第十二話 消えていくコーヒーカップ
五十万円が消えた事件から、一週間が過ぎた。
喫茶こもれびには、少しずつ普段の日常が戻っていた。
朝になれば義雄がコーヒー豆を挽き、千鶴が店先を掃除する。開店時間になると常連客たちが集まり、新聞を広げながら昨日の野球について好き勝手なことを言い合う。
ひよりも黒いエプロンを身につけ、店内を忙しく動き回っていた。
事件について話す客は、もうほとんどいない。
それでも、ひよりはレジの金額を以前より念入りに確認するようになっていた。
「ひよりちゃん、また数えてるん?」
千鶴がレジの横から顔をのぞかせる。
「念のためです」
「さっきも数えてへんかった?」
「さっきはさっきです。今は今です」
「数分でお金が増えたり減ったりするん?」
「増えてたらうれしいですけどね」
「増えてたら、それはそれで問題やろ」
千鶴が笑い、ひよりもつられて笑った。
あの日の出来事を、完全に忘れたわけではない。
疑われたときの苦しさも、森本がうつむいていた姿も、今でもはっきりと覚えている。
それでも、いつまでも下を向いているわけにはいかなかった。
喫茶こもれびには、今日も客がやって来る。
その日の昼過ぎ、客足が途切れた頃だった。
洗い終えたコーヒーカップを棚へ戻そうとして、ひよりは手を止めた。
「あれ?」
カウンターの奥にある食器棚には、白や青、茶色など、さまざまな色のカップが並んでいる。
開店当初から使われているものもあれば、常連客から贈られたものもあるため、形も模様も揃っていない。
その中に、白地に小さな青い花が描かれたカップがあったはずだった。
長い間使われてきたため花の模様は少し薄くなっており、取っ手の裏には製造時についた小さな青い点がある。ひよりが子どもの頃から、何度も見てきたカップだった。
「千鶴さん、青い花のカップを知りません?」
「青い花?」
「模様が少し薄くなってるやつです」
「ああ、あれな。どうしたんやろ」
千鶴は食器棚を眺めたあと、首をかしげた。
「義雄さん、割りました?」
ひよりが尋ねると、豆を量っていた義雄が顔を上げた。
「割ってへん」
「本当ですか?」
「俺がカップ一個割ったくらいで嘘つくと思うか」
「この前、お皿を割ったときは、しばらく黙ってましたよね」
「あれは割ったんやない。手から滑っただけや」
「それを割ったって言うんです」
ひよりが義雄につっこむ。
「皿の方が勝手に落ちたんや」
「お皿に責任を押しつけんといてください」
千鶴が呆れたように言った。
義雄は不満そうな顔をしたが、それ以上は何も答えなかった。
カップは、誰かが別の場所へ移しただけかもしれない。
ひよりはそう考え、その日は気にしないことにした。
ところが、三日後...
今度は茶色い縞模様のカップがなくなっていることに気づいた。
丸みのある厚手のカップで、長年通っていた大川という男性が、いつも使っていたものだった。
大川は半年前に足を悪くしてから、店へ来ていない。
「また一個、なくなってます」
ひよりは食器棚の前で腕を組んだ。
「今度は茶色のカップです」
「ほかの棚に入ってへん?」
千鶴は何でもないことのように答えた。
「全部見ました」
「洗い場は?」
「ありません」
「事務室とか」
「コーヒーカップを事務室に持っていく理由、あります?」
「義雄さんが、そこでこっそり飲んだとか」
「俺を何やと思ってる」
「妻に隠れてコーヒーを飲む七十二歳です」
「店におるのに隠れる必要ないやろ」
義雄がため息をついた。
しかし、ひよりの疑問は消えなかった。
カップが割れたのなら、義雄か千鶴が知っているはずだ。古くなって処分したのなら、それを隠す理由もない。
それなのに、二人とも何も知らないという。
さらに数日後......今度は金色の線が入った紺色のカップが消えた。
これで三個目だった。
「やっぱり、おかしい...」
ひよりが断言すると、カウンター席でクリームソーダを飲んでいた美咲が顔を上げた。
「何が?」
「コーヒーカップが、一個ずつ消えてるねん」
「泥棒ちゃう?」
「カップだけ盗む泥棒がおる?」
「世の中には、変わった趣味の人もおるからなあ」
「しかも、新しいカップは残ってるねん。なくなったんは、全部古いやつ」
「ほんなら、義雄さんが捨てたんちゃう?」
「捨ててへんって言ってる」
美咲はストローから口を離し、食器棚へ目を向けた。
「古いカップばっかりなくなってるんやったら、店じまいの準備とか」
「え?」
ひよりの胸が、わずかにざわついた。
「ほら、古い食器から少しずつ片づけてるとか」
「何で、そんな縁起でもないこと言うん」
「可能性の話やん。二人とも、もう若くないやろ?」
