第二十三話 ひよりの決意
自宅へ帰ると、居間では父と母が並んでテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日は遅かったな」
「ちょっと話があって」
ひよりが答えると、母がテレビの音量を下げた。
「何かあったん?」
「うん。二人に相談したいことがあるねん」
ひよりは鞄を置き、両親の向かいへ座った。
喫茶こもれびで、義雄と千鶴から店を継いでみないかと打診されたこと。
仕入れや帳簿、税金など、経営に必要なことは一から教えてくれると言われたこと。
簡単な仕事ではないため、無理なら断っても構わないと言われたこと。
そして、自分がその話を前向きに考えていることを、ひよりは順番に説明した。
父と母は途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いていた。
「どう思う?」
話し終えたひよりが尋ねると、父は腕を組んだ。
「そうやなあ」
「やっぱり、普通に就職した方がええと思う?」
「何でそう思うんや?」
「店を継ぐって、安定してるとは限らへんやろ。売り上げが悪い月もあるし、機械が壊れたらお金もかかるって義雄さんも言ってた」
「そこまで聞いたうえで、ひよりはどうしたいんや?」
父に問い返され、ひよりはすぐには答えられなかった。
「私は……」
怖くないわけではない。
会社へ就職する道を選ばず、長く続いてきた店を背負う。自分の判断一つで、店の未来が変わることもある。
それでも、喫茶こもれびが自分の知らない誰かへ渡ることや、いつかなくなってしまうことを想像すると、胸の奥が苦しくなった。
「こもれびを、なくしたくない」
ひよりはゆっくりと言った。
「義雄さんと千鶴さんが作ってきた店を、この先も残したい。常連さんがいつでも帰ってこられて、初めて来た人にも居心地がいいと思ってもらえる場所にしたい」
両親は黙って聞いている。
「もちろん、好きっていうだけで続けられるとは思ってへん。経営のことも勉強せなあかんし、今までみたいにアルバイトの立場ではおられへん。責任を持つのは怖い」
「うん」
「でも、ほかの会社で働いてる自分を考えるより、こもれびで働き続ける自分の方が、ずっとはっきり想像できるねん」
言葉にしてみると、自分の気持ちは思っていた以上に明確だった。
「私、こもれびを継ぎたい」
ひよりがそう言うと、母は穏やかに笑った。
「ほんなら、継いだらええやん」
「そんな簡単に言ってええの?」
「簡単に決めたわけやないんやろ?」
「それはそうやけど」
「ひよりが三年間、どんな気持ちであの店に通ってたかは、お母さんも見てきたからね」
母は少しだけ身を乗り出した。
「朝早くても文句を言いながら起きて、帰ってきたら店であったことをずっと話してた。常連さんが喜んでくれたとか、義雄さんに褒められたとか、また謎解き娘って呼ばれたとか」
「最後のは喜んでへんよ」
「でも、ちょっとうれしそうやったで」
「それは気のせい」
ひよりが否定すると、母は楽しそうに笑った。
「お母さんは、ひよりがやりたいようにしたらええと思う。好きなように生きたらええよ」
「失敗するかもしれへんで」
「どこへ就職しても、絶対に失敗せえへん保証なんてないやろ?」
父が口を開いた。
「会社へ入る道も、店を継ぐ道も、それぞれ大変なことはある。どっちを選んだら正解かなんて、今の時点では誰にも分からへん」
「お父さんは、反対せえへんの?」
「せえへんよ」
父は迷うことなく答えた。
「ひよりは頭もええし、いざというときの度胸もある。気になることがあったら、納得するまで調べるやろ。どこへ行っても、何をしても、きっと大丈夫や」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるで」
「好奇心が強すぎて、昔から心配してたけどね」
母が横から付け加える。
「やっぱり心配されてたんや」
「そら、閉まってる扉を見つけるたびに開けようとする子やったから」
「子どもの頃の話やん」
「今もあんまり変わってへんやろ」
父と母が顔を見合わせて笑う。
「ただし、気持ちだけで決めたらあかん」
父は少し真面目な表情へ戻った。
「店の売り上げや経費、建物の契約、設備を直す費用もきちんと確認すること。義雄さんと千鶴さんが、いつまで一緒に店へ立ってくれるのかも聞かなあかん」
「うん」
「分からんことを分からんままにせず、一つずつ教えてもらい。それでもやりたいと思えるなら、お父さんもお母さんも応援する」
「ありがとう」
ひよりが頭を下げると、母が笑った。
「家族にまで、そんなかしこまらんでええよ」
「でも、大事なことやから」
「それなら、店を継ぐことが正式に決まったら、コーヒーを一杯おごってな」
父が言う。
「お金払って飲みに来てよ」
「家族割引は?」
「考えとく」
「もう店主みたいやな」
「まだ決まっただけで、何も始まってへんよ」
そう答えながらも、ひよりの胸には確かな決意が生まれていた。
