」
「髪が少し黒いくらいです」
「十分変わってる」
「千鶴さんは若いですね」
「義雄さんは?」
「今と同じです」
「何で千鶴だけ若いねん」
「冗談ですよ」
ひよりが笑うと、義雄は呆れたようにコーヒー豆の確認へ戻った。
その日の午後。
一人の老人が喫茶こもれびへ入ってきた。
「いらっしゃい、田村さん」
千鶴が声をかける。
田村正一。
七十四歳になる、喫茶こもれびの古い常連客だ。
白髪をきれいに後ろへ流し、左腕には使い込まれた銀色の腕時計を着けている。
「いつもの席、空いてる?」
「空いてるよ」
田村はカウンターの端へ座ると、ブレンドコーヒーを注文した。
しばらくして、壁に飾られた写真へ目を向ける。
「まだ飾ってるんやな」
「せっかくやから、もう少し飾っとこうと思って」
千鶴が答える。
田村はコーヒーを片手に、懐かしそうに写真を眺め始めた。
「この写真、二十周年のときか」
「そうみたいですね」
ひよりが答える。
「あの日は、朝から大変やったな。常連が次々来て、店の外まで待ってる人がおった」
「そんなに忙しかったんですか?」
「義雄がコーヒーを淹れても淹れても間に合わへん。千鶴さんなんか、途中で注文を一つ忘れてたやろ」
「よう覚えてるね」
千鶴が笑う。
「忘れられたん、俺の卵サンドやからな」
「それは覚えてるわ」
田村は隣に飾られた写真を指さした。
「こっちは十周年のときや」
店内には、紙で作られた輪飾りが飾られている。
若い義雄がカウンターの中に立ち、千鶴と常連客たちが笑顔で並んでいた。
「この写真を撮ったあと、急に雨が降ってきてな。外に洗濯物を干してた人が、みんな慌てて帰ったんや」
「写真だけで、そこまで覚えてるんですか?」
「その場におったからな」
田村は当然のように答えた。
ひよりは、写真に写っている人々の顔を一人ずつ確認した。
若い義雄。
千鶴。
現在も店へ通っている常連客。
しかし、その中に田村の姿はない。
「田村さんは、どこに写ってるんですか?」
「俺?」
「その場にいたんですよね?」
「おったよ」
「でも、見当たりません」
「端の方ちゃうか」
田村は適当に答え、コーヒーへ口をつけた。
ひよりは、さらに別の写真を見る。
商店街の夏祭り。
店内で行われたクリスマス会。
常連客の誕生日を祝っている写真。
田村はそれぞれの写真について、誰が何を話していたか、どのような出来事があったかを細かく覚えていた。
それなのに、どの写真にも田村の姿はなかった。
「おかしい……」
ひよりがつぶやく。
「何がおかしいんや?」
「田村さん、四十年前からこの店に通ってるんですよね?」
「ああ。開店した年から来てる」
「ほんなら、どうして一枚も写真に写ってないんですか?」
「たまたまやろ」
「何十枚もあるんですよ。一回くらい写っててもおかしくないです」
「写真が苦手やったんちゃうか」
「自分のことでしょ」
「昔のことやから忘れた」
田村は笑ってごまかした。
ひよりが千鶴を見ると、千鶴も楽しそうに笑っている。
「千鶴さん、理由を知ってますよね?」
「どうやろね」
「絶対知ってる顔してます」
「ひよりちゃんが自分で考えたらええんちゃう?」
「またそれですか」
ひよりは写真へ向き直った。
田村は確かに、その場にいた。
写真に写っている人々の服装や、撮影した日の天気まで覚えている。
それなのに、どの写真にも姿がない。
「実は田村さん、この店の常連やなかったとか」
「何で俺が、四十年も常連のふりせなあかんねん」
「写真を見て、話を作ってるとか」
「そんな暇ちゃうわ」
「でも、写真に写ってないのは事実ですよ」
「写らん人間もおる」
「田村さん、幽霊なんですか?」
「昼間からコーヒー飲む幽霊がおるか」
