第二十四話 新しい門出
それから、さらに月日は流れた。
ひよりは大学へ通いながら、これまでどおり喫茶こもれびで働き、空いた時間には義雄から店の経営について教わった。
毎日の売り上げと仕入れにかかった費用を記録し、月ごとの利益を確認する。コーヒー豆や食材の値段が変われば、今の価格で店を続けられるか考えなければならない。
電気代や水道代、建物の賃料、設備の修理費用も必要になる。これまで客の立場やアルバイトの立場では見えていなかった数字が、店の裏側にはいくつも並んでいた。
「数字を見るだけで頭痛くなってきました」
帳簿を前に、ひよりが額を押さえる。
「大学の勉強より難しいか?」
義雄が尋ねる。
「難しいというより、間違えたときの怖さが違います。大学の試験なら私の点数が下がるだけですけど、こっちは店のお金がなくなるかもしれへんでしょ」
「それが分かってるなら、まだ大丈夫や」
「どういう意味ですか?」
「何も怖がらん奴の方が危ない。間違えるかもしれんと思って、何度も確認するくらいでちょうどええ」
「それなら、私に向いてるかもしれませんね」
「レジの金を三回も数えるからな」
「一円でも合わなかったら気になるんです」
「知ってる」
義雄は呆れたように言いながらも、帳簿の付け方を一つずつ教えてくれた。
千鶴からは、食材の仕入れや在庫の管理、ケーキの作り方を教わった。
美咲も時々店へ来て、ひよりが勉強している姿を眺めていた。
「店を継ぐって、コーヒー淹れるだけちゃうねんな」
「今さら気づいたん?」
「私は接客担当になるから、難しいことはひよりに任せるわ」
「まだ雇うって言ってへんから」
「人手が足りなくなってから泣きついても遅いで」
「そのときは求人を出す」
「まず親友を頼れよ!」
そんなやり取りを重ねているうちに、大学生活の最後の一年はあっという間に過ぎていった。
春。
ひよりと美咲は、そろって大学の卒業式を迎えた。
会場には色鮮やかな袴やスーツに身を包んだ卒業生が集まり、友人や家族と記念写真を撮っている。
式を終えた二人も、卒業証書を手に並んで写真を撮った。
「終わったなあ」
美咲が卒業証書の入った筒を眺めながら言う。
「四年間、長いと思ってたけど、終わってみたら早かったね」
「ひよりは半分くらい、こもれびにおったんちゃう?」
「ちゃんと大学にも通ってました」
「講義が終わった瞬間、誰よりも早く帰ってたやん」
「仕事があったからです」
「私は何回、置いていかれたか」
「美咲も一緒に来て、クリームソーダ飲んでたやろ」
「私は友達思いやからな」
「クリームソーダが目的やったくせに」
二人は笑い合った。
ひよりにとって、大学で過ごした四年間は、勉強だけを学んだ時間ではなかった。
美咲と出会い、多くの友人と過ごし、自分がこれから進みたい道を見つけた。
入学した頃は、卒業後に喫茶店を継ぐことになるとは想像もしていなかった。
しかし今は、その未来を自分で選んだことに迷いはなかった。
卒業式を終えた二人が喫茶こもれびへ向かうと、店の扉には一枚の紙が貼られていた。
『本日貸し切り』
「貸し切り?」
ひよりが首をかしげる。
「聞いてへんの?」
「何も」
「ほんなら入ってみようや」
美咲が扉を開けると、頭上のベルが鳴った。
「卒業おめでとう!」
店内から、一斉に声が上がる。
ひよりと美咲が驚いて立ち止まると、クラッカーの音が続けて鳴り響いた。
店内には義雄と千鶴、ひよりの両親、美咲の家族、いつもの常連客たちが集まっていた。
壁には千鶴が用意した横断幕が飾られている。
『ひよりちゃん、美咲ちゃん、大学卒業おめでとう!』
その下には、別の紙が貼られていた。
『祝・ひよりちゃん、正社員昇格!』
「正社員昇格って、何か変な書き方ですね」
「アルバイトを卒業して、正式な従業員になるんやろ?」
常連客の一人が答える。
「そうですけど、卒業祝いと比べて急に会社みたいになってません?」
「ほんなら、二代目店主就任祝いにするか?」
「まだ店主にはなってません!」
「ややこしいなあ」
常連客が首をかしげる。
「今はどういう立場なん?」
「大学を卒業したので、これからはこもれびの正社員として働きます。ただ、経営のことはまだ勉強中なので、オーナーは今までどおり義雄さんです」
ひよりが説明すると、義雄もうなずいた。
「店を継ぐと決めたからいうて、明日から全部任せられるわけやない。しばらくは俺が経営者として責任を持つ」
「私も、いきなり全部任されても困ります」
「ひよりちゃんでも、まだ分からんことあるんやな」
「当たり前です!」
「謎解き娘やから、帳簿を見たら全部分かるんかと思ってた」
「帳簿は謎解きで処理したらあかんものです!」
店内に笑い声が広がった。
