第二話 二人の持ち主
朝から降り続いていた雨は、夕方になってもやむ気配がなかった。
寝屋川一番街商店街のアーケードを歩く人々は、傘についた雨粒を払いながら、それぞれの店へ入っていく。
その一角にある喫茶こもれびにも、扉が開くたび、湿った空気が入り込んでいた。
「いらっしゃいませ」
高瀬ひよりは、入ってきた女性へ声をかけた。
女性は七十歳くらいだろうか。濡れた紺色の傘を閉じると、入口の傘立てへ入れた。
「今日はよう降りますね」
千鶴が話しかける。
「ほんまに。家からここまで来るだけで、靴がびしょびしょです」
女性は困ったように笑い、窓際の席へ座った。
「ご注文はお決まりですか?」
「温かい紅茶をお願いします」
「かしこまりました」
ひよりが注文を伝えると、義雄はすぐに紅茶の準備を始めた。
それから三十分ほどして、女性は会計を済ませた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
女性が店を出ていく。
扉のベルが鳴り、その後ろ姿が商店街を歩く人々の中へ紛れていった。
閉店時間を迎え、ひよりが店内の掃除を始めた頃には、雨も小降りになっていた。
「ひよりちゃん、傘立ても確認してくれる?」
「はい」
入口へ向かったひよりは、傘立ての中をのぞき込んだ。
一本だけ、紺色の傘が残っている。
「あれ? 誰か忘れてますね」
傘を持ち上げると、義雄がカウンターの奥からこちらを見た。
「夕方に来てた人やろ」
「紅茶を頼んだ女の人ですか?」
「多分な」
「追いかけたら、まだ間に合いますかね?」
「もう三十分以上前やで」
千鶴が苦笑する。
「明日、取りに来はるかもしれへんし、預かっとこ」
「分かりました」
ひよりは傘についた水滴を拭き取り、入口近くの壁へ立てかけた。
翌日の昼過ぎ。
昨日の雨が嘘だったかのように、商店街には明るい日差しが差し込んでいた。
昼の混雑が落ち着き、ひよりが空いたテーブルを拭いていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、制服姿の男子高校生だった。
短く切った黒髪に、肩から下げた紺色の鞄。店内を見回したあと、入口の壁に立てかけられた傘へ目を向けた。
「あの、それ……」
高校生が紺色の傘を指さす。
「昨日の忘れ物ですけど、お客さんのですか?」
「はい。多分、僕の傘です」
ひよりは傘へ手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。
忘れ物を名乗る人物へ、そのまま渡すわけにはいかない。
「何か特徴はありますか?」
「留め具の裏を白い糸で縫ってます。買ったときから緩かったんで、自分で直しました」
ひよりが確認すると、傘をまとめる留め具の裏側に、白い糸が残っていた。
「本当ですね」
「じゃあ、持って帰ってもいいですか?」
「お名前だけ聞いてもいいですか?」
「岸本晴翔です」
「岸本さんですね。少し待ってください」
ひよりが傘を渡そうとした、そのときだった。
扉のベルが鳴る。
「すみません。昨日、傘を忘れてしまって……」
入ってきたのは、昨日紅茶を注文した女性だった。
女性は、ひよりが持っている紺色の傘を見る。
「ああ、それです。預かってくださってたんですね」
ひよりの手が止まった。
「こちらの傘ですか?」
「はい。私のです」
高校生が驚いたように女性を見る。
女性も高校生へ目を向けた。
二人の視線が重なった瞬間、女性の表情がわずかに変わった。
ひよりはそれを見逃さなかった。
「あの……こちらの方も、自分の傘だとおっしゃっているんです」
「え?」
女性は高校生を見つめる。
「あなたの傘?」
「はい」
高校生は答えたものの、先ほどより声が小さくなっていた。
「こちらの方は、留め具の裏を白い糸で縫ったことをご存じでした」
「でも、その傘は私のものです」
女性は傘の持ち手を指さした。
「持ち手の内側に、小さな花の印があるはずです」
ひよりが傘を裏返す。
木製の持ち手の内側には、小さな花の印が刻まれていた。
