第十九話 眠らない元日
大晦日の夜、高瀬家に集まっていた親戚たちは、年越しそばを食べ終えると少しずつ帰っていった。
「また来年な」
「もう数時間後やけどな」
「次に会うんは、来年の大晦日かもしれへんで」
「ほんなら、よいお年を」
「さっきも言うたやろ」
そんな会話を交わしながら、叔父や叔母、いとこたちが玄関を出ていく。
最後まで残っていた家族も帰ると、にぎやかだった家の中は急に静かになった。
居間には料理を載せていた皿や空になった菓子箱が残されている。子どもたちが作った折り紙も、隣の部屋へ散らばったままだった。
「片づけ、明日でええよな?」
父がこたつへ入りながら尋ねる。
「今片づけた方が楽やと思うけど」
ひよりが答えると、父は首を横へ振った。
「来年の俺に任せる」
「数時間後のお父さんに押しつけただけやん」
「来年になったら、やる気に満ちあふれてるかもしれへん」
「毎年同じこと言ってるやろ」
母は呆れながらも、皿を重ねて台所へ運び始めた。
「お母さん、手伝うわ」
「ええよ。ひよりはテレビ見てて」
「でも、一人やったら大変やろ」
「お父さんがおるから」
母の視線が父へ向く。
父は何も聞こえなかったように、テレビのリモコンを手に取った。
「紅白、もう始まってるで」
「話をそらさんと手伝って」
「はい」
父は素直に立ち上がり、食器を台所へ運び始めた。
「お父さん、素直やな」
「逆らっても結果は変わらへんからな」
「長年の経験やね」
ひよりも皿を重ね、父のあとを追った。
三人で片づけると、居間は三十分ほどで元の状態へ戻った。
こたつの上にはミカンと温かいお茶だけが残り、家族三人で紅白歌合戦を眺める。
「この歌手、知ってる?」
母が尋ねる。
「知ってるよ。大学でも聴いてる人多いし」
「お父さんは?」
「名前は見たことある」
「どこで?」
「会社の若い子の机に、写真が置いてあった」
「それは知ってるって言わへんやろ」
父は歌手の名前を覚えようとするように、テレビ画面を真剣に見つめた。
曲が終わるたびに、母は感想を言い、ひよりが歌手について説明する。父は時々知ったような顔でうなずいたが、次の歌手が出てくる頃には先ほどの名前を忘れていた。
ひよりはスマートフォンも確認した。
年が変わる前から、友人や大学の知り合いによるメッセージが増えている。SNSには『今年もありがとうございました』という投稿が並び、喫茶こもれびの写真を載せている客もいた。
石田も、年内最後の投稿をしていた。
『今年一番の発見は、寝屋川一番街商店街にある喫茶こもれび。おいしいコーヒー、人情味あふれる店主夫婦、そして数々の謎を解く看板娘。来年も通います』
「石田さん、最後まで余計なこと書いてる……」
「何て?」
母が画面をのぞき込む。
「来年も通いますって」
「ええお客さんやん」
「そこじゃなくて、その前です」
「数々の謎を解く看板娘?」
「声に出して読まんといて!」
父が面白そうに笑う。
「親戚にも広まったし、もう諦めた方がええんちゃう?」
「お父さんまで言うん?」
「悪いことを書かれてるわけちゃうやろ?」
「そうやけど……」
ひよりは納得できないまま、スマートフォンを伏せた。
やがて紅白歌合戦が終わり、テレビ画面が静かな寺の映像へ切り替わった。
暗い夜空の下、除夜の鐘がゆっくりと鳴り響く。
一年の終わりが近づいていた。
「もうすぐやな」
母が時計を見る。
父も姿勢を正し、ひよりはこたつに入ったままテレビ画面へ目を向けた。
秒針が十二時へ近づいていく。
「三、二、一……」
日付が変わった。
「あけましておめでとうございます」
母が笑顔で頭を下げる。
「あけましておめでとう」
父も続く。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
ひよりもこたつから立ち上がり、両親へ頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくな」
「今年も元気で過ごせたら、それで十分やね」
「お母さん、急に真面目やな」
「新年最初くらい真面目に言わせてよ」
母が笑った直後、こたつの上に置かれていたひよりのスマートフォンが鳴った。
画面には、美咲の名前が表示されている。
『あけおめー! 初詣行くぞー!』
ひよりは目を細めた。
『眠い』
短く返すと、すぐに既読がついた。
