第十一話 消えた五十万円【解決編】
喫茶こもれびの店内には、普段とはまったく異なる空気が流れていた。
いつもならコーヒーの香りと常連客たちの話し声に包まれている店に、現在は複数の警察官と商店街の役員が集まっている。
事務室にある鍵付き書庫。
その中から見つかった、空の茶色い封筒。
前日に保管されたはずの五十万円は、跡形もなく消えていた。
そして、最後まで店に残っていたのは高瀬ひよりだった。
「高瀬さん。昨日の出来事を、もう一度最初から確認させてください」
警察官に促され、ひよりは客席へ座った。
「はい」
「現金を数えていたとき、あなたはどこにいましたか?」
「店内の片づけをしていました。森本さんと松田さんが、奥のテーブルでお金を数えていたのは見ています」
「金額も聞きましたか?」
「はい。二人で二回数えて、五十万円と言っていました」
「現金を封筒へ入れるところは?」
ひよりは、昨日の光景を思い返した。
森本が現金を集め、カウンターの内側へ移動した。
千鶴が茶色い封筒を渡した。
しかし、森本の背中に隠れ、手元は見えなかった。
「見ていません」
「封筒を書庫へ入れるところは?」
「それは見ました。森本さんが茶色い封筒を持って事務室へ行って、書庫の中へ入れました」
「封筒の中に現金が入っていることは確認しましたか?」
「……してません」
警察官は手帳へ書き込んだ。
「停電中、事務室へ入った理由は?」
「千鶴さんに頼まれて、布巾を取りに行きました」
「その間、ほかに誰かいましたか?」
「いません。私一人でした」
「書庫には触りましたか?」
「触ってません」
「停電が復旧したあと、書庫を確認しましたか?」
「閉店前に確認しました。扉は閉まっていて、鍵もかかっていました」
「書庫の鍵は?」
「レジの下の引き出しにありました」
「取り出しましたか?」
「いいえ」
警察官はひよりを責めるような口調ではなかった。
可能性を一つずつ確認しているだけなのだろう。
それでも、質問に答えるたび、自分へ向けられた疑いが深くなっていくように感じられた。
「高瀬さんの鞄を確認させてもらってもよろしいですか?」
「はい」
ひよりは自分の鞄を差し出した。
中に入っているのは、財布、筆箱、大学の教科書、化粧ポーチなどだけだ。
当然、現金は見つからない。
しかし、それだけで疑いが晴れるわけではなかった。
すでに家へ持ち帰った可能性も、どこかへ隠した可能性も残っている。
「ひよりちゃん……」
千鶴が心配そうに見つめていた。
「大丈夫です。取ってないことは、私が一番分かってますから」
ひよりはそう答えたものの、握り締めた手は震えていた。
入口付近では、商店街の役員たちが小声で話している。
「最後まで一人やったんやろ?」
「鍵の場所も知ってたみたいやな」
「でも、あの子がそんなこと……」
聞こえないように話しているつもりなのだろう。
しかし、静かな店内では、途切れ途切れに声が届いてしまう。
「ひより」
義雄の低い声が聞こえた。
ひよりが顔を上げる。
「下向くな」
「義雄さん……」
「取ってへんのやったら、堂々としとけ」
「でも……」
「俺と千鶴は、お前が取ってへんことくらい分かってる」
「どうして、そこまで信じられるんですか?」
「お前が幼い時から見てきてるし、ここで働き始めてからもずっと見てきたからや」
義雄は迷うことなく答えた。
「忙しいときでも、預かった金と釣り銭を何度も確認してる。客が財布を忘れたときも、中身に触らず追いかけて返した。レジを任せた日かて、一円も合わんかったことはない」
「それだけで、信じられるんですか?」
「人を信じるには、それで十分や」
ぶっきらぼうな言葉だった。
しかし、その一言で、ひよりの震えが少しだけ収まった。
しばらくして、警察官は森本と松田からも事情を聞き始めた。
