第四話 日曜日だけ苦いコーヒー
日曜日の午後。
喫茶こもれびの扉が開き、一人の女性が店内へ入ってきた。
肩まで伸びた髪に、明るい色のブラウス。店の中を見回すと、カウンターの中にいる高瀬ひよりを見つけ、片手を上げた。
「ひより」
「美咲?」
ひよりは驚いて目を丸くした。
やって来たのは、同じ大学に通う友人の藤本美咲だった。
「ほんまに働いてたんや」
「何その言い方。働いてるって何回も言ったやん」
「ひよりが喫茶店で接客してるところ、想像できへんかってん」
「失礼やなあ。もう一か月以上働いてるんやで」
「ほんなら、店員さんの仕事ぶり、見せてもらおかな」
美咲は楽しそうに笑い、カウンター席へ座った。
「ご注文は?」
「おすすめは?」
「クリームソーダ」
「それ、ひよりが好きなだけやろ」
「ホットケーキもおいしいよ」
「甘いものばっかりやん」
二人の会話を聞いていた千鶴が、カウンターの奥から顔を出した。
「ひよりちゃんのお友達?」
「はい。高校からの親友で同じ大学の藤本美咲です」
「いつも、ひよりがお世話になってます」
美咲が丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ。ひよりちゃんが大学でどんな感じなんか、あとでゆっくり教えてな」
「何を聞こうとしてるんですか」
「授業中に寝てないかとか」
「寝てへんよ」
「一回だけ寝てたで」
「美咲!」
ひよりが声を上げると、千鶴は楽しそうに笑った。
「美咲ちゃん、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。じゃあ、ブレンドコーヒーとホットケーキで」
「結局、ホットケーキ頼むんや」
「おすすめされたからな」
ひよりは伝票へ注文を書き込み、義雄へ渡した。
「ブレンドとホットケーキ、一つずつお願いします」
「聞こえてる」
「返事くらいしてくださいよ」
義雄は何も言わず、コーヒー豆を挽き始めた。
美咲が小声で尋ねる。
「あの人が店主?」
「うん。岡本義雄さん」
「ちょっと怖そうやな」
「顔と話し方だけ。子どもにはこっそりサービスするくらい甘いで」
「聞こえてるぞ」
義雄の低い声が飛んできた。
美咲は慌てて姿勢を正す。
「すみません」
「美咲、声大きいねん」
「ひよりが言うたんやろ」
二人が小声で言い合っていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、五十代半ばほどの男性だった。
大柄な体格に短く刈った髪。茶色い上着を着ており、店へ入るなり、カウンターの端に腰を下ろした。
「大西さん、いらっしゃい」
千鶴が声をかける。
「いつもの頼むわ」
「あいよ」
義雄は美咲のコーヒーを淹れ終えると、新しい豆を用意した。
ひよりは出来上がったコーヒーとホットケーキを、美咲の前へ運ぶ。
「お待たせしました」
「おお、おいしそう」
「感想は正直にお願いします」
「まずかったら、まずいって言うで」
「そこは友達として気を遣ってよ」
「ひよりが作ったんと違うやろ」
美咲はホットケーキを一口食べ、目を見開いた。
「おいしい」
「やろ?」
「なんでひよりが自慢げなん?」
「この店で働いてるから」
「焼いたんはマスターやろ」
美咲の言葉に、義雄がわずかにうなずいた。
その隣では、大西がブレンドコーヒーへ口をつけていた。
一口飲んだ瞬間、大西は眉間にしわを寄せた。
「マスター」
「なんや」
「やっぱり、日曜日だけ豆変えてるやろ?」
「変えてへん」
「いや、絶対違う。平日に飲むより苦いねん」
大西はもう一度コーヒーを飲み、納得できないように首をかしげた。
「先週の日曜も苦かった。その前もや」
「同じ豆や」
「挽き方が違うんと違うか?」
「同じや」
「お湯が熱すぎるとか」
「それも同じや」
義雄は表情を変えずに答える。
「ほんなら、なんで日曜日だけ苦いねん」
「知らん」
「客の疑問に、知らんで済ませる店主がおるか?」
「ここにおる」
大西と義雄のやり取りを、美咲はホットケーキを食べながら眺めていた。
「いつもあんな感じなん?」
「大西さん、前から日曜日だけ苦いって言ってるねん」
「ほんまに豆変えてへんの?」
