十五話「怯える羊人族」
「……っ」
目が合った瞬間、少女の肩がびくりと跳ねた。
年齢は十歳前後だろうか。
白の髪の隙間から覗く、小さな羊耳。
頭の両側には短い角が生え、腰の辺りでは綿毛みたいな尻尾が震えている。
人族じゃない。
「……羊人族……か?」
思わず口から漏れる。
その一言で十分だった。
「ひっ……」
少女は怯えたように後ずさる。
逃げようと足を動かし、草で躓き尻もちをついてしまう。
「だ、大丈___」
怪我してないか、そう声をかけようと手を伸ばしかける。
だが、
「こ、殺さないで……っ」
細い声が耳に刺さった。
伸ばしかけた手が途中で止まる。
「……え」
呆気に取られてしまった。
殺さないで、と口にした少女は小動物みたいに身体を縮め、俺を見るだけで震えている。
何故だろうか。
そんな疑問が頭を巡る。
そこへ、様子を覗いていたソフィアが側へとやってきた。
「……珍しいの」
「知ってるのか?」
「お主の言った様に羊人族じゃ、昔は放牧や家畜管理を得意にしとった種族じゃな」
説明の間も、少女の目は逸れない。
いや違う、逸らせないんだろう。
涙の膜が張った瞳。
逃げ道を探すみたいな視線。
その顔を見ていると、自分が何か酷い事をした気分になる。
俺は動けなかった。
と、その時、くぅー…っと静かな平原へ小さな腹の音が響く。
「…………」
「…………」
少女の耳がぴたりと固まった。
次の瞬間、顔色が変わる。
青ざめていた。
まるで腹が鳴っただけで怒られる、とでも思い出したみたいに。
少女は反射的に腹を押さえ、俯いた。
俺はそのままには出来ず、何とか声をかける。
「……腹、減ってるのか?」
「_____!」
空腹なのかと思いそう聞くが、羊人族の少女は首が取れそうなほど首を振り、否定する。
本気で俺に怯えていた。
「カイトや、羊人族はの……昔、人族の勇者に集落ごと焼かれた事があるんじゃよ」
「なっ___」
ソフィアの言葉に目が見開く。
だから俺に対してこんなに怯えてるのか。
ソフィアは静かに首を振り、続きを淡々と語る。
「放牧地が欲しかったとか、魔族側へ協力するならどうなるか、そんな脅し文句をチラつかせての」
静かな声だった。
「生き残りは散り散り、今じゃ数も少ない」
少女がここまで怯える理由がようやく分かった。
この目は天敵に怯える目だったんだ……。
俺は自然と拳に力が入るのを感じた。
嫌な感じがした。
胸の奥がざわつく感じだ。
そこでふと、転生前__あの胡散臭い神様の言葉を思い出す。
「そういや爺さんが言ってやがったな」
『おやつタイム中に誤って選外指定の異世界人を転移させてしまった件も、これで許してもらえるじゃろ』
選外指定。
あの時は意味が分からなかった。
けれど、もし過去に、この世界へ降り立った異世界人が居るとしたら……。
そして、もしそいつが___、
「いや、憶測は良くねえか」
嫌な想像を振り払う。
根拠なんて何もないのだ。
ただ、なぜだが、胸騒ぎだけは残っている。
「ご、ごめんなさい……っ、ごめんなさいっ!」
少女の声で我に返る。
「ごめんなさい……っ、食べ物が欲しいって……もう言いませんから……っ」
その言葉に思考が止まる。
___言いませんから。
まるで以前、口にして怒られた事がある、みたいな言い方だ。
「叩かないで……」
小さな声。
でも鮮明に聞こえた。
謝ることに慣れ過ぎている……そんな声音だった。
それを聞いた瞬間、胸の奥が痛む。
こんな幼い少女にどんな仕打ちをしたんだと、憤慨しそうになった。
「……これカイトや、顔が怖いぞい」
「……?」
「威圧感が出とる。考え込むな」
言われて気づいた。
知らない間に拳を握りしめていたらしい。
少女は恐怖で縮こまっていた。
「わ、悪い」
俺はしゃがみ込み、出来るだけ目線を下げた。
そして『次元収納』から『陽果実』と『兎の干し肉』、小瓶に入った『冷水』を取り出す。
すると、少女の耳がぴくりと揺れた。
「……食うか?」
少女の側へ差し出すと、ビクッと肩が跳ねる。
視線が果実と肉、そして俺へと往復していた。
腹は減っている。でも近寄れない。そんな感じである。
何だかスノーと出会った時の事を思い出してしまった。
「食って良いんじゃよ? もちろん毒もない」
ソフィアが優しく諭す。
「食わんとお主が倒れてしまうじゃろ。そうなると、このお人好しが心配するでな」
少女の耳が小さく伏せられる。
沈黙が続く。
風が平原の草を揺らしている間も、遠くで逃げた眠羊が警戒しながらこちらへ戻ってきている間も、それは続いた。