「幽霊もコーヒーくらい飲むかもしれませんよ」
「代金払ってくれるなら、幽霊でもええ」
義雄がカウンターの中から口を挟む。
「義雄さんまで話をややこしくせんといてください」
田村は楽しそうに笑いながら、コーヒーを飲み続けた。
彼が帰ったあとも、ひよりは写真を一枚ずつ調べていた。
「まだ見てるんか」
義雄が尋ねる。
「気になるんです」
「写ってへんもんは、しゃあないやろ」
「でも、理由があるはずです」
写真の多くは、同じくらいの高さから撮影されている。
集合写真でも、誰かが撮影者のために場所を空けている様子はない。
ひよりは、店の前で撮られた一枚を手に取った。
ガラス窓には、向かい側の商店やアーケードが反射している。
その中に、何かが映り込んでいた。
「これ……人?」
写真を照明へ近づける。
ガラスに反射しているのは、カメラを顔の前へ構えた若い男性だった。
顔の大部分はカメラに隠れている。
しかし、左腕には銀色の腕時計が見える。
ひよりは、先ほど田村が座っていた席を見た。
彼が現在も身に着けている、使い込まれた銀色の腕時計。
「もしかして……」
店内の棚には、古いカメラが飾られている。
田村が数年前に、店へ贈ったものだと千鶴から聞いたことがあった。
ひよりは、写真が撮影された位置を確認する。
店内の写真。
店の前の集合写真。
商店街の催し。
田村が知っていたのは、写っている人々のことだけではない。
撮影した直後に雨が降ったこと。
写真を撮る前後に起きた出来事。
それらを知っていた理由は、一つしかない。
一週間後。
田村が喫茶こもれびへ来ると、ひよりは一枚の写真を持って彼の前へ立った。
「田村さん」
「今日は何や?」
「写真に写っていなかった理由、分かりました」
「まだ考えてたんか」
「田村さんは、いつも写真を撮る側にいたんですね」
田村の表情がわずかに変わった。
「集合写真にも写っていないのは、田村さんがカメラを持っていたから。撮影した日のことを細かく覚えていたのも、自分で撮った写真だったからです」
「それだけで決めつけるんか?」
「証拠もあります」
ひよりは、店の窓ガラスに撮影者が反射している写真を差し出した。
「この腕時計、田村さんが今も着けているものですよね?」
田村は、自分の左腕を見る。
「よう見つけたな」
「顔はほとんど隠れてますけど、田村さんです」
「四十年前の俺は、もうちょっと男前やったで」
「今も十分男前ですよ」
「急に褒めても何も出えへんぞ」
田村は写真を受け取り、ガラスに映る若い自分を見つめた。
「若い頃から、写真が好きやったんですか?」
「ああ。初めて給料をもらったときに、無理してカメラを買った」
「喫茶こもれびの写真も、ずっと田村さんが?」
「全部やない。ほかの客が撮ったものもある。でも、集合写真は大体俺やな」
「一緒に写りたいと思わなかったんですか?」
田村は少し考えた。
「誰かが撮らな、写真は残らへんやろ」
「タイマーを使えばよかったやないですか」
「昔のタイマーは、今みたいに便利ちゃう。それに、構図がずれる」
「誰か別の人に頼むとか」
「自分で撮った方が早い」
「そうやって四十年間、一枚も写らなかったんですね」
「別にええねん」
田村は写真を壁へ戻した。
「俺が写ってなくても、俺が見てきたもんは全部残ってる」
若い義雄と千鶴。
笑っている常連客たち。
幼い子ども。
店の前を歩く人々。
田村はいつもカメラの後ろから、喫茶こもれびで流れる時間を見てきた。
「でも、田村さん自身がいたことは残りません」
「残ってるやろ。そこに腕だけ」
「腕だけで満足なんですか?」
「十分や」
そう言いながらも、田村は写真から目を離そうとしなかった。