松田は、五十万円を二度確認したと証言した。
「金額は間違いありません。最後に数えたときは、確かに五十万円ありました」
「その後、現金には触りましたか?」
「いいえ。森本さんに任せました。店の外から呼ばれたので」
「戻ってきたとき、現金は?」
「もう茶色い封筒に入れられていました」
「中身は確認しましたか?」
「していません」
次に、森本が客席へ座った。
「現金を封筒へ入れたのは、あなたですね?」
「はい。間違いありません」
「その場を見ていた人は?」
「皆さん、店内にいました。千鶴さんにも、書庫へ入れるところを確認してもらいました」
「封筒へ現金を入れるところを、誰かが直接確認しましたか?」
森本は一瞬、言葉を止めた。
「そこまでは……分かりません。でも、確かに入れました」
「封筒は封をしましたか?」
「口を折って閉じました。のりづけまではしていません」
「書庫へ入れたあと、現金には触っていない?」
「もちろんです」
「停電中は、どこにいましたか?」
「カウンターの近くです。動いていません」
「店を出た時刻は?」
「午後六時半頃だったと思います」
森本は落ち着いた口調で答えている。
しかし、ひよりには一つだけ引っかかる言葉があった。
『千鶴さんにも、書庫へ入れるところを確認してもらいました』
確かに千鶴は、森本が茶色い封筒を書庫へ入れるところを見ている。
しかし、封筒の中身を確認したわけではない。
ひよりは、空の封筒へ目を向けた。
五十万円は、鍵のかかった書庫から消えた。
本当に、そうなのだろうか。
そもそも五十万円は、書庫の中へ入っていたのだろうか。
「すみません」
ひよりが声を上げた。
店内にいた人々が、彼女を見る。
「空になった封筒を、見せてもらってもいいですか?」
警察官が少し考えたあと、手袋をつけたまま封筒を持ち上げた。
「触ることはできませんが、見るだけなら」
「ありがとうございます」
茶色い封筒は、どこにでもある事務用のものだった。
表面には何も書かれていない。
口は破れておらず、のりづけされた跡もない。ただ折り畳まれているだけだ。
「この封筒、千鶴さんが渡したものですよね?」
「そうやよ」
「中身が入っているところは見ましたか?」
「森本さんがカウンターの中で作業してたから、手元までは見てへん」
「書庫へ入れるとき、封筒が膨らんでるとか、重そうとか、分かりました?」
千鶴は記憶をたどるように目を閉じた。
「そこまでは覚えてへんなあ。普通に持ってたと思うけど」
ひよりは、昨日の出来事を順番に思い返した。
五十万円を数え終えたとき、現金は確かにテーブルの上にあった。
松田が店の外から呼ばれた。
森本が現金を集め、カウンターの内側へ移動した。
千鶴から茶色い封筒を受け取った。
その後、封筒を持って書庫へ向かった。
森本は最初から最後まで、黒い鞄を肩に掛けていた。
「森本さん」
「何や?」
「現金を数えたあと、どうしてカウンターの中へ移動したんですか?」
「封筒がそこにあったからや」
「千鶴さんに、テーブルまで持ってきてもらえばよかったですよね?」
「そんなこと、いちいち覚えてへん」
「カウンターの中に入ったとき、鞄も持ってましたよね?」
森本の表情がわずかに強張った。
「ずっと肩に掛けてたからな」
「その鞄の中を、確認させてもらってもいいですか?」
「何でや」
「五十万円が書庫から盗まれたとは限らないからです」
店内が静まり返る。
森本がひよりを見つめた。
「俺が取ったって言いたいんか?」
「まだ、そうとは言ってません」
「言ってるのと同じやろ」
声に怒りが混じる。
ひよりは怯みそうになったが、義雄の言葉を思い出した。
取っていないのなら、堂々としていればいい。
「五十万円は確かに数えられました。でも、現金が封筒へ入るところを見た人は、一人もいません」
