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第五話 開店前の一杯

 土曜日の朝。


 寝屋川一番街商店街には、まだ多くの人の姿はなかった。


 シャッターを開ける音や、店先を掃除するほうきの音が、静かなアーケードに響いている。


 高瀬ひよりが喫茶こもれびへ到着したのは、開店の三十分前だった。


「おはようございます」


 木製扉を開けると、いつものベルが鳴る。


「おはよう、ひよりちゃん」


 千鶴が笑顔で迎えてくれた。


 義雄は返事をせず、カウンターの奥でコーヒー豆の入った容器を確認している。


「義雄さん、おはようございます」


「聞こえてる」


「聞こえてるなら、返事してくださいよ」


「朝から元気やな」


「義雄さんが元気なさすぎるんです」


 いつもと変わらないやり取りを交わし、ひよりは荷物を置いた。


 エプロンを着け、洗い場にある布巾を取ろうとする。


 そのとき、一つのコーヒーカップが目に入った。


 白くて厚みのある、店で長く使われているカップ。


 きれいに洗われているが、表面にはまだ細かな水滴が残っている。


「あれ?」


 ひよりはカップを手に取った。


「どうしたん?」


 千鶴が尋ねる。


「このカップ、まだ濡れてます」


「乾いてへんかったんやろ」


「昨日の閉店前に洗ったんですよね?」


「そうやけど」


「一晩たったら、普通は乾いてません?」


 千鶴は答えず、店内のテーブルを拭き始めた。


 ひよりは首をかしげながら、カップを棚へ戻す。


 次にゴミ箱の袋を交換しようとすると、中には新しいコーヒーの粉が捨てられていた。


 湿ったままの粉からは、まだ香りが残っている。


「義雄さん」


「なんや」


「今朝、コーヒー淹れました?」


「淹れてへん」


「でも、ここに新しい粉がありますよ」


「昨日のやろ」


「昨日のゴミは、私が帰る前に捨てました」


 義雄の手が一瞬止まった。


「気のせいや」


「コーヒーの粉は、気のせいで増えませんよ」


「開店準備せえ」


「誰か来たんですか?」


「来てへん」


「ほんなら、誰がコーヒーを飲んだんです?」


 義雄は答えず、コーヒー豆の容器を棚へ戻した。


「絶対何か隠してる……」


 ひよりがつぶやくと、千鶴が背中を向けたまま笑っていた。


 その日は開店と同時に客が続けて入ってきたため、ひよりも濡れたカップのことを尋ねる余裕がなくなった。


 やがて忙しさに追われ、朝の疑問も頭の隅へ追いやられていった。


 しかし、一週間後の土曜日。


 再び同じことが起きた。


「また濡れてる……」


 開店前の洗い場に、白いコーヒーカップが置かれている。


 ゴミ箱には、新しいコーヒーの粉。


 さらに、冷蔵庫に入っているミルクも、昨日より少しだけ減っていた。


「義雄さん」


「なんや」


「今日も誰か来ました?」


「来てへん」


「コーヒー飲みました?」


「飲んでへん」


「千鶴さんは?」


「私はまだ何も飲んでへんよ」


「ほんなら、このカップは何ですか?」


 ひよりは濡れたカップを二人へ見せた。


「昨日から乾いてへんかったんやろ」


 千鶴は前の週と同じ説明をする。


「同じカップが二週間も乾かないわけないやないですか」


「湿気が多いんと違う?」


「一週間ずっとですか?」


 ひよりはカウンターの奥を見回した。


 店の入口には、ひよりが来たときも鍵がかかっていた。


 レジの金額にも変化はない。


 店内の椅子はすべて整えられており、誰かが客席へ座った形跡もなかった。


 それでも、コーヒーを淹れ、飲んだ跡だけが残っている。


「開店前に、誰かこっそり店へ入れてるんですか?」


「なんでそんなことせなあかんねん」


 義雄が呆れたように答える。


「代金を払えない人に、こっそり出してるとか」


「それやったら木札を使う」


「昔からの知り合いが来てるとか」


「来てへん」


「二人しか知らない秘密のお客さんとか」


「小説の読みすぎや」


「私はミステリー小説、そんなに読んでません」


「ほんなら、何でそんな発想になるねん」


 何を尋ねても、二人は教えてくれない。


 ひよりの好奇心に、火がついた。


 翌週の土曜日。


 ひよりは普段より一時間早く家を出た。


 まだ多くの店がシャッターを閉じている商店街を歩き、喫茶こもれびへ向かう。


 店の入口へ着くと、扉は閉まっていた。


 ひよりは中の様子をうかがう。


 カーテンの隙間から、明かりが漏れている。


