第二十話 こもれびの仕事始め
一月六日。
寝屋川一番街商店街は、ようやく正月休みから目を覚まし始めていた。
年末から閉まっていた店のシャッターが少しずつ開き、通りには新年の挨拶を交わす店主たちの声が響いている。店先のしめ縄や門松はまだ残されていたが、町を包んでいた正月特有の静けさは薄れつつあった。
喫茶こもれびも、この日が新年最初の営業日だった。
午前八時前、ひよりが店の前へ到着すると、木製の扉にはまだ準備中の札が掛かっていた。
店先には小さな門松が置かれ、扉の横には千鶴が書いたらしい紙が貼られている。
『あけましておめでとうございます。本年も喫茶こもれびをよろしくお願いいたします』
その下には、義雄が書き加えたような小さな文字があった。
『一月六日より通常営業』
「字の大きさに、性格が出てるなあ」
千鶴の挨拶は紙の中央へ大きく書かれ、義雄の文章は端へ控えめに収まっている。
ひよりが扉を開けると、店内には挽きたてのコーヒー豆の香りが広がっていた。
「あけましておめでとうございます」
ひよりは元気よく頭を下げた。
「あけましておめでとう、ひよりちゃん」
カウンターの中にいた千鶴が笑顔で応じる。
義雄はコーヒー豆の入った袋を棚へ戻しながら、小さくうなずいた。
「おめでとうさん」
「義雄さん、新年の挨拶くらい、もう少し愛想よくできません?」
「挨拶はしたやろ」
「言葉は合ってますけど、気持ちが足りません」
「気持ちまで採点されるんか」
「接客業ですからね」
「まだ客おらんやろ」
「私がいます」
「お前は店員や」
新年最初の会話も、去年とほとんど変わらなかった。
ひよりは少し安心しながら、コートとマフラーを外した。
「ひよりちゃん、大学もまだ始まってへんのやろ?」
千鶴が尋ねる。
「来週からです」
「それやったら、もう少しゆっくりしたらよかったのに。今日くらい、私ら二人でも何とかなるよ」
「十分ゆっくりしました」
「まだ一週間くらいやん」
「これ以上休むと、だめだめになりそうなので……」
「もう手遅れちゃうか」
義雄が口を挟む。
「どういう意味ですか!」
「正月、何時に起きてたんや」
「十時くらいです」
「十分だめになってるやろ」
「一日だけ、お昼を過ぎた日もありましたけど」
「もっとひどいやないか」
「元日に初日の出まで連れ回されたんですよ。生活のリズムが崩れたんです」
「美咲ちゃんと初詣に行ったんやってね」
千鶴が楽しそうに言う。
「はい。成田山へ行って、そのあと初日の出まで見せられました」
「きれいやった?」
「きれいでしたけど、帰ったら朝の八時でした」
「そこから寝たんか?」
「寝ました」
「何時まで?」
「夕方です」
「そら生活も崩れるわ」
義雄の言葉に、ひよりは何も言い返せなかった。
「だから今日から戻すんです」
ひよりは鞄から、名前と二つのサクランボが刺繍された黒いエプロンを取り出した。
「働いて、体を動かして、規則正しい生活に戻ります」
「店を生活習慣の改善に使わんといて」
千鶴は笑いながらも、ひよりへ布巾を渡した。
「ほんなら、窓際のテーブルをお願いしようかな」
「任せてください」
ひよりはエプロンを身につけ、店内の準備へ取りかかった。
椅子を下ろし、テーブルを拭き、砂糖やミルクの数を確認する。窓を少し開けて空気を入れ替えると、冷たい風が店内へ入り込んだ。
「寒っ!」
「開けたん、お前やろ」
「空気の入れ替えは必要です」
「ほんなら我慢せえ」
「義雄さんも少しくらい寒がってください」
「注文の多いやつやな」
ひよりは窓を閉め、次に食器棚を確認した。
休みに入る前と同じ場所へ、色も形も違うカップが並んでいる。
「一、二、三……」
「数えんでええぞ」
義雄がすぐに言った。
「まだ数えてません。見てただけです」
「口に出してたやろ」
「並び方を確認してたんです」
「それを数えてる言うんや」
ひよりは頬を膨らませたが、新年早々言い争うのも疲れるため、黙ってカップを並べ直した。