「そうやけど……」
ひよりは言葉を詰まらせた。
言われてみれば、以前から気になることはあった。
四十周年を迎えてから、千鶴は客のいない店内を何度か写真に撮っている。
義雄は古いメニュー表や伝票、売上帳を段ボール箱へ入れていた。
先日には、食器や調理器具の数まで紙に書き出していた。
コーヒー豆の仕入れも、以前より少なくなっているように見える。
さらに昨日、事務室の机に不動産会社の名前が印刷された封筒が置かれていた。
一つひとつなら、何でもないことかもしれない。
しかし、すべてを並べて考えると、ある一つの可能性につながってしまう。
「喫茶こもれび、なくならへんよね……」
ひよりがつぶやく。
「私に聞かれても分からんよ」
美咲は少し困ったように答えた。
「本人たちに聞いてみたら?」
「そんなこと、簡単に聞かれへん」
「謎や疑問があったら、放っとかれへん人が何言うてるん」
「これは、いつもの謎と違うもん」
「違わへんよ。知らんまま勝手に不安になる方が、しんどいやろ」
美咲の言葉は正しかった。
しかし、もし本当に店を閉めるつもりだったら。
その言葉を義雄や千鶴の口から聞いてしまったら、今までと同じ気持ちでこの店に立てなくなる気がした。
その日の閉店後、ひよりがテーブルを拭いていると、千鶴が紙袋を抱えて事務室へ入っていった。
紙袋の口から、丸められた新聞紙がのぞいている。
しばらくすると、食器が触れ合う小さな音が聞こえた。
ひよりは布巾を置き、事務室の前まで歩いた。
扉が少しだけ開いている。
その隙間から中を見ると、机の上に小さな段ボール箱が三つ並んでいた。
千鶴は新聞紙を広げ、その上に紺色のカップを置いている。
食器棚から消えた、三つ目のカップだった。
「千鶴さん」
「うわっ!」
驚いた千鶴が、危うくカップを落としかける。
「びっくりした。ひよりちゃん、いつからそこにおったん?」
「今です。それより、そのカップ……」
千鶴は気まずそうに、手元のカップを見た。
「見つかってしもたなあ」
「やっぱり千鶴さんが隠してたんですか?」
「隠してたわけやないよ」
「じゃあ、どうして箱に入れてるんです?」
ひよりは机の上を見た。
三つの箱には、それぞれ宛名が書かれた送り状が貼られている。
一つは寝屋川市内。
一つは大阪市内。
もう一つは京都府内の住所だった。
箱の横には、小分けにされたコーヒー豆と焼き菓子、それから三通の手紙が置かれている。
「これ、誰かに送るんですか?」
千鶴は少し迷ったあと、うなずいた。
「前に、この店へよう来てくれてた人たちにね」
「前に?」
「青い花のカップは春江さんがよう使ってたんよ。茶色いカップは大川さん。紺色のは山崎先生」
どれも、かつて喫茶こもれびへ通っていた常連客の名前だった。
春江は今、京都に住む娘の家で暮らしている。
大川は足を悪くし、自宅から出ることが難しくなった。
山崎は入院しており、退院の時期はまだ決まっていないという。
「三人とも、この店には来られへんようになったけど、義雄さんのコーヒーを懐かしがってくれてるんやって」
「それで、カップを?」
「この前、こもれびが四十周年を迎えたやろ?」
「はい」
「みんなに祝ってもろて、昔のことをいろいろ思い出してな。今も来てくれてる人だけやなくて、来たくても来られへん人にも、何かできへんかなと思ったんよ」
千鶴は青い花のカップを、新聞紙で丁寧に包んだ。
「店に来られへんのやったら、店の方から会いに行ったらええと思って」
ひよりは箱の中を見つめた。
使い込まれたカップ。
義雄が選んだコーヒー豆。
千鶴が用意した焼き菓子。
それらは、かつてこの店で過ごした時間を、小さな箱へ詰め込んだように見えた。
「でも、このカップ、店の大事なものですよね?」
「せやから送るんよ」
千鶴は笑った。
「棚に置いてるだけやったら、ただの古いカップや。でも、使ってくれてた人のところへ行ったら、思い出になるやろ?」
「返してもらわなくていいんですか?」
「ええよ。持っててもらった方が、カップも喜ぶわ」
「カップ、喜びます?」
「物にも気持ちはあるんやで」
いつの間にか事務室の入口に立っていた義雄が、呆れたように口を開いた。
「また適当なこと言うてるな」
「義雄さんかて、この前、カップに『長いことご苦労さん』って言うてたやん」
「あれは独り言や」
「カップに向かって言うた独り言は、話しかけてるのと同じです」
ひよりが指摘すると、義雄は何も答えなくなった。
「ところで、どうして私には内緒だったんですか?」
「三人を驚かせようと思ってな。ひよりちゃんに話したら、顔に出そうやったから」
