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第三話 二つの「いつもの」

 平日の午後。


 昼時の慌ただしさが過ぎた喫茶こもれびには、ゆったりとした時間が流れていた。


 カウンター席では常連客が新聞を広げ、窓際では二人の女性が楽しそうに話している。


 高瀬ひよりは空いたカップを下げると、布巾を手にテーブルを拭き始めた。


 アルバイトを始めて一か月。


 常連客の顔や好みも、少しずつ覚えてきた。


 三番テーブルの男性は、ブレンドコーヒーに砂糖を一つ。


 窓際によく座る女性は、紅茶にミルクだけ。


 カウンターの端で新聞を読む男性は、いつも卵サンドとブラックコーヒー。


 注文を聞く前に、その人が頼むものを予想できるようになることが、ひよりには少し嬉しかった。


「ひよりちゃん、入口」


 千鶴の声に、ひよりは顔を上げた。


 扉のベルが鳴る。


「いらっしゃいませ――って、お母さん?」


「来たよ」


 店へ入ってきた母親は、ひよりの驚いた顔を見て楽しそうに笑った。


「今日、来るって言ってた?」


「言ってへんよ」


「ほんなら、なんで来たん?」


「娘の働いてる喫茶店に来るのに、予約が必要なん?」


「必要ないけど……」


「ひよりちゃんのお母さん、いらっしゃい」


 千鶴が嬉しそうに声をかける。


「千鶴さん、お久しぶりです。ひより、ちゃんと働いてます?」


「それ、この前も聞いてたやん」


「親としては心配やから」


「ちゃんと働いてるよ。今日はまだ何も割ってへんし」


「今日はって何ですか!」


 ひよりが声を上げると、店内の常連客から笑いが起こった。


「もう、お母さんが来たら、すぐ私の話になるんやから」


「ほかに何話すのよ」


「天気とか、商店街のこととか、いろいろあるやろ」


 ひよりは恥ずかしさを隠すように、母親を窓際の席へ案内した。


 そこは、幼い頃に母親と何度も座った席だった。


「ご注文は?」


 ひよりが尋ねると、母親はメニューを開かずに答えた。


「いつものでお願い」


「はい、カフェオレね」


 返事をしてカウンターへ戻る。


「義雄さん、カフェオレ一つお願いします」


「誰のや」


「お母さんです」


「ブレンドやろ」


 義雄は迷うことなく、コーヒー豆を挽き始めた。


「いや、カフェオレです」


「ブレンドや」


「注文を取ったのは私ですよ?」


「いつもの言うたんやろ」


「そうです。お母さんのいつもはカフェオレです」


「一人で来たときは、昔からブレンドや」


 ひよりは手にしていた伝票へ目を落とした。


「え?」


「聞こえへんかったんか」


「聞こえましたけど……お母さん、ブラック飲めるんですか?」


「本人に聞け」


 義雄はそれ以上答えず、淹れ終えたブラックコーヒーをひよりの前へ置いた。


「ほら、持っていけ」


「間違ってても知りませんからね」


 ひよりは納得できないまま、母親の席へコーヒーを運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとう」


 母親はブラックコーヒーを見ても、驚かなかった。


 砂糖にもミルクにも手を伸ばさず、そのままカップを口へ運ぶ。


「ちょっと待って」


「何?」


「それ、ブラックやで」


「見たら分かるよ」


「苦くないん?」


「コーヒーやから、多少は苦いやろ」


「そういう意味やなくて、お母さん、ブラック飲めたん?」


 母親は不思議そうに首をかしげた。


「昔から飲んでるよ」


「嘘や」


「なんで嘘つかなあかんの」


「私と来るときは、いつもカフェオレやったやん」


「そうやったかなあ」


「そうやった。絶対そう」


 ひよりは、母親と喫茶こもれびへ通った日々を思い返した。


 買い物の帰りも、遠くへ出かけた日も、母親の前に置かれていたのは決まってカフェオレだった。


 母親がブラックコーヒーを飲んでいる姿など、一度も見たことがない。


「義雄さんは、一人で来たときは昔からブレンドやって言ってたよ」


「義雄さん、そんなことまで覚えてるんやね」


「話をそらさんといて。なんで私と来るときだけカフェオレやったん?」


 母親は答えず、もう一度コーヒーを飲んだ。


「仕事中やろ。ほかのお客さん待ってるよ」


「あとで絶対聞くからね」


「はいはい」


 ひよりは釈然としないまま、カウンターへ戻った。


「千鶴さん」


「何?」


「お母さん、昔からブラック飲んでたんですか?」


「飲んでたよ。ひよりちゃんが生まれる前から、ずっとブレンド」


「でも、私と来るときはカフェオレでした」


「そうやね」


「なんでですか?」


 千鶴は少し考えたあと、懐かしそうに目を細めた。


「ひよりちゃん、覚えてへんの?」


「何をですか?」


「小さい頃、お母さんの飲んでるもの、何でも欲しがってたやん」


 その言葉に、ひよりは昔の記憶を探った。


 母親の向かいに座り、クリームソーダを両手で抱えていた自分。


 自分の飲み物があるにもかかわらず、母親のカップが気になって仕方がなかった。


『お母さん、それ何?』


『コーヒーよ』


『ひよりも飲みたい』


『苦いからやめとき』


『飲みたい!』


 何度止められても諦めず、母親からカップを受け取った。


 黒い液体をほんの少しだけ口に含んだ瞬間、強い苦味が広がった。


『苦い!』