暫くして意を決したのか、少女が口を開く。
「……い、いらな……」
掠れた声……だが、その言葉の途中で大きく腹の音が鳴った。
「………」
「………」
「………」
少女の顔が今度は赤くなる。
耳まで真っ赤だ。
次には、ぽろっと涙がこぼれた。
「……っ」
泣くつもりじゃなかったんだろう。
本人も驚いたようで目を丸くしている。
ずっと堪えていたのに泣いてしまって驚いたのだろう。
「わ、わたし……その……」
声が震える。いや、先ほどから震えっぱなしだ。
「ずっと……食べて、なくて……っ」
途切れ、途切れで話をしてくれる。
「……カイト」
「ああ」
俺はソフィアの言葉に、果物と干し肉をその場に置き、一歩下がった。
「何もしないからな、安心しろ」
「………」
「食った後、逃げても追わない」
本当は話を聞きたい。
でも、最初に会った時のスノーと同じだ。
こちらから無理に詰めてはいけない。
だから、俺は側にある岩肌に腰を下ろし見守った。
「………あ」
小さな声。
少女の指先が震えながら伸びる。
果実に触れるが、途中で止まり、こちらへ恐る恐る視線を送っている。
俺は見ていないフリをした。
なかなか口を付けない。
警戒しているのだろう。
食うか食わないか、それを決めるのは向こうだ。
無理やり与えるのは違う気がした。
風が吹く、平原の草が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、小さな音と共に、少女の指が陽果実を掴んだ。
動きは驚くほど慎重だった。
盗むみたいに。
見つかったら取り上げられるとでも思っているみたいに。
恐る恐る口へ運ぶ。
「…………あ」
小さな声だった。
少女の目がゆっくり見開いていく。
陽果実の甘味が口いっぱいに広がったんだろう。
乾いた唇が僅かに震える。
「……おい、しい……」
ぽつり。
零れた声は、ひどく弱々しかった。
でも、その一言だけは妙に鮮明で。
ずっと食べていなかったんだと分かってしまう。
次の瞬間だった。
小さな口が慌てるように動き始める。
「あ、おい。ゆっくり食え」
思わず声が出た。
少女の肩がびくっと揺れる。
咀嚼が止まり、またも怯えた目を向けてきた。
「……取り上げねぇよ」
「…………」
「誰も怒ってない」
数秒の沈黙の内、やがて少女は恐る恐る頷いた。
小さい、本当に小さい動きだった。
けれど、それは最初の拒絶とは違った。
少しだけ、ほんの少しだけ、こちらの言葉を聞こうとしている……そんな頷きだ。
俺は少女の側に置いておいた干し肉と水にも視線を落とし伝える。
「水も飲め」
少女はまた俺を見る。
一瞬だが、その視線は何かを確かめるみたいに、鋭かった。
怯えているが、妙な観察眼がある。
どこまで近付いて良いか、本当に安全か、無意識に測っているのかも知れない。
そんな事を考えていると。
少女が小瓶へ口を付ける。
一口、二口、口に含むと、途中から止まらなくなった。
「っ、げほ……!」
飲み過ぎて咳き込んでしまう。
「阿呆、慌てるからじゃ」
それを見ていたソフィアが心配の声を上げる。
声音はとても柔らかい。
それでも少女は、慌てて身体を縮める。
「ご、ごめ……」
「何でも謝る癖やめい。疲れるぞ」
「…………」
返事は無かった。
代わりに耳だけが、しゅん、と垂れる。
犬みたいだな……そんな場違いな感想が浮かんだ。
そして気付く___最初より距離が近い。
ほんの僅かだが、少女は逃げる体勢を取っていなかった。
逃げる力も残っていないだけかもしれない。
それでも、さっきまでの『獣みたいな怯え方』とは違う。
果実を食べ終えた少女は、掌へ残った汁まで舐め取った後、はっ、とした顔で顔を伏せた。
見られて恥ずかしい……そんな反応をする。
「……足りねぇか?」
そう訊くと、少女は反射的に首を振った。
また否定されてしまう。
ソフィアには何とか近づける、でも俺はまだ無理。そんな感じだ。
これ以上、距離を詰めるのはやめたおいた方がいいのかも知れない。
でも、その直後。
ぐぅ___っと、少女の意思とは関係なく腹の音が響き渡る。
「…………」
「…………」
「…………」
少女は固まり、耳まで真っ赤になった。
「……ぅ……ごめ、なさい……」
そしてまた謝ってしまう。
腹が減った事に対してか、食べた事に対してか、それとも、生きたいと思った事に対してか……。
俺は『次元収納』から果実と干し肉を追加で取り出し、ソフィアに渡す。
その後、少女が食べ終わるまで、空を眺めて過ごした。




