第二十二話 こもれびを継ぐということ
季節は巡り、二年の月日が流れた。
高瀬ひよりは、大学四年生になっていた。
喫茶こもれびでアルバイトを始めてから、もう三年が過ぎている。
最初は注文を聞き間違えないようにするだけで精いっぱいだったひよりも、今では一人で店を任せられるようになった。
義雄から教わったコーヒーも、客へ自信を持って出せる。
常連客の好みはもちろん、初めて来た客が甘いものを好みそうか、静かに過ごしたいのか、誰かに話を聞いてもらいたいのかも、少しずつ分かるようになっていた。
その間にも、喫茶こもれびには多くの謎が持ち込まれた。
SNSの投稿を見て訪ねてきた人。
常連客から相談された人。
偶然、店内へ忘れ物をしていった人。
ひよりは相変わらず、自分は探偵ではないと言い続けていた。しかし、気になるものを目の前へ置かれると、放っておくことはできなかった。
そのたびに義雄から仕事をしろと言われ、千鶴と美咲には楽しそうに見守られた。
そんな日々が、これからも続いていく。
ひよりは、どこかでそう思っていた。
しかし、大学四年生になった春、周囲では就職活動の話が急速に増えていた。
「ひより、エントリーシート書いた?」
大学の食堂で、美咲が尋ねる。
「一応、何社かは」
「説明会は?」
「二つ参加した」
「どんな業界?」
「まだ絞れてへんねん」
「相変わらずやなあ」
「美咲はどうなん?」
「私は順調」
美咲は得意そうに胸を張った。
「もう内定もいくつかもらってる」
「えっ、いつの間に?」
「ひよりがこもれびでコーヒー淹れてる間に」
「ちゃんと就職活動してたんや」
「私を何やと思ってるん?」
「大学へ来て、私としゃべって帰る人」
「間違ってへんけど、それ以外の時間もあるわ」
ひよりも就職活動を何もしていないわけではなかった。
企業について調べ、説明会へ参加し、働いている自分を想像する。興味を持てる会社もあれば、自分には合わないと感じる仕事もあった。
しかし、どの会社を見ても、心のどこかに引っかかるものがある。
その正体が何なのか、ひより自身にも分かっていた。
喫茶こもれびだった。
就職すれば、今までと同じように店へ立つことは難しくなる。
休日に手伝うことはできても、毎日のように義雄や千鶴、常連客たちと過ごす生活は終わる。
大学を卒業すれば、こもれびでのアルバイトも卒業する。
それが自然なのだと、ひよりは自分へ何度も言い聞かせていた。
ある日の午後、ひよりがこもれびへ出勤すると、いつもの常連客たちがカウンター席へ並んでいた。
「こんにちは」
「おお、看板娘が来たぞ」
「もう看板娘っていう年でもないですよ」
「何歳になっても看板娘は看板娘や」
「私、もう二十二歳ですよ?」
「十分若いやないか」
「じゃあ、何でさっき年齢を理由に否定したんや」
義雄がカウンターの中から口を挟む。
「言葉のあやです」
「便利な言葉やな」
ひよりは黒いエプロンを身につけ、店内の仕事を始めた。
胸元に刺繍された『喫茶こもれび ひより』の文字は、何度も洗濯したため、少しだけ色が薄くなっている。
それでも、二つの赤いサクランボは今も並んでいた。
夕方になり、客足が落ち着いた頃だった。
「ひよりちゃん、ちょっと座ってくれる?」
千鶴が窓際の席を指した。
「休憩ですか?」
「今日は、少し話があるんよ」
いつもと違う千鶴の口調に、ひよりは手を止めた。
義雄もカウンターから出てきて、向かい側へ座る。
「何ですか、二人とも改まって」
「大学四年生になったんやろ?」
「はい」
「就職活動はしてるんか?」
義雄が尋ねた。
「一応しています。まだ、どこへ行くかは決まってませんけど」
「決まりそうなん?」
「どうでしょう。自分でも、何がしたいのかよく分からなくて」
ひよりが答えると、義雄と千鶴は一度顔を見合わせた。
「ひよりちゃん」
千鶴が静かに呼びかける。