 扉へ耳を近づけると、店内から誰かの話し声が聞こえた。


「もう少し、ゆっくり注げ」


「ゆっくりしてるよ」


「最初に一気に注ぎすぎや」


「細かいなあ。ちゃんとコーヒーになってるやん」


「コーヒーになったら何でもええわけちゃう」


 聞こえてきたのは、義雄と千鶴の声だった。


 ひよりは鞄から店の鍵を取り出し、静かに扉を開けた。


 カラン。


 ベルの音が店内へ響く。


「おはようございます」


 カウンターの中にいた千鶴が、驚いて振り返った。


 手には、コーヒーを淹れるためのポットを持っている。


 客席ではなく、カウンター席に座っていたのは義雄だった。


 義雄の前には、湯気の立つコーヒーカップが置かれている。


 三人の間に沈黙が流れた。


「……何してるんですか?」


「見たら分かるやろ」


 義雄が答える。


「千鶴さんがコーヒーを淹れて、義雄さんが飲んでます」


「分かってるやないか」


「そういうことを聞いてるんやないです」


 ひよりはカウンターへ近づいた。


 周囲にはコーヒーの粉が少しこぼれ、お湯の跡も残っている。豆も、義雄が挽くときよりわずかに粗い。


「これまでのコーヒーも、千鶴さんが淹れてたんですね?」


 千鶴は困ったように笑った。


「見つかってしもたね」


「どうして隠してたんですか?」


「まだ、ひよりちゃんには内緒にしとこうと思ってたんよ」


「義雄さん、コーヒー飲まないって言いましたよね?」


「飲んでへんとは言うてへん」


「言いましたよ。先週、私が聞いたとき」


「そうやったか?」


「とぼけんといてください」


 ひよりが義雄をにらむと、千鶴が声を上げて笑った。


「ごめんね。私が黙っといてって頼んだんよ」


「何のために練習してるんですか?」


 千鶴は、手にしていたポットへ目を落とした。


「来月で、この店を開いて四十年になるねん」


「四十年……」


「長いやろ?」


「私が生まれるより、ずっと前ですね」


「ひよりちゃんが小さい頃から来てる言うても、この店からしたら、まだ最近やからね」


 千鶴は懐かしそうに店内を見回した。


 木製のテーブル。


 長い間、多くの客が座ってきた椅子。


 壁に掛けられた時計。


 少し色あせたメニュー。


「義雄さんは、この四十年間、毎日誰かのためにコーヒーを淹れてきた」


「千鶴も毎日、店に立ってたやろ」


「私はお客さんとしゃべって、料理を作ってただけ。コーヒーは、ずっと義雄さんの仕事やった」


 千鶴は義雄の前に置かれたカップを見る。


「この人な、自分の店の客席に座ったことがほとんどないねん」


「そうなんですか?」


「開店前に味を確かめるときも、立ったまま飲む。休憩するときもカウンターの中。お客さんが座る場所やからって、空いてても絶対に座らへん」


 ひよりは義雄を見る。


「一回くらい、座ったらええやないですか」


「落ち着かん」


「今、座ってますよ」


「味を見るためや」


「十分、客みたいになってますけど」


「うるさい」


 千鶴は楽しそうに笑った。


「四十周年の日くらい、この人に客になってもらおうと思って」


「義雄さんに、千鶴さんがコーヒーを淹れるんですか?」


「そう。ひよりちゃんに運んでもらって、私はカウンターの中。義雄さんには、いつもお客さんが座ってる席で、ゆっくり飲んでもらう」


「それで練習してたんですね」


「まだ全然うまくいかへんけどね」


 千鶴は試しに淹れたコーヒーを見る。


「でも、義雄さんに飲んでもらってるなら、練習の理由も分かってるんやないですか?」


「俺は、千鶴がコーヒーを淹れられるようになりたい言うから教えてるだけや」


「まさか、自分に出すためやとは思わへんかった?」


 義雄は答えなかった。


 しかし、耳がわずかに赤くなっている。


「義雄さん、もしかして照れてます?」


「照れてへん」


「耳、赤いですよ」


「朝から暑いだけや」


「今日は涼しいですけど」


「ひよりちゃん」


 千鶴が笑いをこらえながら言う。


「これ以上言うたら、義雄さん店の奥に逃げてまうよ」


「逃げへん」


 義雄はそう答え、千鶴が淹れたコーヒーへ口をつけた。


 ゆっくり味わい、カップを置く。


「さっきよりは、ましや」


「ほんま?」


「お湯を注ぐ速さは、今くらいでええ。ただ、最後まで入れすぎや」


「はいはい、先生」


「ほんまに分かってるんか」


「四十年も隣で見てたんやから、何となくは分かってるよ」


「見てるだけでできたら苦労せえへん」


 二人のやり取りを見ながら、ひよりは笑った。


「私も手伝います」


