第一話 二杯分の代金
高瀬ひよりが喫茶こもれびでアルバイトを始めて、一か月が経った。
最初の頃は、コーヒーカップを運ぶだけでも両手に力が入っていた。注文を一度で覚えられず、何度も聞き返したこともある。
しかし現在では、常連客の顔と注文も少しずつ覚え、店内の様子を見ながら動けるようになっていた。
「ひよりちゃん、三番さんにブレンドと卵サンドお願い」
「はい!」
千鶴の声に返事をして、ひよりは銀色のトレーを持ち上げた。
コーヒーと卵サンドを載せたまま、テーブルの間を危なげなく進んでいく。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーと卵サンドです」
「ありがとう。ひよりちゃんも、だいぶ慣れてきたなあ」
「ほんまですか?」
「最初は見てるこっちが怖かったからな。コーヒー運ぶだけで、爆弾でも持ってるみたいな顔してたで」
「そこまで緊張してませんよ」
ひよりが頬を膨らませると、常連客の男性は楽しそうに笑った。
カウンターへ戻ると、義雄が新しいコーヒーを淹れていた。
「褒められてたな」
「聞いてたんですか?」
「店が狭いから聞こえる」
「私も、だいぶ仕事できるようになったと思いません?」
「自分で言うてる間は、まだまだや」
「ちょっとくらい褒めてくれてもええやん」
義雄は答えず、出来上がったコーヒーをカウンターへ置いた。
ただ、以前なら任せてもらえなかった二杯分の注文を、最近ではひより一人で運ばせてもらえるようになった。言葉にはしなくても、少しは認めてくれているのだろう。
ひよりが空いた皿を片づけていると、店の扉が開いた。
カラン、と乾いたベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、灰色の帽子をかぶった老人だった。
年齢は七十代前半くらい。紺色の上着に、使い込まれた革の鞄を提げている。
ひよりも何度か見かけたことがあった。毎週金曜日の午後三時頃にやって来て、カウンターの一番端へ座る常連客だ。
「野口さん、いらっしゃい」
千鶴が声をかける。
野口と呼ばれた老人は、軽く右手を上げて応えた。
「いつもの、もらえるか」
「あいよ」
義雄は注文を聞き返すことなく、コーヒー豆を挽き始めた。
挽きたての豆の香りが店内へ広がっていく。
義雄が用意したのは、ブレンドコーヒー一杯だけだった。
野口は新聞を読みながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。
特別なことを話すわけではない。
千鶴が話しかければ短く答え、義雄とはほとんど言葉を交わさない。それでも、居心地が悪そうな様子はなかった。
四十分ほど経つと、野口は新聞を畳み、空になったカップをカウンターへ戻した。
「ごちそうさん」
「ありがとうございます」
その日の会計を担当したのは、ひよりだった。
「ブレンドコーヒー一杯で、五百円です」
野口は財布から千円札を取り出し、カウンターへ置いた。
ひよりは千円札を受け取り、レジを開ける。
「千円お預かりします。五百円のお返しです」
「いや、お釣りはええよ」
「え?」
「二杯分や」
ひよりは、野口が座っていた場所を確認した。
使用済みのカップは一つしかない。
「でも、コーヒーは一杯だけですよね?」
「ひより」
義雄が低い声で呼び止めた。
「それで合ってる」
「合ってるって……」
野口はそれ以上説明せず、帽子をかぶり直した。
「ほな、また来週」
「ありがとうございました」
扉のベルが鳴り、野口の背中が商店街の中へ消えていく。
ひよりは、返すはずだった五百円玉を手にしたまま義雄へ顔を向けた。
「義雄さん、本当に二杯分で合ってるんですか?」
「合ってる」
「野口さん、一杯しか飲んでませんよ」
「知ってる」
「ほんなら、なんで二杯分払ったんですか?」
「本人が払いたい言うてるんやから、ええやろ」
「よくないですよ。間違えてるんやったら、返さないと」
「間違えてへん」
義雄は受け取った千円札をレジへ入れると、カウンターの奥へ手を伸ばした。
そこには、小さな木札が何枚も並べられていた。
義雄はその中から一枚を選び、裏返す。
木札の表側には、小さなコーヒーカップの絵が描かれていた。
「その木札、何ですか?」
「仕事に戻れ」
「絶対、二杯目と関係ありますよね?」
「ひよりちゃん」
千鶴が苦笑しながら、空いたテーブルを指さした。
「四番さん帰られたから、片づけお願い」
「……はーい」
ひよりは不満そうに返事をしながら、布巾を手に取った。
しかし、テーブルを拭いている間も、あの木札が気になって仕方がなかった。
野口は、コーヒーを一杯しか飲んでいない。
それなのに二杯分の代金を支払った。
義雄は二杯目を淹れず、代わりに木札を一枚裏返した。
