十六話「少女は謝る事しか知らない」
果実と干し肉を食べ終えた頃には、少女の頬へ少しだけ色が戻っていた。
それでも距離はある。
俺と目が合えば肩が揺れるし、手を動かせば耳がぴくりと震える。
空腹は紛れても、恐怖心は簡単に消えないらしい。
沈黙が落ちた。
風だけが平原を撫でる。
遠くでは眠羊たちが、警戒しながら草を食べていた。
「……ずっとここに居たのか?」
出来るだけ柔らかく聞く。
少女は返事をしない。
代わりに、小さな指が盆地の奥を指した。
視線を追う。
そこには、崩れた石壁と半壊した家々があった。
以前、遠目に見えた集落跡だ。
「……あれ、お前の村か?」
びくり。
少女の耳が揺れる。
そして、ゆっくり頷いた。
「……おとう、さん……と……おかあ、さん……」
掠れた声。
「帰ったら……いる、と……思って……」
途中で言葉が止まる。
言わなくても分かった。
残っていたのは廃墟だけだったんだろう。
「……ずっと、一人か」
今度は返事が無い。
けれど沈黙が答えだった。
ソフィアが静かに眉を寄せる。
「盆地なら比較的安全じゃ。眠羊もおる。草や木の実を分けてもろうて生き延びとったんじゃろ」
少女が僅かに頷く。
「でも長くは持たんの」
ソフィアは小さく溜息を吐いた。
「もう痩せとる。次の冬は越せんじゃろうな」
「……っ」
少女の耳が伏せられる……図星だったのかもしれない。
また沈黙。
俺は頭を掻いた。
こういう時、何て言えばいいのか分からない。
分からないが……放っておけるほど器用でもない。
「……なあ」
少女がびくっとする。
そんなに怖がられると、少し傷付く。
「住む場所、無いなら来るか?」
「……ぇ」
声が止まった。
ソフィアが腕を組む。
「お主一人では生き残れん。わしらの拠点なら飯も寝床もある。まあ、こやつの村もまだ廃墟じゃが」
「そ、そんなハッキリ言うなよ」
「事実じゃろ」
ばっさりだった。
少女は何度も瞬きを繰り返す。
理解が追いついていない顔だ。
「……でも……わた、し……」
「迷惑とか言うなら却下じゃ」
ソフィアが先回りする。
「飯は増える。仕事も増える。じゃが住人がおった方が村は回る」
「おい本音」
「何じゃ。大事じゃろ」
否定出来なかった。
すると少女が震える声で呟く。
「……にん、げん……」
その一言で意味が分かる。
人族だから怖いんだ。
俺は少し考えてから口を開いた。
「……絶対なんて軽々しく言うもんじゃないんだろうけどさ」
少女が顔を上げる。
「少なくとも俺は、お前を殴らない。売らない。腹減っても飯は出す」
「…………」
「嫌なら、いつ出てってもいい」
そこまで言って肩を竦めた。
「だからまあ……試しに来いよ」
説得じゃない。
提案だった。
少女は固まる。
耳だけが小さく震えていた。
と、その時。
「にゃ」
軽い鳴き声。
「……?」
いつの間にか、スノーが少女の足元へ近付いていた。
警戒心ゼロだった。
少女が硬直する。
「にゃふ」
そして当然みたいに膝へ前足を乗せた。
「……っ!?」
少女は目を丸くするが、逃げない。
スノーはそのまま鼻先を少女の手へ擦り寄せた。
くすぐったかったのか、小さな肩が揺れる。
「……あ」
ぽつりと呟く少女。
恐怖じゃない、戸惑いでもない、少しだけ柔らかい音。
そんな声音の声だった。
「……ふわ、ふわ……」
「にゃー」
満足そうに喉を鳴らすスノー。
その様子を見て、本当に僅かだったが、少女の口元が緩む。
笑った。
すぐ消えるほど小さい笑み。
けれど確かに、ここへ来て初めて浮かんだ表情だった。
俺は思わず目を瞬く。
ソフィアも気付いたらしい。
何も言わず鼻を鳴らした。
「……行く、か?」
もう一度だけ聞く。
今度、少女は長く黙ったあと__、こくり。
小さく頷いた。
◇
帰り道。
少女は終始、俺から数歩離れて歩いていた。
近付き過ぎず、離れ過ぎず。
逃げられる距離を保つみたいに。
けれど途中から、スノーだけは当然みたいな顔で少女の肩へ移動していた。
「にゃ」
「……ぁ」
耳へ尻尾が当たる。
少女が困ったように目を細める。
また少しだけ笑った。
その度に、警戒が薄れていく気がした。
やがて拠点が見えてくる。
黒褐色の外壁。
増築された二階部分。
廃墟だった頃を知っている俺ですら驚く建物だ。
少女の足が止まった。
「……すご……」
ぽつり。
初めて、自分から零した感想だった。
「ん? どうした」
「……おうち……」
懐かしむみたいな声音。
胸の奥が少し痛む。
帰る場所を失った子供なんだと、改めて実感してしまった。
「……今日からお前の家にするかは、後で決めろ」
