第十六話 写真の裏の約束
「あなたが、ここの謎解き娘さんですか?」
「違います」
ひよりは反射的に否定した。
しかし、カウンターの上に置かれた古い写真へ目を向けた瞬間、その足は止まった。
写真には、若い男女が並んで写っている。
女性は白いブラウスに長いスカートを合わせ、男性は薄い色のシャツを着ていた。
二人の背後には、小さな橋と川沿いの道が見える。
写真は全体的に色あせ、四隅も少し丸くなっていた。
「これ、何年前の写真ですか?」
「やっぱり興味を持ってるやん」
カウンターの中から、義雄が呆れたように言った。
「何年前か確認しただけです」
「それを興味がある言うんや」
「義雄さんはコーヒーを淹れててください」
「お前に言われんでも淹れるわ」
見知らぬ女性は、二人のやり取りを見て小さく笑った。
「SNSに書かれていたとおりですね」
「何がですか?」
「気になることがあったら、放っておけない看板娘がいるって」
「投稿の内容、また増えてません?」
「最近はいろんな人が紹介してるみたいやね」
千鶴が楽しそうに答えた。
ひよりはため息をついてから、女性へ向き直った。
「それで、この写真がどうかしたんですか?」
「見てもらってもいいですか?」
「見るだけなら」
女性は写真をひよりの前へ差し出した。
「私は中村香織といいます。写真に写っている女性は、私の母です」
「お母さん?」
「はい。名前は佳代です。去年、七十二歳で亡くなりました」
「それは……ご愁傷さまです」
「ありがとうございます」
香織は静かに頭を下げた。
母親の遺品を少しずつ整理していたところ、古い裁縫箱の底から写真が出てきたという。
「隣の男性は、お父さんですか?」
「違います。父に見せましたが、知らない人だと言っていました」
「親戚の方は?」
「叔母にも確認しましたが、分からないそうです」
写真の中の二人は、肩が触れそうな距離に立っている。
佳代は少し恥ずかしそうに笑い、男性は緊張したような顔でカメラを見つめていた。
恋人同士にも見えるが、親しい友人同士だと言われても不自然ではない。
香織は写真を裏返した。
長い年月を経て薄い黄色へ変わった裏面には、青いインクで短い言葉が書かれている。
『六月十四日 また来年も、同じ場所で』
その下には、小さく二つのアルファベットが記されていた。
『K・S』
「私は、この男性が書いたのだと思いました」
「K・Sが、この人の名前ですか?」
「恐らく...でも、写真と一緒に入っていた母の日記には、少し違うことが書かれていたんです」
香織は鞄から、一冊の古い手帳を取り出した。
表紙は茶色く変色し、端がすり切れている。
開かれたページには、佳代が二十歳だった頃の出来事が記されていた。
『六月十四日。あの人と川沿いを歩いた。来年も同じ場所で会おうと言ってくれた』
その数ページ後には、こう書かれている。
『急に遠くへ行ってしまった。住所も分からない。約束の日までには、きっと戻ってきてくれる』
翌年の六月十四日のページにも記述があった。
『同じ場所で待った。でも、あの人は来なかった』
さらに数年後のページには、短い一文だけが残されている。
『あの日以来、二度と会うことはなかった』
「二度と会えなかったのに、写真には『また来年も』と書いてあります」
「約束をしたあと、会えなくなったんちゃう?」
千鶴が尋ねる。
「私もそう思いました。でも、父からもう一つ聞いたんです。母は若い頃、六月十四日になると決まって一人で出かけていたそうです」
「毎年ですか?」
「結婚する数年前まで、何年も続けていたそうです。父と知り合ってからは行かなくなったらしいですが、六月十四日だけは毎年カレンダーへ小さな丸をつけていました」
香織は写真へ目を落とした。
「母は、この人をずっと待っていたのでしょうか。そもそも、この人は誰なのか。日記にも名前は書かれていません」
母親が生きている間、香織は写真の存在すら知らなかった。