「俺は入れた」
「それを証明できるのは、森本さんだけです」
「千鶴さんが、書庫へ入れるところを見てる」
「千鶴さんが見たのは、茶色い封筒です。五十万円ではありません」
森本は何も答えなかった。
「もし封筒が最初から空だったなら、鍵を使って書庫から盗む必要はありません。入口や窓が壊されていないことも、書庫の鍵が元の場所にあることも、全部説明できます」
「ほんなら、停電はどう説明するんや」
「停電は事件と関係ありません」
「停電中に、誰かが取ったかもしれんやろ」
「そう思わせるために、利用したんと違いますか?」
ひよりは森本をまっすぐ見た。
「停電を起こしたわけではない。でも、偶然停電が起きた。それで、停電中に誰かが書庫を開けたことにすれば、自分に疑いは向かないと思った」
「勝手なこと言うな!」
森本が立ち上がる。
「俺は何年、この商店街の会計をやってきたと思ってる!」
その声に、ひよりの肩が震えた。
警察官が二人の間へ入る。
「落ち着いてください。高瀬さんも、推測だけで決めつけないように」
「すみません……」
「森本さん。念のため、鞄の中を確認させていただけますか?」
「嫌や」
「任意です。ただ、確認できれば疑いを晴らすことにもつながります」
「何も入ってへん」
「でしたら、見せていただけませんか?」
森本は黒い鞄を強く握り締めた。
その拍子に、外側のポケットから白い紙が落ちた。
「あっ」
森本が慌てて拾おうとする。
しかし、先に警察官が紙を確認した。
「これは?」
小さな領収書だった。
日付は昨日。
時刻は午後八時十二分。
金額の欄には、四十八万円と記載されている。
「昨日の夜、四十八万円を支払っていますね」
警察官の声が低くなる。
「これは何の支払いですか?」
「店の……仕入れ代や」
「どちらへ支払ったものですか?」
「それは……」
「昨日、五十万円を預けたあと、午後六時半頃に喫茶こもれびを出た。そのおよそ一時間半後、四十八万円を現金で支払っているということですか?」
「前から用意してた金や」
「どこに保管していましたか?」
森本は答えられなかった。
額には、細かな汗が浮かんでいる。
「鞄の中を確認させてください」
警察官がもう一度告げる。
森本は黒い鞄を抱えたまま、うつむいた。
「森本さん」
千鶴が静かに呼びかける。
「ほんまに、あなたなん?」
長い沈黙が流れた。
やがて、森本の手から力が抜けた。
黒い鞄が、床へ落ちる。
「……どうしようもなかった」
小さな声が聞こえた。
「何て?」
「仕入れの支払いが昨日まででどうしようもなかったんや」
森本が顔を上げる。
「文具店の支払いが、昨日までやった。払わんかったら、もう商品を卸してもらえへん。店を続けられへんようになる」
「それで、イベントのお金を?」
商店街の役員が尋ねる。
「昨日、知り合いから借りる予定やった。その金で、支払う予定やったんや」
「でも、用意できなかったんですね」
ひよりが言う。
森本は苦しそうにうなずいた。
「急に貸せへんと言われた。どうしたらええか分からんようになった」
「だから、盗まれたことにした」
「停電が起きたとき、これなら誰かが取ったことにできると思った」
「最後に残った私が疑われることも、分かってましたよね?」
ひよりの問いに、森本は目を合わせなかった。
「店の鍵を持ってる人間に疑いが向くとは思った」
「それが私でも、構わなかったんですか?」
「……すまん」
ひよりは、すぐに許すことができなかった。
店を守りたかったという事情。
友人に借りれなかったという言葉。
それが本当だったとしても、森本は五十万円を持ち出し、自分とは無関係の誰かへ罪を着せようとした。
「森本さん」
義雄が、カウンターの中から声をかけた。
