プロローグ 私の好きな場所
”まえがき”
大阪府寝屋川市に実在する、寝屋川一番街商店街を舞台にした日常ミステリーです。
寝屋川市で生まれ育った僕にとって、寝屋川一番街商店街は昔から思い入れのある場所です。
そんな商店街の一角にある架空の喫茶店「喫茶こもれび」を舞台に、好奇心旺盛な女子大学生・高瀬ひよりが、店を訪れる人々の小さな謎に触れていきます。
大阪らしい楽しい会話を交えながら、温かく、ときには少し切ない余韻の残る物語をお届けできればと思います。
なお、寝屋川一番街商店街は実在しますが、喫茶こもれびをはじめ、作中に登場する店舗、人物、出来事はすべてフィクションです。
『喫茶こもれびの謎解き日和 ~寝屋川一番街の小さな日常ミステリー~』
どうぞよろしくお願いいたします。
高瀬ひよりには、子どもの頃から変わらず好きな場所がある。
京阪本線・寝屋川市駅の東口を出てすぐ。
寝屋川一番街商店街の一角にある、昔ながらの小さな店。
その名は、喫茶こもれび。
深い茶色の木製扉。
少し色あせた緑色の看板。
店内に並んだ木製のテーブルと椅子。
壁に掛けられた時計の音。
そして、扉を開けるたびに鳴る、乾いたベルの音。
初めてこの店を訪れたのが何歳のときだったのか、ひよりは覚えていない。
気づいたときには、母親と一緒に窓際の席へ座っていた。
「お母さん、まだ?」
「もうちょっとだけ。せっかく来たんやから、ゆっくりしようよ」
幼いひよりは頬を膨らませながら、背の高いグラスを両手で抱えていた。
透き通った緑色の炭酸水。
その上に浮かぶ、丸いバニラアイス。
一番上には、真っ赤なサクランボが載っている。
アイスはすでに半分ほど溶けていたが、サクランボだけは大切に残していた。
「ひよりちゃん、サクランボ嫌いなん?」
カウンターの中から、千鶴が尋ねた。
「好きやで」
「ほんなら、先に食べたらええやん」
「最後に食べるねん。一番好きやから」
幼いひよりが当然のように答えると、千鶴は目尻を下げた。
「聞いた? 一番好きなものは最後に残すんやって」
千鶴が隣にいる夫へ声をかける。
コーヒーを淹れていた義雄は、こちらを見ないまま答えた。
「聞こえてる」
「サクランボだけ大事に残して、アイス全部溶けてるけどな」
「それは言わんといて!」
ひよりが慌ててグラスを隠すと、母親と千鶴が声を上げて笑った。
義雄は何も言わなかった。
ただ、しばらくして運ばれてきたホットケーキには、注文した覚えのない小さなアイスクリームが添えられていた。
喫茶こもれびは、義雄と千鶴の老夫婦が営んでいる。
口数が少なく、少し不愛想に見える義雄。
明るく話好きで、いつも店の中を笑顔にする千鶴。
二人は、幼い頃から店へ通うひよりを、実の孫娘のように可愛がってくれた。
母親と寝屋川市駅へ出かけるたび、帰りには決まってこの店へ立ち寄った。
買い物をした日。
遠くへ出かけた帰り。
学校で褒められた日。
友達と喧嘩して、母親にも何も話したくなかった日。
嬉しそうにしていると、千鶴はすぐに理由を尋ねてきた。
落ち込んでいるときは、二人とも何も聞かなかった。
そんな日は義雄が黙ったまま、いつもより少しだけ甘いココアを出してくれた。
ひよりにとって喫茶こもれびは、家でも学校でもない、もう一つの居場所だった。
ひよりは昔から、分からないことを放っておけない子どもだった。
道端に片方だけ落ちている手袋を見つければ、もう片方はどこへ行ったのだろうと考えた。
いつも同じ時間に店へ来る人が現れなければ、今日は何があったのだろうと気になった。
母親が「なんでもない」と言いながら笑っていれば、本当になんでもないのだろうかと、その表情をじっと観察した。
「ひよりは、ほんまに何でも気になるんやなあ」
母親には何度もそう言われた。
「気になるもんは、しゃあないやん」
「知らん方がええこともあるよ」
「でも、知らんかったら、知らん方がええかどうかも分からへんやん」
幼いひよりがそう答えると、母親はいつも困ったように笑った。
その性格は、十九歳になった現在も変わっていない。
むしろ行動範囲が広がり、出会う人が増えた分だけ、気になることも増えていた。
大学へ入学した春。
久しぶりに母親と喫茶こもれびを訪れたひよりは、店の壁に貼られた一枚の紙を見つけた。
『アルバイト募集』
手書きの文字を見た瞬間、ひよりは千鶴に尋ねた。
「アルバイト、募集してるん?」
「そうやねん。最近、二人だけやと大変になってきてなあ」
千鶴はそう言ったあと、ひよりの顔をじっと見つめた。
「ひよりちゃん、やってみる?」
「私が?」
「小さい頃から店のこと知ってるし、変な人を雇うより安心やわ」
「ひよりも十分変わってるけどな」
母親が横から口を挟む。
「お母さんは黙ってて」
ひよりは言い返しながら、もう一度募集の紙を見上げた。
昔から好きだった場所で働く。
これまで客席から眺めていた店の、カウンターの内側に立つ。
少し不思議な気持ちはしたが、迷いはなかった。
「私でよかったら、働かせてください」
こうして高瀬ひよりは、喫茶こもれびのアルバイトになった。
白いブラウスに、黒いエプロン。
初めてその姿を鏡で見たときは、少しだけ大人になったような気がした。
もっとも、義雄からコーヒーカップの持ち方を注意され、千鶴からは休憩のたびにお菓子を渡されるため、二人からの扱いは子どもの頃とほとんど変わっていない。
母親も、ときどき客として店を訪れる。
「いらっしゃいませ――って、お母さん?」
「来たよ」
「なんで来たん?」
「喫茶店にコーヒー飲みに来たらあかんの?」
「あかんことないけど……」
「ひより、ちゃんと働いてます?」
「働いてるよ。たまにつまみ食いしてるけど」
「してへんから!」
千鶴が幼い頃の話を始め、母親がそれに加わる。
義雄まで昔の失敗を覚えているため、ひよりはそのたびに恥ずかしい思いをする。
それでも、母親へカフェオレを運ぶ時間を、ひよりは嫌いではなかった。
かつて母親の向かいでクリームソーダを飲んでいた自分が、今は母親の注文を取り、飲み物を運んでいる。
変わっていないように見える店でも、時間は確かに流れている。
そして現在も、仕事を終えたひよりが自分のために選ぶのは、コーヒーではなくクリームソーダだった。
サクランボを最後まで残す癖も、昔のままである。
「またアイス溶けてるで」
千鶴に笑われ、ひよりは慌ててグラスを自分の方へ引き寄せた。
「分かってます。これでいいんです」
「一番好きなものは最後に残すんやったな」
義雄が静かに言う。
「覚えてたんですか?」
「何回見たと思ってんねん」
ぶっきらぼうな言葉に、ひよりは小さく笑った。
寝屋川市駅を多くの人が行き交い、商店街の店も少しずつ姿を変えていく。
それでも、喫茶こもれびの扉を開ければ、昔と同じベルの音が鳴る。
コーヒーとトーストの香りがして、義雄と千鶴がいる。
高瀬ひよりにとって、ここは今も変わらず大切な場所だった。
そしてこれから、この小さな喫茶店でさまざまな人と出会うことになる。
けれど、それはもう少し先の話である。