本人へ確認する機会は、もうない。
「そんなとき、喫茶こもれびの投稿を見つけました。寝屋川に、身近な謎を解いてくれる看板娘がいるって」
「必ず解くとは書いてなかったですよね?」
「最近の投稿には、『本人は否定するけれど、大抵は調べ始める』と書かれていました」
「誰ですか、そんな正確な情報を広めたん」
「正確なんや」
義雄が口を挟む。
「今のは言葉のあやです」
ひよりは否定しながら、写真と日記を見比べた。
「これ、少し預かってもいいですか?」
「興味ないんちゃうかったんか?」
「義雄さん、さっきからうるさいです」
香織が、また小さく笑った。
「もちろんです。ただ、母が大切にしていたものなので、傷つけないようにお願いします」
「そこは気をつけます。解けるかどうかは分かりませんけど」
「それでも構いません」
香織が帰ったあと、ひよりは窓際の席へ座り、写真を照明へかざした。
「仕事せえへんのやったら帰れ」
「今は休憩中です」
「さっきから三十分休んでるやろ」
「考えるのも仕事です」
「うちに謎解きの仕事はない」
「看板娘を大切にしてください」
「都合のええときだけ看板娘になるな」
義雄に言い返しながら、ひよりは写真裏の文字を見つめた。
日付。
約束の言葉。
その下にある『K・S』という二つの文字。
香織は男性の名前だと思っている。
しかし、本当にそうなのだろうか。
ひよりは日記を開き、写真裏の文字と見比べた。
「やっぱり……」
翌日、ひよりは香織へ連絡し、もう一度こもれびへ来てもらった。
「お母さんの旧姓を教えてください」
「旧姓ですか? 酒井です」
「佳代さんのKと、酒井さんのS」
香織は目を見開いた。
「K・Sは、母の名前?」
「そうやと思います。それに、この言葉を書いたのもお母さんです」
「分かるんですか?」
ひよりは、写真と日記を並べた。
「この『年』という字を見てください。どちらも最後の線が右上へはねています。それから『同』の中の『口』が、少し左に寄ってるところも同じです」
香織も二つの文字を見比べる。
「本当や……」
「写真の裏の言葉は、男性から書いてもらったものではありません。お母さんが自分で書き残したものです」
「どうして、母はそんなことを?」
「男性から言われた言葉を、忘れたくなかったんやと思います」
『また来年も、同じ場所で』
それは男性から贈られた文章ではなく、佳代の記憶に残り続けた約束だった。
「お母さんは、その約束を信じて何年も待った。でも、男性は来なかった。日記の内容とも矛盾しません」
「母は、ずっと待ってたんですね」
「少なくとも、父親と出会う前までは。ただ、お母さんはそのあと、お父さんと出会って家庭を築いたんですよね?」
「はい。最後まで仲のいい夫婦でした」
「それなら、お母さんは待つのをやめたんやなくて、きちんと前へ進んだんやと思います。写真を残していたのも、未練だけが理由とは限りません。大切な思い出やったから捨てなかっただけかもしれません」
香織は写真の中の母親を見つめた。
「この場所がどこか、分かりますか?」
「写真の橋だけでは難しいです。でも、右端に看板が少し写っています」
色あせてほとんど読めないが、看板には『寝屋川』という文字が残っている。
「昔の地図や地域資料を調べたら、分かるかもしれません」
数日後、ひよりと香織は市の図書館を訪れた。
昔の住宅地図。
市内で行われた催しの記録。
昭和の寝屋川を撮影した写真集。
何冊もの資料を見比べた結果、写真が撮られた場所は、かつて川沿いにあった小さな遊歩道だと判明した。
周辺は整備され、橋も架け替えられていたが、川の流れは今も残っている。
「母は毎年、ここで待ってたんですね」
現在の川沿いに立ち、香織が静かにつぶやいた。
「たぶん」
「でも、男性が誰なのかは、まだ分かりません」
写真には名札も制服も写っていない。
名前につながる手がかりも見当たらなかった。
「写真をSNSへ載せてみませんか?」