「はい?」
「この店を、継いでみる気はない?」
ひよりは、すぐに言葉を返せなかった。
店内の時計が秒を刻む音と、厨房で湯の沸く音だけが聞こえる。
「私が……こもれびを?」
「せや」
義雄が答えた。
「俺と千鶴も、いつまでも店に立てるわけやない。今すぐ辞めるつもりはないけど、この先のことは考えなあかん」
ひよりは二年前、消えたコーヒーカップの謎を調べた日のことを思い出した。
古い帳簿を詰めた段ボール箱。
不動産会社から届いた封筒。
そして、義雄が自分へ本格的なコーヒーの淹れ方を教え始めたこと。
「もしかして、あの頃から考えてたんですか?」
「少しはな」
「じゃあ、コーヒーを教えてくれたのも……」
「店員として必要やと思っただけや」
義雄はぶっきらぼうに答えた。
「ほんまは、もっと前から考えてたんやろ?」
千鶴が横から尋ねる。
「余計なこと言うな」
「また隠そうとする」
「決めてもないことを話す必要はないやろ」
二人のやり取りを聞き、ひよりの胸が温かくなる。
それでも、簡単に引き受けていい話ではなかった。
「でも、私、経営のことなんて何も知りません」
「今は知らんでもええ」
義雄が答える。
「仕入れ、売り上げの管理、帳簿、税金、保健所への手続き、建物の契約。店を続けるには、コーヒーを淹れる以外にも覚えることが山ほどある」
「聞いてるだけで不安になってきました」
「せやから、一から教える言うてるんや」
「私にできますか?」
「それを決めるんは、お前や」
義雄はひよりをまっすぐ見た。
「簡単な仕事やとは言わん。売り上げが悪い月もあるし、機械が壊れたら金もかかる。客が来るかどうかも分からん。好きな店で働くことと、その店の責任を持つことは別や」
義雄の言葉は厳しかったが、ひよりを遠ざけようとしているわけではないことは分かった。
大切な店だからこそ、気持ちだけで決めてほしくないのだろう。
「もちろん、今すぐ答えを出さんでええよ」
千鶴が優しく続ける。
「無理やと思ったら断ってくれてもええ。ひよりちゃんには、ひよりちゃんの人生があるんやから」
「断っても、怒りません?」
「当たり前やろ」
「義雄さんは?」
「何で俺が怒るんや」
「期待させて断るんかって」
「そんなことで怒るくらいなら、最初から聞かへん」
義雄は一度言葉を切り、店内を見回した。
「ただ、俺らが知ってる中では、お前が一番この店を大事にしてる。それだけや」
ひよりは何も答えられなかった。
うれしい。
その気持ちは、間違いなくあった。
しかし同時に、怖さもあった。
四十年以上続いてきた店を、自分が受け継ぐ。
常連客たちの思い出も、義雄のコーヒーも、千鶴が作ってきた温かな空気も、自分が守らなければならない。
「ひよりちゃんが継いでくれるんやったら、俺は毎日来るで」
カウンター席から声が聞こえた。
話を聞いていた常連客の一人だった。
「毎日は来なくていいです」
「何でや。売り上げに貢献したるのに」
「一日中同じ席に座るでしょ」
「コーヒーは何杯も頼むよ」
「それなら歓迎します」
「現金やなあ」
別の常連客も口を開く。
「俺も来るで。ひよりちゃんの淹れたコーヒー、もう義雄さんと変わらへんし」
「一緒にすんな」
義雄が不満そうに言う。
「義雄さん、そこは喜ぶところやろ」
「まだ俺の方がうまい」
「負けず嫌いやなあ」
「私も、ひよりちゃんが継いでくれるなら安心やわ」
「店がなくなったら、行く場所なくなるからな」
「勝手に決まったみたいに話を進めんといてください!」
常連客たちの期待が一斉に向けられ、ひよりは慌てて両手を振った。
「まだ何も決めてませんからね!」
「前向きに考えてくれたら、それでええよ」
「でも、ひよりちゃんなら大丈夫や」
「困ったときは、俺らが相談に乗ったる」
「経営経験ない人ばっかりですよね?」
「客の立場なら詳しいで」