では、野口が買ったもう一杯は、どこへ行ったのだろう。
それから二日後の日曜日。
昼の忙しい時間が過ぎ、店内が落ち着き始めた頃だった。
扉のベルが鳴り、一人の若い男性が入ってきた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
色あせたパーカーに、大きなリュックサック。男性は店内を見回したあと、遠慮がちにカウンター席へ座った。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
ひよりが水とメニューを置く。
男性はメニューを開き、値段を確認している。
「あの……」
「はい」
「すみません。やっぱり、いいです」
男性はメニューを閉じ、席を立とうとした。
その様子を見ていた義雄が声をかける。
「兄ちゃん、コーヒーでええか」
「でも、今日は……」
「一杯、預かってる」
その言葉を聞いた瞬間、ひよりはカウンターの奥へ目を向けた。
義雄は、二日前に裏返した木札を手に取っていた。
小さなコーヒーカップの絵が描かれた木札。
義雄はそれを元の向きに戻すと、いつもどおりコーヒー豆を挽き始めた。
「ひより、これ持っていけ」
出来上がったブレンドコーヒーが、ひよりの前へ置かれる。
ひよりはカップを受け取り、男性の前へ運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
男性は両手でカップを包み込むように持ち、温かいコーヒーを少しずつ飲み始めた。
先ほどまで強張っていた表情が、わずかに緩んでいく。
男性はコーヒーを飲み終えると、何度も頭を下げて店を出ていった。
代金は支払っていない。
けれど、義雄も千鶴も男性を呼び止めなかった。
「なるほど……」
ひよりは、木札を見ながらつぶやいた。
「分かったんか?」
義雄が尋ねる。
「野口さんが払った二杯目は、あとから来る誰かのために預けてあったんですね」
義雄は何も答えない。
ひよりは構わず続けた。
「野口さんが二杯分を払ったあと、義雄さんは木札を裏返した。今日はあの人にコーヒーを出す前に、その木札を元へ戻した。木札は、先に代金を払ってもらったコーヒーの数を表してるんですよね?」
「正解や」
千鶴が笑顔で答えた。
「お金がない人に無料で出してるんですか?」
「誰にでも出してるわけやないよ」
「ほんなら、どうやって決めてるんです?」
「その人の顔を見て、義雄さんが決めるの」
「そんな適当な……」
「四十年近く店をやってたら、本当に困ってる人くらい分かるんやって」
ひよりは義雄を見る。
「野口さんは、どうしてそんなことをしてるんですか?」
「それは俺が話すことやない」
「千鶴さんは知ってるんですか?」
「知ってるけど、ひよりちゃんが知ってどうするの?」
「どうするって……」
尋ね返され、ひよりは言葉に詰まった。
野口が二杯分を支払う理由を知りたい。
ただ、それを知ったところで、ひよりに何かできるわけではない。
「気になるから知りたいだけです」
正直に答えると、義雄が静かに口を開いた。
「謎を解くんはええ」
ひよりは義雄を見る。
「せやけど、人の心まで勝手に開けたらあかん。本人が隠してることには、隠してる理由がある」
ひよりはもう一度、木札へ目を向けた。
野口は、二杯目を誰が飲むのか尋ねなかった。
今日の男性がコーヒーを受け取ったことも知らない。
おそらく、知ろうともしていないのだろう。
誰かに感謝されたくてしていることではない。
「野口さんは、自分が払ってるって知られたくないんですね」
「多分な」
千鶴が優しく答えた。
次の金曜日。
午後三時を少し過ぎた頃、いつものように野口が店へやって来た。
「いらっしゃいませ」
「いつもの、もらえるか」
「はい。ブレンドコーヒーですね」
ひよりは、それ以上何も尋ねなかった。
義雄が淹れたコーヒーを野口の前へ運ぶ。
四十分後、野口は千円札をカウンターへ置いた。
「二杯分や」
ひよりはお釣りを返さず、千円札を受け取った。
「ありがとうございます」
野口がわずかに目を細める。
「何も聞かへんのか?」
「聞いてほしいんですか?」
「いや」
「ほんなら、聞きません」
ひよりが笑うと、野口もほんの少しだけ笑った。
「そうか」
義雄は千円札をレジへ入れ、木札を一枚裏返した。
その一杯を誰が飲むのかは、まだ分からない。
けれど、きっと必要としている誰かが、この店へやって来る。
謎の答えを知ることと、その先にある事情をすべて暴くことは違う。
ひよりは働き始めて一か月にして、そのことを少しだけ知った。
扉のベルが鳴り、野口が商店街の中へ帰っていく。
カウンターの奥では、コーヒーカップの描かれた木札が、静かに次の客を待っていた。