「あります……」
ひよりは傘と二人の顔を交互に見た。
高校生は、留め具の白い糸を知っていた。
女性は、持ち手の花の印を知っていた。
どちらも、実際に傘を使った人物でなければ分からない特徴だった。
「どういうこと?」
千鶴がカウンターから出てくる。
「お二人とも、この傘の特徴を知ってるんです」
「同じ傘を使ってたとか?」
「この人とは、会ったこともありません」
女性は静かに答えた。
高校生も、うつむいたまま言う。
「僕も知りません」
そう言いながら、二人は同じ仕草をしていた。
右手の親指で、人差し指の爪をなぞっている。
ひよりは傘を預かり直した。
「すみません。どちらのものか確認できるまで、今すぐお渡しすることはできません」
「そうですよね……」
女性は納得したようにうなずいた。
「夕方、もう一度来ます。それまで預かっていただけますか?」
「分かりました」
女性は店を出る前に、もう一度だけ高校生を見た。
「岸本……晴翔さん、でしたね」
「はい」
「そうですか」
それだけ言うと、女性は店を出ていった。
高校生は女性の背中を見送ったあと、ひよりへ顔を向けた。
「僕も、あとで来ます」
「あの人とは、本当に会ったことがないんですか?」
「ありません」
高校生は答えた。
しかし、その目はひよりではなく、扉の向こうへ向けられていた。
高校生が帰ったあと、ひよりは紺色の傘をカウンターへ置いた。
「同じ傘を二人が自分のものやって言うなんて、どういうことやろ」
「どっちかが嘘ついてるんやない?」
千鶴が言う。
「でも、二人とも傘の特徴を知ってました」
「ほんなら、二人で使ってたとか」
「二人は会ったことがないって言ってましたよ」
ひよりは傘を開いた。
濃い紺色の傘布には目立った汚れがなく、比較的新しく見える。
一方、木製の持ち手には細かな傷がいくつもあり、長い間使われていることが分かった。
「何してるんや」
義雄が尋ねる。
「傘を調べてます」
「見たら分かる」
「持ち主が二人いるんですよ。気になるやないですか」
「壊すなよ」
「壊しません」
ひよりは傘をゆっくり回した。
八本ある骨のうち、一本だけ色がわずかに違う。傘布と骨をつなぐ糸も、その部分だけ黒色だった。
留め具の裏に使われているのは、晴翔が話したとおり白い糸だ。しかし糸は汚れており、新しい傘布とは釣り合っていない。
「持ち手は古いのに、傘布は新しい……」
ひよりはつぶやいた。
「それに、骨も一本だけ交換されてる」
「修理したんやろ」
義雄が何気なく答える。
ひよりは顔を上げた。
「修理……」
もう一度、傘全体を見る。
女性が説明したのは、持ち手にある花の印。
晴翔が説明したのは、傘布についている留め具。
二人はそれぞれ、傘の異なる部分の特徴を知っていた。
「もしかして……」
ひよりは、商店街の中へ目を向けた。
少し離れたところに、古くから営業している傘や靴の修理店がある。
「千鶴さん、ちょっとだけ店を出てもいいですか?」
「どこ行くの?」
「あの傘が、最初から一本の傘だったのか確かめてきます」
ひよりが修理店へ傘を持っていくと、店主はすぐに見覚えがあると答えた。
「これ、うちで直した傘やな」
「やっぱり。どこを修理したんですか?」
「ほとんど全部や。残ってるのは持ち手と軸くらいやな。傘布も骨も、別の傘から使った」
「その別の傘を持ってきた人は?」
店主は答えるのをためらった。
「それは、本人に聞いた方がええ」
その言葉だけで、ひよりには十分だった。
夕方。
先に店へ戻ってきたのは、晴翔だった。
ひよりは彼を窓際の席へ案内した。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「あの傘、本当はあなたのものではありませんよね?」
晴翔は答えなかった。
「白い糸で縫われた傘布は、あなたが使っていたもの。でも、持ち手と軸は、昨日来た女性のものです」
晴翔が顔を上げる。
「修理店で確認しました。あの傘は、二本の傘を組み合わせて作られていました」