「一番信用したらあかん意見です!」
店内に笑い声が広がった。
そのとき、窓際でクリームソーダを飲んでいた美咲がストローから口を離した。
「ひよりが継ぐんやったら、私もここで働いてあげてもええで」
「美咲はちゃんと就職活動しろ」
「一応してるし、内定も何個か取ったって言ったやん」
「ほんなら、そこへ就職しなさい」
「でも、ひよりが本気でこもれびを継ぐって言ったら、私は一肌脱いで、内定全部断ったるわ」
「簡単に言うことちゃうやろ!」
「親友の一大決心やで?」
「内定を出してくれた会社にも迷惑やから、まずちゃんと考えなさい」
「ひより、店主になる前から経営者みたいなこと言うてるやん」
美咲が楽しそうに笑う。
「それに、もしここを継ぐとしても、美咲を雇うとは言ってへんけど」
「そこは雇えよ!親友やろ!」
「親友と従業員は別です」
「履歴書持って面接に来たるわ」
「不採用です」
「面接する前から落とすな!」
「志望動機は?」
「ひよりと一緒に働いたら楽しそうやから」
「不採用」
「ほんなら、クリームソーダを毎日飲みたいから」
「もっと不採用」
常連客たちが声を上げて笑った。
「でも、美咲ちゃんがおったら店もにぎやかになるな」
「二人で店をやったら、義雄さんと千鶴さんみたいやん」
「どっちが義雄さんなん?」
「私を義雄さん側にしないでください」
「ほんなら、ひよりが千鶴さん?」
「それも勝手に決めんといて!」
美咲が隣から、ひよりの顔をのぞき込む。
「でも、ほんまに嫌やったら、ひよりはもっと早く断ってるやろ?」
ひよりは言葉を詰まらせた。
「それに、さっきから経営の難しさばっかり聞いてるけど、店を継ぎたくないとは一回も言ってへん」
「美咲、こういうときだけ鋭いな」
「親友やからな」
常連客の一人が、納得したようにうなずいた。
「そういうことを言うってことは、ひよりちゃんの中では、もう少し答えが出てるんちゃうか?」
店内にいた全員の視線が、ひよりへ集まった。
義雄も千鶴も、急かすことなく答えを待っている。
ひよりは、自分の胸元を見た。
『喫茶こもれび ひより』
少し色あせた刺繍の下に、二つの赤いサクランボが並んでいる。
一年前なら、怖くなってすぐに答えを求めたかもしれない。
しかし、今は違う。
急いで出した答えが、正しいとは限らないことを知っている。
「はい。前向きに検討します」
ひよりは、ゆっくりと答えた。
「ただ、自分一人で決められることではないので、家族とも相談させてください。それから、経営のことや必要なお金についても、ちゃんと教えてほしいです」
「ああ」
義雄がうなずく。
「それでええ」
「ゆっくり考えてね」
千鶴も優しく笑った。
「ほんなら、私は履歴書を用意しとくわ」
「美咲は内定先をちゃんと検討しなさい!」
「前向きに検討します」
「私の言葉をまねせんといて!」
再び店内へ笑い声が広がった。
その日の閉店後、ひよりはエプロンを外し、丁寧に畳んだ。
いつもなら、また次の出勤日に身につけるだけのものだった。しかし今日は、胸元の店名が少し違って見えた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさん」
「気をつけて帰ってね」
義雄と千鶴へ頭を下げ、ひよりは店の外へ出た。
木製の扉が閉まり、頭上でベルが小さく鳴る。
振り返ると、見慣れた看板に明かりがついていた。
『喫茶こもれび』
子どもの頃から、何度も見てきた名前。
これまで自分を迎えてくれたその名前を、今度は自分が守る側になるかもしれない。
うれしさと不安が、同じくらい胸の中にあった。
ひよりはしばらく店を見つめたあと、自宅へ向かって歩き出した。
今夜、父と母へ話さなければならない。
喫茶こもれびを継いでみないかと言われたこと。
そして、自分がその未来を前向きに考えていることを。