「出ませんよ」
「出るよ」
「出るな」
千鶴と義雄が同時に答えた。
「二人とも、私を何やと思ってるんですか?」
「分かりやすい子」
「隠し事に向いてへんやつ」
「そこまで言います?」
ひよりは頬を膨らませた。
しかし、すぐに別の疑問を思い出す。
「私は別の意味で驚いたんですよ」
「別の意味?」
「古いカップが次々となくなって、店の物も片づけてたから……店を閉める準備をしてるんかと思いました」
千鶴の笑顔が、わずかに止まった。
義雄も何も言わなかった。
事務室に短い沈黙が落ちる。
ひよりは二人を交互に見た。
「違いますよね?」
「何で、そう思ったん?」
「最近、店の写真を撮ったり、古い帳簿を箱に入れたり、道具の数を調べたりしてるからです。コーヒー豆の仕入れも減ってますよね。それに、不動産会社から封筒も来てました」
「よう見てるなあ」
千鶴が困ったように笑った。
「気になったら、見えてしまうんです」
「不動産屋の封筒は、店の建物について確認があっただけや」
義雄が答えた。
「帳簿を片づけてるんも、四十周年を迎えたのを機に、一度整理しようと思ったからや。豆を減らしたんは、先月余らせたからや」
「じゃあ、店は閉めないんですね?」
義雄は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、ひよりの胸に新しい不安が生まれる。
「義雄さん?」
「今すぐ閉めるつもりはない」
「今すぐ?」
「俺も千鶴も、いつまでも若いわけやない」
義雄は静かに言った。
「この先のことを、何も考えてへんわけやない。ただ、まだ決めたことはない」
「それなら、どうして私には話してくれへんのですか?」
「決まってへんことを話して、お前を不安にさせても仕方ないやろ」
「もう十分、不安になりました」
「それは、お前が勝手に謎を大きくしたからや」
「カップが三個も消えたら、気になります!」
「普通は店の食器を毎日確認せえへん」
「確認してません。覚えてるんです」
「それが普通やない言うてるんや」
義雄の言葉に、千鶴が小さく笑った。
ひよりは納得できなかったが、少しだけ肩の力が抜けた。
店を閉めると決まったわけではない。
しかし、いつまでも今のままではいられない。
それは考えたくなくても、いつか向き合わなければならないことなのだろう。
「ひよりちゃん」
千鶴が青い花のカップを差し出した。
「これ、包むのを手伝ってくれる?」
「いいんですか?」
「秘密を見つけられてしもたからね。共犯になってもらうわ」
「人聞きの悪い言い方はやめてください。この前の事件で懲りてますから」
「ああ、それはほんまにごめん」
「千鶴さんが謝ることやないですよ」
ひよりは新聞紙を受け取り、カップを丁寧に包んだ。
四十年の間に、この店を訪れた人は数え切れない。
毎日のように通った人もいれば、一度きりの人もいる。
引っ越した人。
年を重ね、外へ出られなくなった人。
もう二度と、この扉を開けることができない人もいる。
それでも、その人たちが過ごした時間まで消えてしまうわけではない。
思い出は、古いカップに残り続ける。
「ひより」
義雄が呼びかけた。
「はい?」
「明日の朝、少し早く来い」
「どうしてですか?」
「コーヒーの淹れ方を、もう一度教えたる」
「前にも教えてもらいましたよ」
「あれは練習や。今度は、客に出せる淹れ方を教える」
ひよりは目を瞬かせた。
「それって、私がコーヒーを淹れてもいいってことですか?」
「うまくできたらな」
「できます!」
「やる前から言うな」
「クリームソーダを作る腕なら、もう義雄さんを超えてます」
「あれは炭酸水を注いで、アイスを載せるだけやろ」
「その加減が難しいんです」
「ほんなら、一生クリームソーダ作っとけ」
「コーヒーも教えてください!」
千鶴が声を上げて笑った。
ひよりも笑いながら、最後のカップを箱へ入れた。
失われたと思っていた三つのカップは、盗まれたわけでも、捨てられたわけでもなかった。
喫茶こもれびで過ごした時間と一緒に、それぞれの持ち主のもとへ帰っていく。
しかし、ひよりの胸には、新しい疑問が残っていた。
義雄は、なぜ今になって、自分へ本格的なコーヒーの淹れ方を教えようとしているのか。
四十周年を迎えたことが、義雄と千鶴にとって何かの区切りになったのだろうか。
事務室の隅には、古い帳簿を詰めた段ボール箱が置かれている。
その上には、不動産会社の名前が入った封筒が載っていた。
ひよりはそれを見つめたが、今は何も尋ねなかった。
答えを急いではいけない謎もある。
そんなことを、少しだけ分かり始めていた。




