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次の日は残業しないよう急いで仕事を片付け、会社が終わると喫茶店に駆け寄った。
入店すると、「らっしゃい」と静かにコーヒーカップを磨くマスターがいた。相変わらず愛想のないマスターであった。私はカウンターの前を通り過ぎ、いつもの席へ向かった。
いつものようにコーヒーとパフェを頼むと、彼の席へと目を向けた。
今日はまだ、彼はいなかった。
無人の席を見つめながら、彼と話をする自分の姿を頭に描いてみたが、どうもうまく想像できない。そもそも私は彼の声すら聴いたことがない。セピア写真の彼は今でも動かないままなのだ。
私は思考の海に溺れていた。暗い中、見つからない出口を探しているようで、歯痒い思いをしながら泳ぎ続けた。そんな私を振り向こうともせずに彼は深海へと消えていった。
「お待たせしました」と暢気なウェイトレスの声が私を海から引き揚げた。
運ばれてきたパフェには、オレンジが乗っていなかった。毎回残していたから、店主の判断により、乗せられなかったのだろう。当然、味には変わりないが、オレンジのないパフェは味気ない感じがした。
昨日、美味しそうにオレンジを食べる美崎を思い出した。やっぱりあのとき食べていればよかったなと、取り返しのつかないことを思った。
彼はまだ来ない。
誰も座っていない席が、陽が傾くにつれ濃くなる金色の中に消えていった。
それからどれくらい経ったのか、いつの間にか窓の外は薄暗く寒々しい晴天だった。
彼は来なかった。もしかしたら、彼とはもう会えないのかもしれない。
心にぽっかりと穴が開き、そこから自分の中のすべてのものが抜け出たような気分だ。
結局、今日は帰ることにした。
店を出た後、大通りに出て、大きな交差点で信号待ちをしていると、目の前のビルの大型液晶画面に、オレンジジュースのコマーシャルが映し出されているのを見た。新しいバージョンらしく、そこに人の顔があった。最初に目に入った部分は、ぽってりとした唇だった。
それまでは人が溢れる雑踏や話し声、歩行者用信号機の音が鮮明に聞こえていたはずなのに、急に何も聞こえなくなった。全ての感覚が視力に集中し、鮮明な映像が飛び込んでくる。
あぁ、そこに――
彼がいた。
細長い指で文庫本をめくり、オレンジの皮を剥くあの彼がいた。
画面の中の彼は、地味なつなぎにオレンジの被り物をして、商品のPRをしていた。そのアンバランスさが意外にも様になっていた。
そして、何より今まで見たことのないくらいに笑顔だった。
ぼんやりとした視界の片隅で、信号機が青に変わったが、私はその場を動けなかったし動きたくなかった。
示し合わせたかのように次も彼が出てきた。ドラマの予告なのか、先ほどとは打って変わって深刻そうな表情の彼と、後姿の女が映し出された。女との熱い抱擁の後で、彼は貪るようなキスをした。そこには本当に熱があるかのようだった。
その時、私の中に実体のない活字の女が出てきて、その女優と重なった。温かい金色の中で彼に吸収される女。
私は陽の光に照らされた美味しそうなオレンジの果実ではなく、だれにも食べられずに冷たい月光にさらされた手つかずの果実なのだ。だからこそ、私はオレンジの味を知るよりも、オレンジそのものになりたかったのかもしれない。 オレンジを包むように、柔らかい唇ですべてまるごと、皮まで包んでくれる愛情が欲しかったのかもしれない。
青信号で押し寄せる人々は、ポールのような私を避けていく。皆、一瞥もくれず目的地へ向かう。
世界一美しい彼の嘘を見つめながら、自分の腕が粟立っていることがわかった。
私の体温はあの金色に一気にさらわれていった。