「義雄さんは変えてないって言ってる」
「ほんなら、味が違うように感じてるだけちゃう?」
「でも、大西さん何回飲んでも、日曜日だけ苦いって感じるんやで」
「コーヒーが同じなら、変わったんは飲んでる人の方やろ」
美咲は何気なく言い、ホットケーキの残りを口へ運んだ。
ひよりは大西を見る。
「飲んでる人の方……」
確かに、コーヒーだけが味を決めるわけではない。
飲む人の体調や、その前に口にしたものによっても、感じ方は変わる。
大西はコーヒーへ口をつける前に、水を一杯飲み干していた。ひよりが新しい水を置くと、それも半分ほど一気に飲んだ。
「大西さん、喉渇いてるんですか?」
「まあ、ちょっとな」
そう答えた大西の上着から、甘い香りが漂ってきた。
さらに袖口には、白い粉のようなものが付着している。
大西は指先で粉を払った。
「大西さん、ここに来る前、どこに寄ってたんですか?」
「どこでもええやろ」
「甘いもの、食べました?」
大西の手が止まる。
「食べてへん」
「ほんまですか?」
「ほんまや」
「上着から甘い匂いがします」
「商店街を歩いてたら、いろんな匂いがつくやろ」
「袖に粉砂糖みたいなものもついてます」
「これは……さっき、どっかでついたんや」
大西は慌てて袖を払う。
その様子を見て、美咲が小さくつぶやいた。
「分かりやすい人やな」
「聞こえてるぞ」
「すみません」
大西が美咲をにらむ。
ひよりはカウンターの上に置かれたコーヒーを見る。
「甘いものを食べたあとにコーヒーを飲んだから、普段より苦く感じたんと違いますか?」
「だから、食べてへん言うてるやろ」
「でも、平日に来るのは仕事帰りですよね。日曜日だけ、ここへ来る前に別の場所へ寄ってる。コーヒーの豆も淹れ方も同じなら、違うのはそのくらいです」
「日曜日に何食べてるんですか?」
美咲まで加わる。
「なんであんたまで聞くねん」
「私も気になってきたんで」
「美咲は関係ないやろ」
「ひよりも関係ないけど聞いてるやん」
「私は店員です」
「店員は客が何食べたかまで調べへんやろ」
大西は二人から顔をそらし、苦いと言っていたコーヒーを飲んだ。
その拍子に、上着のポケットから折り畳まれた紙が落ちた。
「あっ」
ひよりが拾い上げる。
紙には表が書かれていた。
『甘さ』
『生地の軽さ』
『香り』
『見た目』
『値段』
それぞれの項目に点数がつけられ、横には細かな感想も記されている。
『甘すぎる』
『もう少し酸味があった方がいい』
『見た目はええけど、一個食べたら重い』
『これは、もう一個食べてもええ』
「これ、ケーキの評価ですか?」
「返せ」
大西は紙を奪うように受け取り、ポケットへ戻した。
「毎週、ケーキを試食してるんですね」
「……そうや」
ようやく観念したように認めた。
「商店街の奥に、知り合いの洋菓子店がある。そこで試作品を食べてる」
「甘いもの、好きなんですか?」
「嫌いやないけど、毎週食べたいほど好きでもない」
「ほんなら、なんで評価まで書いてるんです?」
大西は答えなかった。
ひよりがさらに尋ねようとすると、千鶴が静かに止める。
「ひよりちゃん」
以前、義雄から言われた言葉が、ひよりの頭に浮かんだ。
謎を解くのは良い。
しかし、人の心まで勝手に開けてはいけない。
「すみません。聞きすぎました」
ひよりが頭を下げると、大西はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「娘が、店を出そうとしてるんや」
大西はコーヒーカップを見つめたまま、静かに話し始めた。
「洋菓子店ですか?」
「ああ。今は知り合いの店を借りて、休みの日に試作品を作ってる」
「それで、大西さんが試食を?」
「俺は反対してる」
大西の声が少し強くなる。
「娘は今、会社員として働いてる。給料も安定してるし、無理に辞める必要はない。店を出すとなったら、家賃も材料費もかかる。うまいものを作ったら成功するほど、商売は簡単やない」
「大西さんも、お店をしてたことがあるんですか?」
「昔、小さい店をやってた。もう少しで家族まで巻き込んで、全部失うところやった」
大西は自嘲するように笑った。
「せやから反対してる。好きなことを仕事にしたら幸せになれるなんて、そんな甘いこと言われへん」
