第六話 向かい合わない二人
火曜日の午後。
平日の喫茶こもれびには、静かな時間が流れていた。
カウンター席では常連客が新聞を読み、窓際では一人の若い男性がスマートフォンを見つめている。
年齢は二十歳くらいだろうか。
短く整えられた黒髪に、紺色のパーカー。テーブルにはブレンドコーヒーが置かれているが、ほとんど口をつけていない。
「今日も来てる……」
高瀬ひよりは、カウンターの中から男性を眺めた。
「誰が?」
千鶴が尋ねる。
「窓際に座ってる人です」
「水野君?」
「名前、知ってるんですか?」
「毎週来てくれてるからね。水野颯太君。近くの大学に通ってるらしいよ」
「そうやったんですね」
颯太が喫茶こもれびへ来るのは、決まって火曜日の午後三時頃だった。
いつも同じ窓際の席へ座り、ブレンドコーヒーを注文する。それから一時間ほどスマートフォンを操作し、四時を過ぎると帰っていく。
しばらくして、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、若い女性だった。
肩まで伸びた黒髪に、薄い灰色のカーディガン。周囲を見回したあと、颯太から二つ離れたテーブルへ座った。
「ご注文はお決まりですか?」
「カフェオレをお願いします」
「かしこまりました」
ひよりが注文を伝えると、義雄がカフェオレを作り始めた。
女性は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。
その直後、窓際の颯太もスマートフォンへ指を伸ばした。
女性が画面を操作する。
少し遅れて、颯太が眉間にしわを寄せた。
颯太がスマートフォンへ触れる。
今度は女性が画面を見つめ、考え込むように唇へ指を当てた。
「お待たせしました。カフェオレです」
「ありがとうございます」
ひよりがカップを置く。
女性の名前は片山栞。
彼女も毎週火曜日のほぼ同じ時刻に来店していた。
栞と颯太は、いつも少し離れた席へ座る。
同じ曜日。
同じ時刻。
どちらもスマートフォンを見ながら一時間ほど過ごし、片方が帰ると、もう片方も少し遅れて店を出る。
それなのに、二人が話しているところを、ひよりは一度も見たことがなかった。
「何なんやろ、あの二人……」
ひよりが小さくつぶやく。
「また始まったか」
コーヒー豆を整理していた義雄が言う。
「何がですか?」
「ひよりの悪い癖や」
「まだ何もしてませんよ」
「気になる顔してる」
「同じ曜日、同じ時間に来て、ずっとスマートフォンを触ってるんですよ。しかも一人が操作したら、もう一人が反応するんです」
「偶然やろ」
「毎週ですよ?」
「人のこと見てんと仕事せえ」
ひよりは布巾を持ち、空いているテーブルを拭き始めた。
仕事をしながらも、二人のことが気になって仕方がない。
颯太が画面を見て、小さく笑った。
少し遅れて、栞が悔しそうに頬を膨らませる。
今度は栞が操作すると、颯太が腕を組んで考え込む。
まるで、離れた席から言葉を使わずに会話をしているようだった。
午後四時を少し過ぎた頃、颯太がスマートフォンを置いた。
栞も同じタイミングで画面を閉じる。
その日は颯太が先に会計を済ませた。
「ありがとうございました」
颯太が店を出ていく。
それから五分ほどして、栞も席を立った。
二人は最後まで、一度も目を合わせなかった。
翌週の火曜日。
同じ時間に、美咲が喫茶こもれびへやって来た。
「いらっしゃいませ」
「来たで」
「見たら分かる」
「友達が来たのに、もうちょっと喜んでくれてもええやん」
「仕事中やからね」
美咲はカウンター席へ座り、メニューを開いた。
「今日は何にしようかな」
「この前と同じでええんちゃう?」
「せっかく来たんやから、違うの頼みたいやん」
「好きなだけ悩んでください」
「店員、冷たない?」
二人が話していると、扉のベルが鳴った。
颯太が店へ入り、いつもの窓際の席へ座る。
数分後には栞も現れ、少し離れた席を選んだ。
「美咲」
「何?」
「あの二人、見て」