『せやから言ったやん』


 母親は笑いながら、水を差し出してくれた。


 その次に店へ来たとき、母親の前に置かれていたのは、ブラックコーヒーではなかった。


「もしかして……」


 ひよりは母親の席を見る。


「私が飲みたがるから、カフェオレに変えたんですか?」


「最初はそうやったと思うよ」


 千鶴が答えた。


「ひよりちゃん、お母さんが飲んでるものは何でも欲しがったからね。ブラックは苦くて飲まれへんけど、カフェオレなら一緒に飲めるやろ?」


「でも、それって小さい頃だけですよね」


「そうやね」


「私が自分の飲み物だけ飲むようになってからも、お母さんはカフェオレでした」


「そこから先は、本人に聞かんと分からへんなあ」


 千鶴はそう言いながらも、理由を知っているように笑っていた。


 母親はブラックコーヒーが好きだった。


 それでも、ひよりと来るときだけはカフェオレを頼んだ。


 幼い娘が飲みたがっても、一緒に味わえるように。


 けれど、ひよりが成長してからも注文を戻さなかった理由は分からない。


 午後四時を過ぎると、店内の客は一人、また一人と帰っていった。


 母親はブラックコーヒーを飲み終えたあとも、窓際の席に残っていた。


「まだ帰らへんの?」


 ひよりが尋ねる。


「ひよりの仕事、もうすぐ終わるんやろ?」


「あと三十分くらい」


「ほんなら、待ってる。一緒に帰ろう」


「別にええけど」


 ひよりは空になったカップを下げようとした。


 その手を止め、母親の向かいにある椅子を見る。


 子どもの頃、数え切れないほど座った席。


「お母さん」


「何?」


「なんで、私が大きくなってからもカフェオレを頼んでたん?」


 母親は窓の外へ目を向けた。


 商店街を、学校帰りの子どもたちが歩いている。その中には、母親と手をつないでいる小さな女の子もいた。


「最初は、ひよりが飲みたがるからやったよ」


「それは聞いた」


「ブラック飲んで、ものすごい顔してたなあ」


「それは覚えてへん」


「写真撮っといたらよかった」


「撮らんでええねん。それで、なんで戻さんかったん?」


 母親は少しだけ考えた。


「戻すきっかけがなかったんかな」


「何それ」


「ひよりとここに来て、向かいに座って、カフェオレを飲む。それがいつものことになってたから」


「ブラックの方が好きなんやろ?」


「好きやよ」


「ほんなら、我慢してたん?」


「我慢やないよ」


 母親は穏やかに笑った。


「一人で飲むブラックも好きやけど、ひよりと飲むカフェオレも好きやったから」


 同じ店の、同じ席。


 けれど、母親にとって二つの飲み物は同じものではなかった。


 ブラックコーヒーは、自分一人のための飲み物。


 カフェオレは、娘と過ごす時間の飲み物。


「ひよりが大きくなったら、いつか二人でブラックを飲むんかなって思ってたんやけどね」


 母親がひよりを見る。


「まさか十九歳になっても、クリームソーダ飲んでるとは思わんかった」


「好きなんやからええやん」


「さくらんぼも最後まで残してるし」


「それもええやん」


 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


 ひよりの勤務時間が終わった。


 エプロンを外したひよりは、すぐには帰らず、母親の向かいへ腰を下ろした。


「義雄さん、カフェオレ一つと、クリームソーダ一つお願いします」


「自分で作れ」


「勤務時間終わりました。今はお客さんです」


「都合のええ客やな」


 口ではそう言いながら、義雄はカフェオレを作り始めた。


 ひよりは出来上がったカフェオレを受け取り、母親の前へ置く。


「お待たせしました。いつものです」


「今日はブラックの気分やったんやけど」


「私がいるときは、こっちがいつもなんやろ?」


 母親は少し驚いたあと、カップを両手で包み込んだ。


「そうやったね」


 義雄が、ひよりの前へクリームソーダを置く。


 透き通った緑色の炭酸水。


 丸いバニラアイス。


 その一番上には、真っ赤なさくらんぼが載っている。


 ひよりはグラスを持ち上げ、向かいに座る母親を見た。


 昔と同じ席。


 昔と同じ飲み物。


 けれど、あの頃とは違い、今は自分が母親へカフェオレを運んだ。


「大きくなったね」


 母親が静かに言った。


「急に何?」


「小さい頃は、私の飲んでるもの何でも欲しがってたのに」


「子どもやったからね」


「今は、私に出してくれるようになったんやなと思って」


 ひよりは照れくさくなり、クリームソーダへ口をつけた。


「ただのアルバイトやで」


「それでもよ」


 母親はカフェオレを一口飲み、懐かしそうに目を細めた。


「やっぱり、ひよりと飲むならこれやね」


 店の外では、夕暮れの商店街を人々が行き交っている。


 店や街並みは、これから少しずつ変わっていくのかもしれない。


 ひよりも、いつまでも子どものままではいられない。


 それでも、この席で母親と向かい合う時間だけは、できることなら変わらないでほしい。


 ひよりはそう思いながら、グラスの上に残されたサクランボを見つめた。


「ひより、またアイス溶けてるで」


「分かってる。一番好きなものは最後に残すねん」


 子どもの頃と同じ言葉に、母親は優しく笑った。


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