第六十九話 「盃」
最上階。
静寂が広がる。
桐生院一輝の刀は床へ転がり、真昼の赤い刀の切っ先は一輝の喉元へ向けられていた。
一歩動けば。
勝負は終わる。
一輝は小さく笑う。
「俺の負けだ」
真昼は何も言わない。
ゆっくりと刀を下ろした。
「殺さないのか?」
「殺す理由がありません」
その一言だった。
一輝は肩をすくめる。
「相変わらず甘いな」
「違います」
真昼は静かに答える。
「必要のない命は奪いません」
その時だった。
ガチャッ——。
部屋の扉が開く。
黒いスーツ姿の男が数人入ってくる。
その中央。
壮年の男。
漢江会会長――桐生院政井だった。
「……そこまでだ」
低い声が部屋に響く。
「親父」
一輝が苦笑する。
政井は一輝を一瞥すると、そのまま真昼へ視線を向けた。
「五条の若頭か」
「はい」
真昼は刀を納めた。
政井は倒れている構成員達を見渡し、小さく息を吐く。
「見事だ」
その言葉に偽りはなかった。
若頭一人でここまで来た。
敵ながら賞賛に値する。
「だが」
政井は一輝へ向き直る。
「一輝」
「……」
「お前には失望した」
部屋の空気が張り詰める。
「組の者を私情で動かし、抗争を起こした。」
「挙げ句の果てには無関係の女性を攫うとは……漢江会の若頭失格だ」
一輝は何も言わない。
反論もしない。
「申し開きはあるか」
数秒の沈黙。
やがて一輝は笑った。
「ない」
その返事に政井は静かに目を閉じた。
「そうか」
その時。
再び扉が開く。
黒い着物姿の男が入ってくる。
後ろには五条会の組員達。
部屋の空気がさらに張り詰めた。
五条真人。
五条会会長。
真昼の父だった。
「父上」
真昼が頭を下げる。
真人は小さく頷くだけだった。
そして政井を見る。
「久しいな」
「ああ」
二人はゆっくり歩み寄る。
誰も武器を構えない。
誰も言葉を発しない。
長年、組を率いてきた者同士。
互いの覚悟は理解していた。
政井が静かに口を開く。
「今回の件は漢江会に非がある。」
「申し訳なかった」
深く頭を下げる。
漢江会会長が敵対組織に頭を下げる。
その光景に構成員達は息を呑んだ。
真人はしばらく政井を見つめていた。
やがて口を開く。
「謝罪は受け取る。」
「だが、このままでは終われん。」
政井は頷く。
「分かっている」
側近が小さな盆を運んできた。
その上には二つの盃。
静かな空気の中。
真人と政井は向かい合う。
互いに盃を手に取る。
酒が注がれる。
そして。
二人は同時に盃を口へ運んだ。
これをもって。
五条会と漢江会の抗争は終結した。
部屋にいた誰もが、その瞬間を静かに見届ける。
真人は真昼へ視線を向けた。
「真昼。」
「はい。」
「紫雲さんを連れて帰るぞ。」
「はい。」
真昼は紫雲の拘束を解く。
「大丈夫ですか。」
「はい……ありがとうございます。」
紫雲は安心したように微笑んだ。
その様子を見た一輝は、小さく笑う。
「今回も俺の負けか。」
真昼は振り返らない。
「次はありません。」
そう言い残し、紫雲と共に部屋を後にした。
一輝はその背中を静かに見送る。
「……真昼。」
小さく呟く。
その瞳から狂気は消えていない。
むしろ。
さらに強く燃え上がっていた。
それが、数年後。
再び五条会を揺るがす大事件へと繋がることを、この場にいる誰もまだ知らなかった。