ひよりは一つの提案を思いついた。
「今度、みんなで写真を撮りませんか?」
「四十周年の日に撮ったやろ」
「田村さんが撮ったから、田村さんは写ってません」
「俺はええって」
「よくないです。今度は、田村さんも入ってください」
「誰が撮るねん」
「カメラのタイマーを使います」
「構図がずれる」
「一枚くらい、少しずれててもええやないですか」
「よくない。写真は構図が大事や」
「四十年間撮る側やったんですから、一回くらい撮られる側になってください」
「嫌や」
「千鶴さん」
ひよりが助けを求める。
「私も、田村さんと一緒に写りたいなあ」
千鶴が優しく言った。
「ほら、千鶴さんもこう言ってます」
「二人がかりはずるいやろ」
「義雄さんも、田村さんと撮りたいですよね?」
「俺を巻き込むな」
「撮りたくないんですか?」
「別に、どっちでもええ」
「義雄さんの『どっちでもええ』は、賛成ってことです」
「勝手に決めるな」
田村は三人の顔を順番に見たあと、諦めたようにため息をついた。
「一枚だけやぞ」
「決まりですね」
次の日曜日。
喫茶こもれびには、これまで店を訪れた人々が集まった。
義雄と千鶴。
ひよりと母親。
野口、大西、美咲。
将棋盤を挟んで毎週対局するようになった颯太と栞もいる。
「何でこんな大人数になってるんや」
田村が呆れたように言う。
「せっかく撮るんですから、みんなで撮った方がええやないですか」
「俺は端でええ」
「田村さんは真ん中」
「何でや」
「今日の主役やからです」
「勝手に主役にするな」
田村が端へ移動しようとすると、千鶴が腕をつかんだ。
「四十年も逃げたんやから、今日くらい諦め」
「逃げてへん。撮る側におっただけや」
「はいはい。ここ座って」
田村は渋々、義雄と千鶴の近くへ座った。
ひよりはカメラを三脚へ固定し、全員が画面に収まっていることを確認する。
「もう少し右に寄ってください」
「ひよりちゃん、早くせんと」
「今、タイマーを設定します」
「ちゃんと合ってるんか?」
田村が心配そうに尋ねる。
「大丈夫です」
「カメラ、ちょっと傾いてへんか?」
「大丈夫ですって」
「もう少し左を上げた方が」
「田村さん、早く並んでください!」
ひよりはタイマーを押し、慌てて列へ戻った。
「あと何秒?」
千鶴が尋ねる。
「十秒です!」
「間に合うんか?」
「間に合わせます!」
ひよりは母親の隣へ滑り込む。
その拍子に、前列の美咲と肩がぶつかった。
「ひより、狭い!」
「ちょっと詰めて!」
「押さんといて!」
「こっちも狭いねん!」
周囲が笑いに包まれる。
田村が思わず声を上げて笑った、その瞬間。
シャッターが切られた。
出来上がった写真は、わずかに右へ傾いていた。
ひよりは片目を閉じ、美咲は何かを言いかけた顔をしている。
義雄はいつもどおり無愛想で、千鶴は楽しそうに笑っていた。
そして、その二人の間にいる田村も、声を上げて笑ったまま写っている。
「失敗やな」
写真を見た田村が言った。
「いい写真やないですか」
「構図が少し右に寄ってる。ひよりちゃんは目を閉じてるし、美咲ちゃんも変な顔してる」
「変な顔は余計です」
美咲が言い返す。
「撮り直します?」
ひよりが尋ねると、田村は写真をもう一度見つめた。
「いや」
「失敗なんですよね?」
「まあ、たまにはこんなんもええか」
田村は照れくさそうに笑い、写真を千鶴へ返した。
その写真は、昔の写真と並べて店内の壁へ飾られた。
田村が撮ってきた写真ほど、きれいではない。
少し傾き、何人かは目を閉じ、全員の視線もそろっていない。
それでも、四十年間ずっと撮る側にいた田村が、初めて喫茶こもれびの時間の中へ写った一枚だった。