「事情があるんは分かる」
森本が顔を上げる。
「せやけど、秘密を守るんと、罪を隠すんは違う」
義雄の声は静かだった。
「店を守るためやったら、誰かを犯人にしてもええんか?」
森本は何も答えられず、うつむいた。
警察官は森本から詳しく事情を聞くため、店の外へ連れていった。
四十八万円は仕入れ先へ支払われていたが、領収書や支払いの記録が残っている。今後、警察が事実関係を確認することになった。
店内に残った商店街の役員たちは、ひよりへ頭を下げた。
「高瀬さん、疑うようなこと言うて、申し訳なかった」
「まだ何も決まってへんのに、勝手なこと言うてしもた」
「……もう、いいです」
ひよりは答えたものの、胸の奥に残った苦しさは消えなかった。
疑いが晴れた安堵よりも、信じてもらえなかった悲しさの方が大きい。
店の扉が勢いよく開いた。
「ひより!」
入ってきたのは美咲だった。
「美咲?」
「お金がなくなって、ひよりが疑われてるって聞いて……」
「もう解決したよ」
「ほんまに?」
「うん。私やなかったって分かってもらえた」
美咲は安心したように息を吐いた。
「当たり前やろ。ひよりが五十万円盗むわけないやん」
「どうして、そんな簡単に信じられるん?」
「五十万円あったら、クリームソーダ何杯飲めるか計算し始める人やで。盗む度胸なんかあるわけない」
「それ、信じてるんか馬鹿にしてるんか、どっち?」
「両方」
美咲の言葉に、ひよりは少しだけ笑った。
千鶴がひよりの肩へ手を置く。
「今日は店、休みにしようか」
「でも……」
「こんな日に、無理して働かんでええよ」
「大丈夫です」
ひよりは店内を見回した。
空の客席。
カウンターの奥に並んだコーヒーカップ。
木製扉の向こうから聞こえる、商店街を行き交う人々の声。
昨日までと同じ喫茶こもれびだった。
「店、開けましょう」
「ほんまにええの?」
「はい。こういうときこそ、いつもどおりがいいです」
義雄はひよりを見たあと、何も言わずにコーヒー豆を取り出した。
「ひより」
「はい?」
「開店前に、一杯飲むか」
「コーヒーですか?」
「ほかに何がある」
「できれば、クリームソーダがいいです」
「朝からか?」
「好きなものを飲んだ方が、元気出るんで」
義雄は呆れたようにため息をついた。
それでも冷蔵庫から炭酸水を取り出し、背の高いグラスへ注ぎ始める。
緑色の炭酸水。
丸いバニラアイス。
一番上には、真っ赤なサクランボが載せられた。
「ほら」
「ありがとうございます」
ひよりはカウンター席へ座り、クリームソーダを受け取った。
美咲が隣へ座る。
「私の分は?」
「客なら注文せえ」
義雄が答える。
「友達を慰めに来たんですけど」
「それと注文は別や」
「ほんま商売人やなあ」
「店やからな」
いつものやり取りに、千鶴が笑う。
ひよりはクリームソーダへ口をつけた。
疑われたことは、簡単には忘れられない。
事情があるからといって、森本のしたことを許せるわけでもない。
それでも、自分を信じてくれた人たちがいる。
義雄と千鶴。
美咲。
そして、いつもと変わらない喫茶こもれび。
「ひより、またサクランボ最後まで残すん?」
美咲が尋ねる。
「一番好きやからね」
「アイス溶けてるで」
「分かってる」
ひよりはグラスの上に残したサクランボを見つめた。
外では、商店街の店が次々とシャッターを開け始めている。
もうすぐ、喫茶こもれびにも客がやって来る。
ひよりはクリームソーダを飲み終えると、最後に残していたサクランボを口へ運んだ。
「よし」
席を立ち、黒いエプロンを身につける。
「今日も頑張りますか」
義雄が店の扉に掛けられた札を、営業中へ裏返した。
重大な事件が起きても、喫茶こもれびの日常は終わらない。
扉の向こうでは、最初の客が店へ入るのを待っていた。