午前九時。
義雄が準備中の札を裏返し、営業中に変えた。
「今年も始まったねえ」
千鶴が店内を見回す。
「去年と何も変わってませんけど」
ひよりが言う。
「変わらへんことも大切なんよ」
「掃除したから、去年よりきれいにはなってる」
「義雄さんは、そういうことしか言わへんね」
三人が話していると、さっそく扉のベルが鳴った。
「おはようさん。今年もよろしく!」
入ってきたのは、近所に住む常連客だった。
「あけましておめでとうございます」
ひよりが頭を下げる。
「おお、看板娘もおるやないか」
「今年もその呼び方なんですね」
「年が変わったくらいで変わらへんよ」
「私としては、去年に置いてきたかったんですけど」
「ほんなら、今年から名探偵にするか?」
「悪化してます!」
常連客は笑いながら、いつものカウンター席へ座った。
「いつものコーヒーでよろしいですか?」
「頼むわ。今年最初の一杯やから、ひよりちゃんが淹れてくれる?」
「はい。任せてください」
ひよりが豆を量ろうとすると、義雄が横から手元を見た。
「少し多い」
「まだ量ってる途中です」
「最初から多めに取ってたやろ」
「あとで戻すつもりでした」
「二度手間や」
「新年最初から細かいですね」
「新年やからって、豆の量は変わらへん」
義雄に見守られながら、ひよりは慎重にコーヒーを淹れた。
少量の湯を注いで蒸らし、粉が膨らむのを待つ。ゆっくりと円を描くように残りの湯を注ぐと、店内へ香ばしい匂いが広がった。
「どうぞ。今年最初のコーヒーです」
ひよりがカップを置くと、客はゆっくり口をつけた。
「うん、おいしい」
「本当ですか?」
「去年よりうまなってるんちゃう?」
「聞きました、義雄さん?」
「正月で舌が鈍ってるんやろ」
「素直に認めてください!」
客の笑い声が、年明け最初の店内へ響いた。
その後も、常連客が一人、また一人と訪れた。
誰もが新年の挨拶をし、年末年始をどう過ごしたか話していく。
孫が遊びに来て疲れたという人。
初売りへ行ったものの、何も買わずに帰ってきたという人。
正月料理を食べすぎて、しばらく体重計へ乗りたくないという人。
こもれびは少しずつ、いつものにぎやかさを取り戻していった。
昼前になると、扉のベルが勢いよく鳴った。
「あけましておめでとうございます!」
大きな声とともに入ってきたのは、石田だった。
「石田さん」
ひよりは低い声で名前を呼んだ。
「何や、年明け早々怖い顔して」
「大晦日の投稿、見ましたよ」
「今年一番の発見ってやつ?」
「そこはいいんです。そのあとです」
「人情味あふれる店主夫婦?」
「さらにそのあとです!」
「数々の謎を解く看板娘?」
石田は何も悪いことをしていないような顔で答えた。
「どうして親戚にまで知られてるんですか!」
「俺に言われても知らんよ」
「石田さんが書いたからでしょ!」
「でも、親戚の誰かが俺の投稿を見つけたんやろ? ほんなら、広めたんはその人や」
「責任を分割せんといてください」
「間違ったことは書いてへんやん」
「北河内一の有名店みたいになってるんですよ」
「ええことやないか」
「店は広くないんです! 一度に大勢来たら困るんです!」
「心配せんでも、隠れた名店って書いてるから、客はぼちぼちや」
「隠れてるのか有名なのか、どっちなんですか」
カウンターの奥から千鶴が声を上げて笑った。
「石田さん、今年もひよりちゃんをよろしくね」
「もちろんです」
「お願いせんといてください!」
石田はいつもの席へ座ると、鞄から紙袋を取り出した。
「これ、みんなで食べて。初詣に行ったときのお土産」
「ありがとうございます」
千鶴が受け取り、中を確認する。
「お饅頭やね」
「義雄さん、甘いもん好きやろ?」
「嫌いやない」
「好きって言えばいいのに」
ひよりが指摘すると、義雄は何も答えず、コーヒーの準備を始めた。
石田が帰ったあとも客足は途切れず、ひよりは昼過ぎまで店内を忙しく動き回った。