俺は頭を掻きながら言う。
「まずは飯だな。腹減ってるだろ」
「……っ」
耳がぴくりと揺れる。
「それと、風呂だよな。そろそろ俺も入りてえ」
「まだ無いぞ!?」
「作れ職人」
「無茶言うでない!」
ソフィアが噛み付くように返す。
珍しく騒がしいやり取りだった。
少女はぽかんと見ていたが、小さく口元を緩めた。
本当に少しだけ。
でも、確かに笑った。
◇
拠点へ入り、落ち着いた頃。
食堂の机へ並べられたのは、湯気の立つ木椀だった。
薄い琥珀色の汁。
中には細く裂いた兎肉と、刻まれた薬草が浮いている。
香りは素朴だ。
けれど空腹には十分すぎるほど優しい匂いだった。
「あり合わせじゃ」
鍋を置いたソフィアが鼻を鳴らす。
「薬草は滋養がある。痩せた身体には丁度良い」
「……ソフィア、お前いつの間に」
「儂を誰じゃと思っとる。職人じゃぞ」
意味が分からない理屈だった。
少女は机へ座る事すら迷っていた。
椅子へ手を掛け、引っ込める。
また掛ける。
「座れって。取って食ったりしねぇから」
「……っ」
その言葉で肩が跳ねた。
けれど数秒後。
恐る恐る椅子へ腰掛ける。
浅く、すぐ逃げられるように。
癖なんだろう。
「冷める前に食え」
「…………」
少女は木椀を見つめる。
湯気、匂い、揺れる汁………それらを眺めたまま動かない。
「……嫌いな物でも入ってたか?」
「ちが……」
小さく首が振られる。
「……あったかい……」
零れた声は味への感想じゃなかった。
驚きだった。
その一言で分かってしまう。
この子は、温かい食事をずっと食べていなかったんだと。
少女は木匙を持つ。
震える手で掬い、ゆっくり口へ運んだ。
「…………」
飲み込み、止まる。
耳が小さく揺れている。
「……おいし……」
声が掠れているが、次の一口は少し早かった。
もう一口。
また一口。
途中で慌てて飲み込み、咳き込む。
「げほっ……」
「だから慌てるなと言うに……阿呆じゃの」
ソフィアが呆れた顔をする。
怒っている訳じゃない。
その声音が分かったのか、少女は目を丸くしていた。
叱責じゃなく心配、慣れていないんだろう。
やがて木椀は空になった。
少女はしばらく底を見つめた後、はっとして顔を伏せる。
もっと食べたいと思った自分が恥ずかしい。
そんな反応に見えた。
「……足りねぇか?」
そう聞くが、反射で首が横に振られる。
けれど、その直後__ぐぅ……と腹が鳴った。
「…………」
「…………」
「…………」
耳まで赤く染まる。
「……ご、ごめ……なさ……」
また謝る。
謝る必要はないのに。
俺は干し肉を追加で置く。
「謝るな」
「……ぇ」
「腹減るのは普通だろ」
少女は目を瞬く。
理解できない、そんな顔だった。
やがて、小さな声が零れる。
「……おなか、すいた……って言ったら……」
「……?」
羊耳が震える。
「……ぶたれて……ごはん、もらえなくて……」
空気が止まった。
「こわい、にんげん……から……にげて……」
途切れ途切れで、伝えてくれる。
思い出したくも無いはずなのに。
「……でも、つかまったら……いや、だから……」
そこまで行って口を閉じる。
「…もういい。悪かったな辛いことを思い出させて」
「……」
俺はそれ以上は聞きたくなかった。
怒りでどうにかなりそうだったからだ。
せっかく少女が側にいてくれるようになったのに、また距離を置かれてしまう。
ソフィアも珍しく怖い顔をしている。
スノーが宥めるようにソフィアの頭へ飛び乗った。
その後、少女はおずおずと干し肉を小さく齧る。
その姿を見て、ソフィアが鼻を鳴らす。
「……痩せ過ぎじゃ。働かせる前に肉付けんとの」
「もう働かせる気かよ」
「村を回す人手は大事じゃろ」
「本音が早ぇ」
ソフィアとのいつものやり取り。
少女はポカンと、不思議そうに見ていた。
それから___本当に僅かに、笑った。
暫くして。
静かになった食堂で、少女が指をもじもじと絡め始める。
何か言いたそうだった。
「……ん?」
顔を上げると、羊耳がぴくりと反応する。
「……わ、たし……」
小さな声。
「アリシア……です」
数秒遅れて意味が届く。
名前だ。
初めて、自分からくれたもの。
「……そっか」
俺は自然と笑っていた。
「よろしくな、アリシア」
「よろしくじゃな」
「にゃ」
スノーまで鳴く。
少女__アリシアは驚いた顔をして。
少し迷って。
最後に、小さく頷いた。
その頷きは、最初に会った時みたいな怯えじゃない。
ほんの少しだけ。
安心に近いものだった。
こうして、俺たちの拠点の村へ、また一人。
小さな羊耳の住人が増えた。




