第6回
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猿彦が産まれたのは、かつて三河と呼ばれた国の山奥、こぢんまりと佇む小さな山村だった。
農業以外にこれといった特産物があるわけでもなく、村人は淡々と農業に勤しむ、ただそれだけの村。
猿彦、と呼ばれるようになったのは本当に幼い頃のことだ。
本当の名前は、もうとっくの昔に忘れてしまった。
親ですら猿彦のことを「サルや、サルや」と呼ぶものだから、村の誰もが猿彦の名前を猿彦だと思い込んでしまったのである。
猿彦は毒に冒された意識の中で、そんな幼い頃の出来事を思い出していた。
いや、それはもはや走馬灯でしかなく、自らが死に向かっていることが自覚できるほど鮮明な思い出となって、彼の脳裏を過ぎていった。
まだ物心つく前から猿彦は山に現れる猿の群に夢中だった。
自分はなぜ人として生まれてきたのか、あの群れの中にいないのか。
幼心にそんなことを思っていたような記憶がある。
歳の近しい子供たちとはあまり遊ぶことなく、猿彦はいつの頃からか、見よう見まねで山を自由自在に駆け回る猿たちの真似をするようになっていた。
軽々と木に登り、枝から枝へ飛ぶようにして渡り歩き、木に成る果実を取っては家への土産として持ち帰った。
なかでも猿彦が憧れたのが、その猿を統べていたヌシ猿であった。
その姿は貫禄に満ち満ちており、まるで仙人が如き姿となって猿彦の目には映っていた。
ヌシ猿もまた、そんな猿の真似を繰り返す猿彦に興味を覚えていたのだろう。
まるで彼を猿の群の仲間であるかのように、時として迎え入れることもあった。
親からはあまりヌシに魅入られるな、連れていかれるぞと脅されたが、それでも猿彦は親の言うことなど聞く気もなく、ただただ農作業も放っぽりだして、山を猿と共に駆け回っては木の実や山菜を取って帰った。
村の皆はそんな猿彦を奇異の眼で見ていたが、歳を経るごとに猿彦に対する村人の態度はより酷いものとなっていった。
まるで本当の猿か何かのような態度で彼に接し、彼の両親も「猿の親め」と罵られた。
道を行くたびに石を投げられ、畑作では誰も手伝ってはくれなかった。
そればかりか、猿彦の家の畑を荒らして回るなどということも当たり前だった。
彼はそのために、村を出ることを決意した。
どのみちこんな山奥の寂れた村で一生を過ごすことなど考えておらず、あの猿から学んだ軽業でどこぞの国に陣借りするつもりだったのだ。
そこで手柄を立てて武士としてやっていく。もし可能ならば一国の主にでもなって自分を馬鹿にしてきた村人を見返してやろうなどと考えていた。
村を去るとき、彼を見送るものは誰もなかった。
そのころには誰もが彼のことを忌み嫌っていたからである。
猿彦が最後に村を一望した、その時だった。
遥か山中の向こう側に、あのヌシ猿がこちらをじっと見つめていたのである。
猿彦はそんなヌシ猿に深々と頭を下げ、礼を述べた。
そうして猿彦は、数十年という長い歳月を、傭兵浪人として過ごすことになったのである。
彼の夢は叶わなかった。
軽業を以てして戦場を駆け抜け、それなりの活躍を見せるものの、大将首を取るなどという手柄も立てられないまま、ただただ戦場を駆け抜けてきた。
そんな人生も、もうすぐ終わる。
背中に受けた毒矢によって、俺は命を落とすのだ……
猿彦の意識は朦朧としていた。
何の手柄も立てられなかった自分を恥じた。
耳をすませば、それみたことかと村人どもの嘲笑する声が聞こえてくるようだった。
――身体中が、重い。
鉛のような身体からは、すでに感覚というものが失われていた。
俺の人生は、いったい何だったのか。
ただ傭兵浪人として、人生を終えてしまうことになるのか。
あぁ、口惜しい。憎らしい。
まだ、まだ俺の夢は叶っていない。俺は生きたい、生きて手柄を立てて、村の連中を見返してやりたい。
それなのに、もう、身体が動かない。
何も見えない。聞こえない。
あぁ――俺が逝くのは地獄か、それとも――
その時、彼のまぶたの裏に光り輝く何かが見えた。
それはとてもぼんやりしていたが、やがてゆっくりと形を成し、とても懐かしい姿へと変貌していった。
それは、幼き日に共に過ごした山のヌシ猿であり、数日前に目にしたあの大猿そのものに間違いなかった。
大猿は憐憫の眼で横たわる猿彦を見おろし、ゆっくりと人の言葉を口にした。
「――生きたいか」
猿彦の意識はその瞬間、とても鮮明なものとなった。
硬直した体のまま、じっと大猿の姿を見つめる。
「わしは、ずっとお前を見守ってきた」
これは――いったいどうしたことか。
この大猿は、まさか――
「生きたいか、猿彦」
大猿が、改めてそう訊ねてきた。
猿彦は歯を食いしばり、涙を流した。
心の中にある様々な思いが交錯し、混じり合い、そして言葉となって口から漏れ出る。
「……生きたい。まだ、死にとうない。この戦で手柄を立てて、故郷に俺の力をみせつけてやりたい……!」
すると大猿はこくりと頷く。
「――いいだろう。その代わり、お前の魂亡きあと、その輪廻の身体は儂がもらい受けることになるが、それでも良いか」
魂亡きあと? 輪廻の身体?
……かまうものか。
今ここで死んで輪廻をやり直すよりも、俺にはやるべきことがあるのだから。
「――頼む」
「……承知した」
その途端、大猿の身体は再び眩しい光に包まれた。
それは光の玉となって宙を舞い、猿彦の胸の中に重く伸し掛かってくる。
なんだこれは、と思っていると、見る見るうちにその光の玉は猿彦の胸の中にその身を沈めていき、やがて――