「嫌や。知らん人をじろじろ見たら失礼やろ」
「じろじろ見んでええから」
「何なん?」
ひよりは声を抑えながら、二人について説明した。
毎週火曜日の同じ時刻に来る。
別々の席に座り、一度も会話をしない。
それなのに、スマートフォンを操作するタイミングや表情が連動している。
「どう思う?」
「どうって言われてもなあ」
「秘密で付き合ってるんかな?」
「付き合ってるなら、普通に同じ席へ座るやろ」
「誰かに見られたら困るとか」
「誰に?」
「親とか、大学の友達とか」
「ここで会ってる時点で、隠せてへんやん」
「ほんなら、何やと思う?」
「偶然ちゃう?」
「義雄さんと同じこと言わんといて。毎週続いてるんやで」
ひよりが力説すると、美咲は呆れたようにため息をついた。
「分かった。ちょっとだけ見るわ」
「さすが美咲」
「その代わり、注文取って。プリンと紅茶」
「かしこまりました」
ひよりが注文を伝え、美咲の前へ紅茶とプリンを運ぶ。
その間も、颯太と栞は交互にスマートフォンを操作していた。
颯太が画面を見つめ、しばらく考える。
指を動かした直後、栞のスマートフォンが小さく振動した。
栞が画面を確認する。
今度は栞が考え込み、指先を動かす。
少し遅れて、颯太の表情が変わった。
「確かに、何かしてるな」
「やろ?」
「同じゲームでもしてるんちゃう?」
「ゲーム?」
「二人とも、画面を縦にしてる。操作したあと、相手の反応を待ってるみたいやし」
美咲は紅茶を飲みながら、二人の様子を観察した。
「でも、二人は知り合いじゃないって言ってたよ」
「聞いたん?」
「前に、別々に聞いてみた」
「勝手に?」
「世間話のついでやって」
「店員の立場を利用して探るな」
美咲は呆れたように言う。
「でも、二人とも本当に知らなさそうやった」
「顔は知らんけど、ネットでは知り合いなんちゃう?」
その言葉に、ひよりは颯太と栞を見た。
「ネットでは知り合い……」
「オンラインゲームなら、相手の本名も顔も知らんことは普通にあるやろ」
義雄が栞の注文したカフェオレをカウンターへ置く。
「ひより、持っていけ」
「はい」
ひよりはカフェオレをトレーへ載せ、栞の席へ向かった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カップを置いたとき、スマートフォンの画面が一瞬だけ目に入った。
画面には、将棋盤が表示されている。
栞側から見て、手前に並んでいるのは銀色の駒だった。
ひよりはカウンターへ戻る途中、颯太のテーブルへ水を運んだ。
「お水のおかわりです」
「ありがとうございます」
颯太のスマートフォンにも、同じような将棋盤が表示されていた。
ただし、盤上の駒は栞の画面とは上下が反対になっている。
ひよりはカウンターへ戻ると、美咲へ顔を近づけた。
「美咲」
「今度は何?」
「二人とも、オンラインで将棋してる」
「ほんなら、対戦してるんちゃう?」
「でも、お互いの正体を知らないまま、同じ店で?」
「あり得るやろ。同じ時間に対局する約束だけして、場所までは教えてへんとか」
ひよりは二人を見比べた。
颯太が駒を動かす。
栞のスマートフォンが振動し、彼女が画面を見る。
栞が次の手を指す。
今度は颯太のスマートフォンへ通知が届く。
二人は離れた席で、同じ将棋盤を挟んでいた。
「間違いない。あの二人、同じ相手と対局してる」
「同じ相手やなくて、お互いが相手な」
「それ」
「分かったんなら、もう仕事戻り」
「でも、本人たちは気づいてへんよ」
「教えるん?」
「どうしよう……」
ひよりが迷っている間にも、対局は続いていた。
やがて終盤に入ったのか、二人の表情が険しくなる。
颯太は腕を組み、何度も画面を見直した。
栞もカフェオレへ手をつけず、盤面を見つめている。
長い時間をかけ、颯太が指を動かした。
栞のスマートフォンが振動する。
画面を確認した栞は、驚いたように目を見開いた。
しばらく考えたあと、ゆっくりと駒を動かす。
颯太のスマートフォンへ通知が届いた。