「SNSに?」
「香織さんが私を見つけたのもSNSですよね。今度は、この写真を知っている人を捜すんです」
「見つかるでしょうか」
「分かりません。でも、何もしなかったら絶対に見つかりません」
香織は少し迷ったあと、うなずいた。
その日の夜、香織は写真と事情をSNSへ投稿した。
『亡くなった母が、若い頃に寝屋川で撮った写真です。隣に写る男性を捜しています。昭和五十年代、六月十四日。川沿いの遊歩道で撮影されたものと思われます』
投稿は、ひよりが喫茶こもれびを訪れたSNSでひよりを広めた石田に事情を話し、そこから寝屋川に住む多くの人へ広がっていった。
三日後、香織からひよりへ連絡が入った。
『写真の男性が見つかりました』
その日の午後、香織は一人の男性を連れて、喫茶こもれびへやって来た。
男性は七十代半ばで、白髪を短く整えている。
写真の青年より顔は細くなっていたが、まっすぐ前を見る目元には確かな面影が残っていた。
「安藤正志さんです」
香織が紹介する。
「写真に写っていた方です」
安藤は、ひよりへ深く頭を下げた。
「私の娘が投稿を見つけ、私に教えてくれました」
「本当に、この写真の人なんですか?」
「はい。もう五十年ほど前になります」
安藤は鞄から小さな封筒を取り出した。
中に入っていたのは、同じ日に撮られた別の写真だった。
今度は、若い佳代が一人で橋のそばに立っている。
「私も、ずっと持っていました」
安藤と佳代は、寝屋川で開かれていた写真講座で知り合ったという。
二人は写真を撮るために何度も市内を歩き、少しずつ互いを意識するようになった。
ところが安藤の父親が倒れ、家族で遠方へ引っ越すことになった。
「来年の六月十四日、また同じ場所で会おうと約束しました」
「どうして会えなかったんですか?」
「父の介護と仕事で戻れませんでした。佳代さんの住所をきちんと聞いておらず、連絡することもできなかったんです」
「その後も、一度も?」
「何年かして寝屋川へ戻りましたが、その頃には佳代さんがどこにいるのか分からなくなっていました」
安藤は古い写真へ目を落とした。
「佳代さんは、何年も待ってくれていたんですね」
「はい。でも、そのあと父と出会い、幸せな家庭を築きました」
香織は優しく答えた。
「母は、あなたを恨んでいたわけではないと思います」
「どうして、そう思うんですか?」
「この写真を、日記と一緒に大切に残していましたから」
安藤は、長い間何も言わなかった。
やがて写真を両手で持ち、深く頭を下げる。
「遅くなって、ごめんなさい。約束を覚えていてくれて、ありがとう」
その言葉を聞き、香織の目に涙が浮かんだ。
義雄が二人の前へ、コーヒーを一杯ずつ置いた。
「冷める前に飲み」
千鶴が優しく笑う。
「五十年越しの再会やね」
「本人同士の再会ではありませんけど」
ひよりが言うと、香織は首を横に振った。
「いいえ。母の写真が、代わりに会いに来られました」
安藤も静かにうなずいた。
佳代本人が、再び約束の相手へ会うことはできない。
それでも、彼女が大切に残した写真と言葉は、娘の手によって届けられた。
帰り際、香織がひよりへ頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「私は、写真の文字を見ただけです。安藤さんを見つけたんは、投稿を広めてくれた人たちですよ」
「それでも、母が書いた言葉だと気づいてくれたのは、ひよりさんです」
「たまたまです」
「やっぱり、噂どおりの謎解き娘ですね」
「それは違います」
「素直に認めたらええのに」
千鶴が笑う。
「認めません」
ひよりは頬を膨らませながら、二人を見送った。
五十年前の約束は、果たされなかった。
しかし、消えてしまったわけではない。
誰かが覚えている限り、言葉は時間を越えて届くことがある。
ひよりは二人が使ったカップを静かに下げ、テーブルを丁寧に拭いた。