『今日は寝させんぞ!』
「何、その宣言……」
さらに続けてメッセージが届く。
『十五分後に迎え行くから準備しといて』
『今から?』
『初詣は年明けてすぐ行くから初詣なんや』
『明日の昼でも初詣やろ』
『細かいこと言うな。成田山行くで』
ひよりはため息をつきながら、母へ顔を向けた。
「お母さん、美咲と初詣行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「成田山まで行くみたい」
「分かった。気をつけてね」
あまりにもあっさりした返事だったため、ひよりは目を瞬かせた。
「それだけ?」
「ほかに何かある?」
「誰とどこへ行くんとか、何時に帰ってくるんとか聞かへんの?」
「美咲ちゃんと成田山へ行くって、今ひよりが言うたやん」
「そうやけど」
母は、ひよりの顔を見て小さく笑った。
「ひよりも、もう二十歳になったんやから、出かけるたびにいちいち伝えんでもええよ」
「でも、何も言わずに出かけたら心配するやろ?」
「何日も帰ってこんかったら心配するけどね」
「何日も帰らへんことなんかないよ!」
「ほんなら大丈夫やん」
母にとって、娘が深夜に初詣へ出かけることは、それほど心配するようなことではないらしい。
「お父さんは?」
「美咲ちゃんと一緒なら大丈夫やろ。寒いから温かくして行きや」
「お父さんも、それだけ?」
「帰りに何か甘いもん買ってきてくれたらうれしい」
「娘の心配より、お土産なん?」
「ひよりはもう大人やからな」
「こういうときだけ大人扱いする!」
両親は楽しそうに笑った。
ひよりは自分の部屋へ戻り、厚手のコートとマフラーを身につけた。鞄へ財布とスマートフォンを入れ、念のため充電器も持っていく。
玄関で靴を履いていると、母が小さなカイロを二つ持ってきた。
「一つは美咲ちゃんに渡してあげて」
「ありがとう」
「人が多いやろうから、はぐれんようにね」
「子どもちゃうで」
「大人でもはぐれるときは、はぐれるよ」
母はそう言いながら、ひよりのマフラーを整えた。
いちいち報告しなくてもいいと言われても、母にとってひよりが娘であることは変わらないらしい。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてな」
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。
年が変わったばかりの住宅街は、普段の深夜よりも明るい。遠くから除夜の鐘が聞こえ、家族連れや若者たちが同じ方向へ歩いている。
家の前では、美咲が手袋をした手を振っていた。
「あけましておめでとう!」
「あけましておめでとう。ほんまに来たんや」
「迎えに行くって言ったやろ」
「もう少し家でゆっくりしたかった」
「紅白終わるまで十分ゆっくりしたやろ」
「年明けて一分で呼び出された人の気持ちも考えて」
「彼氏がおらんねんから、友達を大切にしようや」
「美咲にだけは言われたくない」
「私もおらんから、一緒に行くんやろ」
「悲しい理由を新年最初に確認せんといて」
二人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「去年のクリスマスも同じことしてたな」
「今年こそは何とかしよう」
「去年も言ってたで」
「まだ年が明けたばっかりや。可能性は残ってる」
「残り三百六十五日もあるもんな」
「今年は確かにうるう年ちゃうから三百六十五日やな」
「そこ確認する必要ある?」
二人は話しながら自転車で香里園まで移動した。
成田山の手前の駐輪場で降りると、同じように成田山へ向かう人々が大勢歩いていた。
小さな子どもの手を引く家族。
楽しそうに話す学生たち。
肩を並べて歩く恋人たち。
その姿を見た美咲が、ひよりの腕をつかむ。
「恋人に見えるように、腕組んどく?」
「何のために?」
「負けた気がするから」
「誰と戦ってるん」
「世間」
「勝てる気せえへんな」
「始まったばっかりで諦めるな」
成田山へ近づくにつれ、人の流れはさらに大きくなった。
境内へ続く道には露店が並び、たこ焼きや焼きそば、甘いベビーカステラの香りが漂っている。
「何か食べる?」
美咲が露店を見ながら尋ねる。
「年越しそば食べたばっかりやで」
「別腹やろ」
「甘いものなら少しだけ」
「ほんなら、お参りしたあとベビーカステラな」