不安は消えていない。
それでも、自分が進みたい道は、もう見えている。
その夜、ひよりは自分の部屋へ戻ると、机の上に置かれた就職活動の資料を眺めた。
企業のパンフレット。
説明会でもらった資料。
書きかけのエントリーシート。
その横には、喫茶こもれびで使っている古いメモ帳がある。
常連客の好みや、義雄から教わった豆の量、千鶴のケーキ作りを手伝ったときの注意点が、細かな文字で書き込まれていた。
ひよりは、そのメモ帳を手に取った。
今まで自分が覚えてきたことは、店の仕事のほんの一部にすぎない。
これから学ばなければならないことは、いくらでもある。
それでも、学びたいと思った。
喫茶こもれびを、これからも続けていくために。
一週間後、ひよりはいつもより少し早く、喫茶こもれびへやって来た。
開店前の店内には、義雄と千鶴のほか、なぜか何人もの常連客が集まっていた。美咲も窓際の席に座っている。
「何でみんなおるん?」
「偶然や」
常連客の一人が答える。
「開店前にこれだけ集まる偶然があります?」
「たまたま早起きしたんや」
「全員そろって?」
「細かいことは気にせんでええ」
明らかに、ひよりが返事をしに来ることを知って待っていたらしい。
「義雄さん、話しました?」
「俺は何も言うてへん」
「私がちょっとだけ」
千鶴が申し訳なさそうに手を上げた。
「やっぱり千鶴さんやったんですね」
「みんな気になってたみたいやから」
「それで、返事は?」
美咲が待ちきれないように尋ねる。
「美咲が聞くことちゃうやろ」
「親友には聞く権利がある」
「ありません」
ひよりは一度深く息を吸い、義雄と千鶴の前へ進んだ。
二人が並んで、ひよりを見る。
初めてアルバイトとしてこの店へ立った日。
注文を間違えて慌てた日。
義雄からコーヒーの淹れ方を教わった日。
千鶴に看板娘と呼ばれ、何度も否定した日。
ここで出会った人たちと、解いてきた謎。
いくつもの思い出が、ひよりの胸をよぎった。
「義雄さん、千鶴さん」
「うん」
「家族とも相談しました。経営のことも、これから一つずつきちんと勉強します」
ひよりは二人へ向かって、深く頭を下げた。
「私に、喫茶こもれびを継がせてください」
店内が静まり返った。
やがて、千鶴が目元を押さえながら笑った。
「こちらこそ、お願いします」
「頭上げろ」
義雄が、いつもと変わらないぶっきらぼうな声で言う。
ひよりが顔を上げると、義雄はわずかに目を細めていた。
「これから覚えることは山ほどあるで」
「はい」
「途中で嫌になっても、簡単には投げ出されへんぞ」
「分かってます」
「コーヒーも、まだ俺の方がうまい」
「それは早めに追い抜きます」
「言うようになったな」
義雄が笑った瞬間、常連客たちから一斉に拍手が起こった。
「二代目店主、誕生や!」
「まだ卒業もしてません!」
「今日は祝いの日や!」
「コーヒーで乾杯しよう!」
「ケーキも出そうや!」
「勝手に注文増やさんといてください!」
誰かがクラッカーを取り出し、店内へ大きな音が響いた。
「何で用意してるんですか!」
「ひよりちゃんなら引き受けると思ってたからな」
「断ってたらどうするつもりやったんです?」
「普通に持って帰る」
「準備がよすぎるんですよ!」
千鶴が厨房からケーキを運び、義雄が全員分のコーヒーを淹れ始める。
開店前の喫茶店は、あっという間に宴会のような騒ぎになった。
「まだ朝ですよ!」
「祝い事に時間は関係ない!」
「近所迷惑になるから、声は抑えてください!」
「もう店主みたいやなあ」
「だから、まだです!」
ひよりが何度注意しても、常連客たちの盛り上がりは収まらなかった。
その隣で、美咲が目元をぬぐっている。
「何、泣いてるん?」
「泣いてへん」
「涙出てるで」
「これは、さっきのクラッカーの煙が目に入っただけや」
「煙なんか出てへんよ」
美咲はごまかすのを諦め、笑いながらひよりの肩をたたいた。
「よかったな、ひより」
「うん。ありがとう」
「絶対、履歴書持ってくるからな」
「本気か冗談か分からんから、やめて」
「本気に決まってるやろ」
「余計にやめて!」
「ちゃんと志望動機も考えてきたで」
「何て書くん?」
「店主と親友で、クリームソーダが飲み放題やと思ったから」
「その時点で不採用!」
「まかないで出してくれてもええやん!」
「働く前から要求多すぎるねん!」
二人のやり取りを聞き、店内にいた全員が声を上げて笑った。
義雄と千鶴も笑っている。
いつもの常連客たちがいて、美咲がいて、自分がいる。
店を継ぐと決めたからといって、明日からすべてが変わるわけではない。
ひよりはこれからも大学へ通い、卒業までに必要な勉強をする。店の経営について学び、義雄と千鶴から受け取るものを一つずつ増やしていく。
不安も、失敗も、きっと何度もある。
それでも、この人たちと一緒なら前へ進めると思った。
笑い声に満ちた喫茶こもれびの中で、ひよりは新しい未来へ向かって、最初の一歩を踏み出した。