「でも、毎週試食して、細かく感想を書いてるんですよね?」
「洋菓子店の店主に頼まれただけや」
「娘さんは、大西さんが食べてることを知ってるんですか?」
「知らん。感想も店主が自分の意見として伝えてる」
「どうして隠すんです?」
「反対してる父親が応援してると分かったら、あいつは余計に突っ走るやろ」
大西はぶっきらぼうに答えた。
「失敗してほしくないだけや」
ひよりは、大西の言葉を聞きながら考えた。
店を出すことに反対する父親。
毎週、娘の作ったケーキを食べ、味だけでなく、値段や見た目まで細かく確認している。
「大西さん」
「なんや」
「本当に反対してる人は、毎週試食なんかしないと思います」
「反対はしてる」
「娘さんの夢を諦めさせたいんですか?」
大西は答えなかった。
「失敗してほしくないのと、挑戦してほしくないのは、同じじゃないですよね」
店内に短い沈黙が流れた。
「失敗して苦労する娘を見たくない。でも、本当に店を出すなら成功してほしい。だから、こっそり試食してるんと違いますか?」
大西は苦いと言っていたコーヒーを、ゆっくりと飲んだ。
「大学生は、何でも難しく考えるな」
「大学は関係ないと思いますけど」
美咲が横から口を挟む。
「美咲は黙ってて」
「ひよりが先に言うたんやろ」
二人のやり取りに、大西の口元がわずかに緩んだ。
「娘さんのケーキ、そんなに甘いんですか?」
ひよりが尋ねる。
「最初は甘すぎた。今は、だいぶよくなった」
「さっきの紙に、もう一個食べてもええって書いてましたよね」
「あれは、その中ではマシって意味や」
「素直やないなあ」
美咲が呟く…
「うるさい」
大西は残っていたコーヒーを最後まで飲み干した。
会計を済ませ、店を出ようとしたところで、義雄へ振り返る。
「マスター」
「なんや」
「甘いケーキに合うコーヒーって、どれや?」
義雄は大西を見た。
「ケーキによる」
「果物を使った、少し酸味のあるやつや」
「今度、そのケーキ持ってこい。食べんと分からん。査定のコーヒーは金もらうぞ」
「金取るんか?」
「当たり前や」
「商売人やな」
「店やからな」
大西は小さく笑った。
「ほんなら、来週持ってくるわ」
扉のベルが鳴り、大西は商店街の中へ帰っていった。
「結局、日曜日のコーヒーが苦かったのは、ケーキを食べたあとやったからなんやな」
美咲が言う。
「うん。変わってたのは、コーヒーやなくて大西さんの方やった」
「私のおかげやな」
美咲が胸を張る。
「何が?」
「最初に言ったやん。コーヒーが同じなら、変わったんは飲んでる人の方やって」
「あれは適当に言っただけやろ」
「名探偵・藤本美咲と呼んでくれてもええで」
「手掛かりを見つけたのは私です」
「二人とも、仕事せえ」
義雄の声が飛んでくる。
「私は客です」
美咲がすぐに答えた。
「ほんなら、追加注文せえ」
「商売人やなあ」
「店やからな」
先ほどと同じ返事に、ひよりと美咲は顔を見合わせて笑った。
一週間後の日曜日。
大西は約束どおり、小さな白い箱を持って喫茶こもれびへやって来た。
箱の中には、赤い果物が載ったケーキが四つ並んでいる。
「娘さんが作ったんですか?」
「ああ。試作品やけどな」
義雄はケーキを一口食べると、いくつかの豆を取り出した。
大西と二人で味を確かめながら、ケーキに合うコーヒーを選んでいく。
「店を出すの、まだ反対してるんですか?」
ひよりが尋ねる。
「反対や」
大西は即座に答えた。
「じゃあ、なんで店で出すコーヒーを選んでるんです?」
「もし出すなら、中途半端な店にさせるわけにはいかんやろ」
「やっぱり応援してるやないですか」
「してへん」
「してます」
「してへん」
二人の言い合いを聞きながら、千鶴が笑っている。
義雄は何も言わず、選んだ豆で一杯のコーヒーを淹れた。
大西は娘の作ったケーキを食べたあと、そのコーヒーへ口をつける。
「どうですか?」
ひよりが尋ねた。
大西はしばらく黙って味わっていた。
「苦いな」
「まだ苦いですか?」
「でも、これくらいでええ」
大西はそう言って、もう一口コーヒーを飲んだ。
その表情は、初めて店へ来た日曜日よりも、ずっと穏やかだった。




