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美崎とともに会社に戻って、デスクに着くと、すでに隣にいた香織が話しかけてきた。
「今日、社食に居なかったけど、美崎と一緒だったの?」
「ちょっとね。連絡もなしにごめんね」
「まぁ、なんか理由があるんならいいけど。どこ行っていたの?」
「会社前の蕎麦屋に」そう言おうとしたら、私の前のデスクの美崎が割り込んできた。
「喫茶店です! そこ私の行きつけなんですけど、落ち着いていいお店ですよ。今度みなさんで行きません?」
美崎はまるで自分だけのお店だと言わんばかりだった。喫茶店でオレンジに喰いつく彼女を思い出した。この世は素直で純情で従順、そんな女が勝つ。それが例え打算や画策によって彩られているものだったとしても。
美崎の香水のニオイが鼻を掠める。やはり私にはきついニオイだ。
「喫茶店? 会社から歩ける距離にあるの?」
「あります、あります。案内なら任せてください」
誇らしげにいう美崎。
「先輩ったらね、その喫茶店で、パフェとコーヒーしか頼まなかったんですよ」
美崎は何か人の欠点を見つけたときのような言い方をする。香織は顔をしかめて「本当に?」と私を見た。
「あんまお腹減っていなかったのよ」
「だからって、カフェインと糖質だけってアンタ。肉食いなさい、肉」
香織は私を肘で小突いた。彼女は手加減というものを知らないので、かなり痛かった。
「オレンジも食べなかったので、私がもらっちゃいました。私、フルーツ好きなんで、よかったです!」
「オレンジって皮剥くよねぇ」
突然、香織がそんなことを言うので、私は「そりゃね」と一言だけ返した。彼女は私のデスクの上にあるペン立てに視線を合わせて話していた。
「パフェグラスの上に残された皮って、随分寂しいものだと思わない?」
「何言っているんですか?」
答えない私に代わるように美崎が全く要領を得ない表情をして聞いた。
「実は必要とされて、皮は必要じゃないなんて」
「そりゃ、実は美味しいし、皮は食べられないから」
平和な回答をする美崎の方にゆっくりと視線をずらし、
「美崎はさぁ、自分がオレンジだったらどうする?」
気だるげで、それでいて心をドンっと叩かれるような、聞いているこちらの胸がつまるような口調だった。それを意に介さず美崎は明るい口調で「それって服を脱がされたらってことですか?」。その後で「きゃ、恥ずかしい」と見当はずれの答えをした。
香織はもう彼女に喋ることを諦めていた。ただ、私にはなんとなく、彼女が言わんとしていることがわかった。しかし、私に「ニクニクシイ恋」をしろと言った香織の真意までは解らなかった。
昼に行ってしまったため、さすがに帰りに寄るという気分にもならず、今日は彼との秘密の逢瀬はしないことにした。あの喫茶店の前を通り、中を伺うも、木造の閉鎖的な扉の向こうは分からない。一人、地味な女が出てきたが、扉はギィっと億劫そうな音を立てながら少し開いただけだった。
少し歩いて、四つ角に差し掛かり、今度は喫茶店の側面――彼の席の小窓が見えるところで振り返った。やはり中は伺えなかったが、ガラスには日暮れの街が映っていて、そこに斜陽が反射しており、なんとも美しい風景が箱の中に映し出されていた。小さなくたびれた窓から零れるのはまるで滴るオレンジの果汁のようで、とても眩しかった。
ふと、オレンジジュースが飲みたくなった。流行のあのジュースはどれほど甘いのだろうか。いくら飲んでも喉の渇きが満たされないほどのものだろうか。
この世ではそんな無意味な嗜好品を口にするように男女が恋をするのだ。満たされない想いを抱えて、懊悩するのを繰り返し、相手を手に入れたと思っても今度は疑念や劣情が生じ、違った形で相手を欲する。そんなループを延々繰り返すのだ。
オレンジに吸い付く彼の厚い唇を思い出した。脳裏に焼き付いたその唇はどこか私を心ごと抱いてくれるようなフワフワとした心地にしてくれた。
中学生の恋からは卒業しろと香織の声が脳内に響いた。
纏わりつく彼女の声を払うように私は走り出した。