午後二時を過ぎた頃、ようやく客の数が減り、ひよりは空いたカウンター席へ座った。
「疲れた……」
「これ以上休んだら、だめだめになるんちゃうかった?」
千鶴が笑いながら尋ねる。
「働き始めたら、急に体が正月休みを思い出しました」
「ほんなら帰って寝るか?」
義雄が言う。
「帰りません。最後まで働きます」
「無理せんでもええで」
「無理してません。少し休憩したら復活します」
千鶴が石田の持ってきた饅頭と、温かいコーヒーをひよりの前へ置いた。
「休憩のお供」
「ありがとうございます」
「正月太りせんように、一個だけね」
「二個は駄目ですか?」
「さっきまでだめだめになりたくないって言ってた子が、もう甘えてるなあ」
「働いた分は食べていいんです」
「その計算やと、たぶん食べた方が多いぞ」
「義雄さんは黙っててください」
ひよりは饅頭を一口食べ、コーヒーを飲んだ。
年が変わっても、こもれびの味は変わらない。
義雄のぶっきらぼうな言葉も、千鶴の笑顔も、常連客たちとの会話も去年のままだった。
しかし、自分がこの場所へ戻ってきたと感じられることが、ひよりにはうれしかった。
「ひよりちゃん、今年の目標は決めた?」
千鶴が尋ねる。
「目標ですか?」
「大学のことでも、店のことでも、何でもええよ」
ひよりは少し考えた。
「もっとおいしいコーヒーを淹れられるようになることです」
「ええ目標やね」
「それから、義雄さんに文句を言われないくらい仕事を覚えます」
「それは無理や」
「何でですか!」
「お前が完璧に仕事しても、探せば何かある」
「文句を言う前提なんですね」
「店主やからな」
「店主の仕事を勘違いしてません?」
千鶴が楽しそうに笑う。
「謎解きの方は?」
「それは目標にしません」
「今年は何件解くとか」
「私は探偵じゃないんです。謎は解きたくて解いてるわけじゃありません」
「気になったから調べてるだけ?」
「そうです」
「ほんなら、今年もたくさん解きそうやね」
「どうしてそうなるんですか」
そのとき、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、見覚えのない若い男性だった。
年齢は二十代半ばほどで、黒いコートを着ている。店内を一度見回したあと、カウンターの前まで歩いてきた。
「いらっしゃいませ」
ひよりが立ち上がる。
男性は注文をする代わりに、鞄から一冊の古いノートを取り出した。
「あの、ここに身近な謎を解いてくれる看板娘がいると聞いたんですけど」
「いません」
ひよりは即答した。
男性が困ったように立ち尽くす。
千鶴は口元を押さえて笑い、義雄は何も言わずにコーヒー豆を量り始めた。
「でも、SNSには……」
「その情報は大げさです」
「そうなんですか」
「ただの喫茶店ですから、まずは注文をお願いします」
「じゃあ、コーヒーを一杯」
「かしこまりました」
ひよりは伝票を手に取ったものの、男性がカウンターへ置いた古いノートが気になっていた。
表紙には名前も題名も書かれていない。
ただ、中央に小さな鍵穴だけがついている。
ところが、ノートを閉じているはずの鍵は見当たらなかった。
「そのノート、どうしたんですか?」
ひよりが尋ねる。
義雄が小さくため息をつく。
「今年も始まったな」
「何がですか?」
「お前の悪い癖や」
「まだ何も調べてません。質問しただけです」
男性は古いノートへ手を置き、静かに答えた。
「亡くなった祖父が残したものです。でも、鍵がどこにもないんです」
「中には何が?」
「それを知りたくて、ここへ来ました」
ひよりはノートの小さな鍵穴を見つめた。
今年は、できるだけ静かに働きたい。
つい先ほどまで、そう思っていたはずだった。
「少しだけ、見せてもらってもいいですか?」
「お前、今年も変わらんな」
義雄が呆れたように言う。
「見るだけです!」
新年最初の出勤日。
喫茶こもれびへ戻ってきたひよりの前には、今年最初の謎が早くも置かれていた。