「お父さんにも買って帰らなあかんねん」
「お土産頼まれたん?」
「娘の心配より先に、甘いもの頼まれた」
「ひよりのお父さんらしいな」
「会ったことあるやろ」
「あるけど、相変わらずおおらかやなと思って」
二人は人の流れに沿って、境内へ入った。
本堂の前には長い列ができている。
「どれくらいかかるかな」
ひよりが背伸びをして前を見る。
「一時間くらい?」
「帰りたくなってきた」
「まだ着いたばっかりや!」
「寒いし、眠いし、人多いし」
「私がおるやろ」
「それで解決するん?」
「話し相手にはなる」
「それは助かる」
二人は列に並び、大学のことや喫茶こもれびのことを話しながら順番を待った。
「そういえば、今年の願い事は決めた?」
美咲が尋ねる。
「まだ考えてへん」
「彼氏ができますように、でええやん」
「神様に全部任せるん?」
「きっかけくらいは作ってもらおう」
「美咲は?」
「彼氏ができますように」
「同じやん」
「ほんなら、どっちが先にできるか競争な」
「勝ち負けで作るもんちゃうやろ」
「負けた方が、こもれびでクリームソーダをおごる」
「結局どっちに転んでも、こもれび行くんやな」
ようやく順番が来ると、二人は賽銭を入れ、並んで手を合わせた。
ひよりは目を閉じる。
願いたいことはいくつもあった。
家族が元気でいられること。
美咲とこれからも笑い合えること。
喫茶こもれびが変わらず続くこと。
義雄と千鶴が健康でいられること。
今年も自分があの店で働けること。
考えているうちに、一つへ決められなくなった。
「長ない?」
隣から美咲の声が聞こえる。
ひよりが目を開けると、美咲はすでに手を下ろしていた。
「願い事が多いねん」
「欲張りやなあ」
「美咲は何を願ったん?」
「彼氏」
「一つだけ?」
「集中した方が届きそうやろ」
「神様も困ってると思うで」
「ひよりは?」
「大切な人たちと、今年も笑って過ごせますようにって」
「急にきれいな願い事するやん」
「悪い?」
「悪くないけど、私だけ欲望に忠実すぎるみたいやん」
「自分で彼氏だけに絞ったんやろ」
参拝を終えると、二人はおみくじを引いた。
ひよりが引いたのは小吉だった。
「微妙」
「書いてある内容が大事やで」
美咲がのぞき込む。
「恋愛は?」
「待ち人、来たる。ただし遅し」
「来るやん!」
「遅いみたいやけど」
「今年中とは書いてへんな」
「急に不安にさせんといて」
美咲が引いたおみくじは大吉だった。
「見て! 大吉!」
「恋愛は?」
「焦らず待てば良縁あり」
「大吉でも待たされるんや」
「ひよりより先に来るかもしれへん」
「勝負はもう始まってるん?」
「日付が変わった瞬間から始まってる」
二人はおみくじを結び、約束どおりベビーカステラを買った。
温かい袋を二人で抱えながら、人の流れから少し離れた場所へ移動する。
「一個だけ食べよ」
ひよりが袋を開く。
「さっき、別腹でも少しだけって言ってたな」
「歩いたから、お腹減った」
「まだ帰りもあるで」
「じゃあ、二個」
「増えてるやん」
二人は湯気の立つベビーカステラを口へ入れた。
冷たい夜の中で食べる甘い菓子は、家で食べるより少しだけおいしく感じられた。
「今年も、何か謎を解くんかな」
美咲が不意に尋ねる。
「知らんよ。謎なんて、探して見つけるもんちゃうし」
「でも、ひよりの方から近づいていくやん」
「気になったら仕方ないやろ」
「今年も変わらんなあ」
「美咲もな」
境内では、新しい年を祝う人々の声が響いている。
去年とは違う一年が始まったはずなのに、隣にはいつもの友人がいて、二人で同じような会話をしている。
変わっていくものもあれば、変わらないものもある。
ひよりは、それでいいと思った。
「このあと、どうする?」
ひよりが尋ねる。
「決まってるやろ」
美咲は当然のように答えた。
「初日の出を見に行くで」
「聞いてへん!」
「今日は寝させんって言ったやん」
「あれ、本気やったん?」
「もちろん」
「私、もう帰って寝たい」
「おみくじに待ち人が来るって書いてあったやろ。途中で帰ったら会われへんで」
「こんな時間に来る待ち人、怖いやろ!」
美咲は笑いながら、ひよりの腕を引いた。
新しい年を迎えてから、まだ一時間も経っていない。
それでも、ひよりは早くも今年最初の予想外に巻き込まれていた。
どうやら今年も、静かな一年にはなりそうになかった。