こもれびが入っている建物は借り物であるため、店を正式に引き継ぐには、貸主や不動産会社との話し合いも必要になる。
義雄はすでに不動産会社へ、将来的にひよりへ店を譲りたいと伝えていた。今後は契約の条件や名義の変更、設備の扱いについて少しずつ確認し、ひよりが十分に経営を学んだ段階で責任者を引き継ぐ予定になっている。
義雄と千鶴も、すぐに店を離れるわけではない。
しばらくは三人で店へ立ちながら、ひよりが一人でも経営を続けられるように準備を進めていく。
「つまり、今は店主見習いやな」
父が言う。
「正社員兼、後継者候補です」
「もう継ぐって決めてるんやから、候補ではないやろ」
「じゃあ、後継者見習い?」
「何でもええやん。ひよりはひよりやろ」
母が笑いながら言った。
「それもそうやね」
「ほんなら、看板娘でええな」
常連客が結論づける。
「結局そこへ戻るんですか!」
「分かりやすいやろ?」
「大学を卒業しても、呼び方が何も変わってへんやん」
「何歳になっても看板娘は看板娘や」
以前にも聞いた言葉に、ひよりは呆れながら笑った。
千鶴が料理を運び、テーブルの上へ並べていく。
サンドイッチや唐揚げ、サラダに巻き寿司。中央には、卒業祝いの大きなケーキも用意されていた。
「千鶴さん、こんなに作ったんですか?」
「みんなにも手伝ってもらったんよ」
「私は唐揚げを一個味見したで」
美咲が得意そうに言う。
「それは手伝ったことにならへん」
「毒が入ってへんか確認したんや」
「誰が入れるねん」
「謎解き娘の周りでは、何が起きるか分からんからな」
「今日は事件を起こさんといて!」
全員が席へ着くと、義雄がコーヒーカップを持ち上げた。
「酒はないから、今日はこれでええな」
「美咲ちゃんは、このあと会社の集まりとかないんか?」
常連客が尋ねる。
「入社式は来月です。それまでは自由です」
「ほんまに内定を断らんかったんやな」
ひよりが念を押す。
「断ってへんよ。ひよりが雇ってくれへんから」
「私のせいにせんといて」
「まだ履歴書を出してへんだけや。会社で経験を積んでから、いつか持ってくるかもしれへんで」
「頼むから、まずは内定をもらった会社で真面目に働いて」
「その言い方、ほんまに店主みたいやな」
「まだ見習いです!」
義雄がカップを軽く掲げる。
「ほんなら、二人の大学卒業と、美咲ちゃんの就職、それからひよりの正式な入店を祝って」
「正式な入店って、今まで三年間何やったんですか?」
「細かいことは気にすんな」
「義雄さんまで適当にならんといてください」
「乾杯!」
ひよりの抗議を無視し、全員が声をそろえた。
「乾杯!」
カップやグラスが持ち上げられ、店内に笑い声が満ちていく。
ひよりは両親の隣に座り、義雄が淹れたコーヒーを一口飲んだ。
「卒業、おめでとう」
父が穏やかに言う。
「ありがとう」
「今日から社会人やね」
母も笑顔を向ける。
「まだ入社式みたいなものはないけどね」
「今の乾杯が入社式みたいなもんやろ」
「こんな騒がしい入社式、ほかにないと思う」
「ひよりには似合ってるよ」
母の言葉に、ひよりは店内を見回した。
自分の卒業を喜んでくれる家族。
一緒に大学を卒業した美咲。
いつも温かく迎えてくれる常連客たち。
これから多くのことを教えてくれる義雄と千鶴。
大学生活は終わった。
しかし、同時に新しい日々が始まろうとしている。
ひよりは、まだ喫茶こもれびの店主ではない。
経営について知らないことも多く、義雄に助けてもらわなければ判断できないこともある。店を正式に引き継ぐまでには、不動産会社との話し合いや、いくつもの手続きを終えなければならない。
それでも、焦る必要はなかった。
分からないことは一つずつ学び、できないことはできるようになるまで教えてもらえばいい。
アルバイトとして初めてこの店へ立った日も、ひよりは何も知らなかった。
そこから三年かけて、コーヒーを淹れ、客を迎え、この場所を自分の居場所にしてきた。
今度は、その居場所を守るために成長していく。
「ひより、ぼんやりしてどうしたん?」
美咲に尋ねられ、ひよりは我に返った。
「ちょっと、これからのことを考えてただけ」
「また難しい顔してるで。今日は祝いの日なんやから、食べようや」
「美咲、もうケーキ二切れ目やろ」
「卒業祝いと就職祝いで一切れずつや」
「理由を分けても、食べた量は変わらへんよ」
「ひよりの正社員昇格祝いもあるから、あと一切れいけるな」
「それは私が食べる分や!」
ひよりが慌ててケーキへ手を伸ばすと、店内に再び笑い声が広がった。
大学を卒業し、ひよりは一人の社会人になった。
けれど、喫茶こもれびでは、これからも変わらず看板娘だった。
ただ一つ違うのは、いつかこの店を背負う未来へ向かって、今度こそ正式に歩き始めたことだった。