画面を見た颯太は、大きく息を吐いて背もたれへ身体を預けた。
一方、栞は小さく拳を握った。
「やっと、寝屋川の飛車に勝てた……」
静かな店内に、栞のつぶやきが聞こえた。
その瞬間、颯太が顔を上げた。
「え?」
栞が振り返る。
初めて、二人の視線が重なった。
「今、寝屋川の飛車って……」
颯太が尋ねる。
栞は戸惑いながら答えた。
「はい。オンライン将棋の対戦相手ですけど」
「もしかして、北河内の銀?」
栞の目が大きく開かれる。
「どうして、その名前を?」
「俺が、寝屋川の飛車です」
「え?」
二人は、しばらく言葉を失っていた。
颯太は自分のスマートフォンを持ち上げる。
画面には、敗北を知らせる表示と、相手の名前が映っていた。
『北河内の銀』
栞もスマートフォンを見せる。
そこには勝利の表示と、
『寝屋川の飛車』
という名前がある。
「じゃあ、半年間ずっと対局してた相手が……」
「この店にいたんですか?」
二人は同時に店内を見回した。
美咲が小声でつぶやく。
「いや、お互い目の前におるやろ」
「混乱してるんやって」
ひよりも小声で答えた。
颯太と栞は、地域別のオンライン将棋大会で知り合った。
大会後も対局を続け、毎週火曜日の午後三時に一局指すことが、いつの間にか二人の習慣になっていたという。
ただし、知っているのはアプリ上の名前だけ。
本名も年齢も、住んでいる場所も詳しく話したことはなかった。
「私、毎週ここで対局してました」
栞が言う。
「俺もです。家やと弟がうるさくて集中できへんから」
「私は大学の帰りに寄りやすかったので……」
「まさか、同じ店やったとは」
二人は顔を見合わせた。
先ほどまで画面越しに戦っていた相手が、数メートル離れた席へ座っていた。
「半年も気づかんことある?」
美咲が尋ねる。
「対局中は画面しか見てなかったんやろ」
ひよりが答える。
「毎週、同じ店へ来てたら、顔くらい覚えそうやけど」
「顔は覚えてても、対戦相手やとは思わへんやん」
「まあ、それもそうか」
二人が話していると、義雄が店の奥へ入っていった。
しばらくして、古い木製の将棋盤を抱えて戻ってくる。
「次から、これ使ったらええ」
義雄は颯太と栞の間にあるテーブルへ、将棋盤を置いた。
「これ、店にあったんですか?」
ひよりが驚く。
「昔は、よう使ってる客がおった」
将棋盤には細かな傷がつき、駒も少し色あせていた。
颯太が栞を見る。
「来週も対局します?」
「いつもどおり、火曜日の三時ですよね?」
「はい。ただ……」
颯太は将棋盤へ目を向けた。
「今度は、画面越しやなくて?」
栞は少し考えたあと、笑った。
「嫌とは言ってません」
翌週の火曜日。
午後三時になると、颯太と栞は喫茶こもれびへやって来た。
今度は別々の席ではない。
窓際の同じテーブルへ座り、義雄が用意した将棋盤を挟んで向かい合っている。
「ブレンドコーヒーとカフェオレ、お待たせしました」
ひよりが二人の飲み物を置く。
「ありがとうございます」
二人は駒を並べ終えると、顔を見合わせた。
「お願いします」
「お願いします」
最初の一手が指される。
カウンター席から二人の様子を見ていた美咲が、プリンを食べながら言った。
「よかったな。オンラインの相手が変な人やなくて。颯太さん、真面目そうやったやん」
「そうやね。そして栞さんの方は優しそう」
「ひより、人を見る目に根拠なさすぎるで」
「美咲も根拠ないやん。それより、あの二人、これから付き合ったりするんかな?」
「今は将棋してるだけやろ」
「毎週会う約束してるやん」
「それは前からや」
「でも、今度は同じテーブルやで」
「だから何やねん」
「名探偵として、この先も見守らんと」
「店員として仕事しろ」
美咲のツッコミと同時に、義雄の声が飛んでくる。
「ひより、五番さんの注文」
「はい!」
ひよりは慌てて客席へ向かった。
その背後では、木製の駒が将棋盤へ置かれる音が響いている。
離れた席で向かい合わなかった二人は、ようやく同じ盤を挟み、初めて互いの表情を見ながら対局していた。