「ええの?」


「当たり前です。四十周年なんですよね?」


「せやけど、大学もあるやろ?」


「準備くらいできます。それに、その日は私が義雄さんへコーヒーを運びたいです」


「頼んでへんぞ」


「お客さんは黙って座っててください」


「まだ一か月先や」


「今から練習しといた方がいいですよ。義雄さん、客としての態度がなってませんから」


「誰のせいやと思ってる」


 その日から、土曜日の開店前には、三人だけの練習が始まった。


 千鶴がコーヒーを淹れ、義雄が味を確かめる。


 ひよりは、こぼれた粉を掃除し、使い終わった器具を洗った。


 最初の頃は、義雄から注意されるたびに千鶴が言い返していた。


「お湯が多い」


「ちょっとくらいええやん」


「豆が粗い」


「飲んだら一緒やろ」


「一緒ちゃう」


「四十年一緒におるけど、コーヒーのことになるとほんま細かいなあ」


「四十年見てて、今さら気づいたんか」


 言い合いながらも、千鶴の淹れるコーヒーは少しずつ変わっていった。


 豆を挽く音。


 ゆっくりとお湯を注ぐ手。


 店内へ広がっていく香り。


 義雄のコーヒーとまったく同じではない。


 それでも、千鶴らしい柔らかな味になっていった。


 そして一か月後。


 喫茶こもれびは、開店四十周年の日を迎えた。


 店内には、常連客から贈られた花が飾られていた。壁には千鶴が昔の写真を並べ、ひよりが作った小さな飾りもつけられている。


 開店時間の少し前。


「はい、義雄さん。座って」


 千鶴が窓際の席を指さした。


「ここでええやろ」


 義雄はいつものように、カウンターの中へ立とうとする。


「あかん。今日はお客さんや」


「客が来たら誰がコーヒー淹れるねん」


「私が淹れる」


「料理は?」


「ひよりちゃんがおる」


「私、全部は作れませんよ」


「簡単なものだけにしたらええねん」


「そこまでして座らんでもええやろ」


「今日くらい、言うこと聞き」


 千鶴に背中を押され、義雄は渋々窓際の席へ座った。


「落ち着かんな」


「いつもお客さんには、ゆっくりしていってもらってるやろ?」


「それ言うてるんは、千鶴や」


「細かいことはええねん」


 千鶴はカウンターの中へ入る。


 義雄が何十年も立ち続けてきた場所で、ゆっくりとコーヒー豆を挽き始めた。


 店内へ、いつもの香りが広がっていく。


 ひよりはカウンターのそばに立ち、その様子を見守った。


 千鶴がお湯を注ぐ。


 義雄は口を出しかけたが、何も言わずに見ていた。


 やがて、一杯のコーヒーが出来上がる。


「ひよりちゃん、お願い」


「はい」


 ひよりはカップをトレーへ載せ、義雄のもとへ運んだ。


 義雄が客席に座っている光景は、ひよりにとっても不思議だった。


「お待たせしました」


 義雄の前へ、コーヒーを置く。


「喫茶こもれび四十周年、最初のお客さんへの一杯です」


「俺は最初の客ちゃうぞ」


「今日、最初のお客さんです」


「まだ開店前や」


「ほんま細かいなあ」


 カウンターの中から、千鶴の声が飛んでくる。


 義雄はコーヒーカップを手に取った。


 千鶴は緊張した表情で見つめている。


 一口。


 義雄は何も言わず、ゆっくりと味わった。


「どう?」


 千鶴が尋ねる。


 義雄はカップを置き、少し考える。


「まだ、お湯の注ぎ方が安定してへん」


「そういう細かい感想やなくて」


「豆の挽き方も、少し粗い」


「おいしいか、おいしくないかを聞いてるねん」


 義雄はもう一度カップを持ち上げた。


 二口目を飲む。


 そして、ぶっきらぼうに答えた。


「また飲んでもええ」


 千鶴は一瞬黙ったあと、優しく笑った。


「素直やないなあ」


 義雄は何も答えず、コーヒーを飲み続けた。


 毎日、誰かのために一杯を淹れてきた義雄。


 その義雄へ、四十年間隣にいた千鶴が淹れた一杯。


 味は同じではない。


 けれど、同じである必要はないのだろう。


 義雄は最後まで飲み、空になったカップを静かに置いた。


「ごちそうさん」


 その一言に、千鶴の笑顔が少しだけ深くなった。


 ひよりは空になったカップを下げる。


 初めて謎に気づいた朝と同じ、白くて厚みのあるカップだった。


 けれど今度は、誰が、何のために淹れた一杯なのかを知っている。


 それは四十年間、コーヒーを淹れ続けてきた人へ返された、たった一杯の「ありがとう」だった。


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