「……そうです」
晴翔は観念したようにうつむいた。
「あの人の傘が壊れたのを、前に商店街で見かけたんです。修理店に預けたのを確認してから、僕の傘を持っていきました」
「部品として使ってほしいって?」
「同じくらいの大きさやったから、使えると思って」
「どうして、そこまでしたんですか?」
晴翔はすぐには答えなかった。
右手の親指で、人差し指の爪をなぞる。
「昨日の人、あなたのことを知ってましたよね?」
「そんなわけ……」
「名前を聞いたとき、驚いてました。それに、あなたたちは緊張したときに同じ仕草をします」
晴翔の手が止まった。
「同じ仕草だけで、家族やとは言い切れません。でも、あなたはあの人の傘を直すために、自分の傘を渡した。今日も、この傘があの人のものだと知っていたから、持って帰ろうとしたんですよね?」
長い沈黙のあと、晴翔が小さく息を吐いた。
「あの人は、僕の祖母です」
晴翔の両親は、彼が幼い頃に離婚していた。
母親に引き取られ、名字も変わった。それ以来、父方の祖母である文子とは一度も会っていないという。
「僕が六歳のときが最後です。向こうは、今の僕の顔なんか覚えていないと思ってました」
「でも、文子さんは気づいてた」
「多分……」
「晴翔さんも、すぐに分かったんですか?」
「父から送られてきた写真に写ってたんです。それで、商店街で見かけたときに……」
声をかけようとは思った。
しかし、十年以上会っていない祖母を前にすると、何を話せばよいのか分からなかった。
そのとき、文子の傘が風にあおられ、骨が折れた。
晴翔は声をかける代わりに、傘を直すことを選んだ。
「今日、傘を取りに来たのは?」
「昨日、あの人がこの店を出たあと、傘を忘れてることに気づいたんです。僕が持っていって、家の前に置いておこうと思って」
「だから、自分の傘やって嘘をついたんですね」
「すみません」
「私に謝ることではないですけど、忘れ物を勝手に持って帰ったらいけませんよ」
「はい……」
扉のベルが鳴った。
二人が振り返る。
文子が、入口に立っていた。
晴翔の表情が強張る。
文子はまっすぐ窓際の席へ歩いてきた。
「やっぱり、晴翔やったんやね」
晴翔は何も答えられなかった。
「大きくなったね」
「……お久しぶりです」
十年以上ぶりに交わされた言葉は、それだけだった。
ひよりは壁に立てかけていた紺色の傘を手に取り、文子へ差し出した。
「確認できました。この傘は、文子さんのものです」
「ありがとう」
文子は傘を受け取ると、留め具の白い糸へ目を向けた。
「この傘の部品をくれた人に、ずっとお礼を言いたかったんです」
晴翔はうつむいている。
文子も、無理に顔を上げさせようとはしなかった。
「大事に使わせてもらいます」
晴翔の右手が、わずかに震えた。
「……はい」
文子は傘を抱え、店の出口へ向かった。
扉の前で一度だけ立ち止まる。
「また、ここで会える?」
晴翔はしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「今度は、ちゃんと客として来ます」
「そう」
文子は嬉しそうに笑った。
扉のベルが鳴り、紺色の傘が商店街の中へ消えていく。
「ひよりちゃん、よう分かったなあ」
千鶴が感心したように言う。
「傘を見たら、使われてる時間が部分ごとに違いましたから」
「名探偵みたいやな」
「それほどでもあります」
「そこは謙遜するところや」
義雄が呆れたように言う。
「でも、二人が家族やっていうのは、傘だけでは分かりませんでした」
ひよりは、文子が出ていった扉を見る。
「二人とも、知らないって言いながら、お互いのことばかり見てましたから。それに目尻が似ていました」
一本の傘に、二人分の時間が残されていた。
古い持ち手と、新しい傘布。
それぞれ別の持ち主のもとで使われてきたものが、今は一つになっている。
離れていた二人の関係も、あの傘のように簡単に元へ戻るわけではない。
それでも、次に同じ店で会う約束はできた。
今は、それだけで十分なのかもしれない。




