腕のない人形4
いつになく長いです。
ある日、会社の昼休みに喫茶店に行くと空いている席がなかった。カウンターも全て埋まっていて、テーブル席のどこかに相席するほかなかった。
「マスター、今日って何かあるんですか?」
カウンター越しのマスターに聞いてみても、素っ気無く「さぁな」と一言で返されてしまった。私は仕方なく相席する所を探した。
手前のボックス席二つはおばさんの軍団が通路を挟んで占領しているため座れない。その後ろは会社員が二人で座っているし、その横は女子大生と思しき三人組が座っていた。ボックス席を一通り辿っていくと、一番奥の窓際のボックス席の空席が目に入った。読書をしているマスクの男性が一人だけで座っていた。
「あの、すみません。ちょっと座るところが無くて、ご一緒してもいいですか?」
男性は本から目を離し、前髪のかかった目を私の方に向けると、「どうぞ」とだけ言った。風邪を引いているのか声が若干しわがれていたが、本来は十分に魅力的な声なのだろうと思った。
私は彼の斜め前に座った。すると、男性は苦しそうに咳払いをした。
「大丈夫ですか?」
「はい、ちょっと喉を枯らしたようで」
本から目を離した男性は私とは目も合わせずに、空になったパフェグラスとコーヒーカップに視線を向けていた。パフェグラスの中にはオレンジの皮だけが残っていた。ふと、彼は誰かに似ていると思った。
「あの、どこかで会ったことってないですよね?」
思わず声をかけてしまったが、彼は「さぁ。人違いでは?」と冷たく突き放すような返事をした。
「そうですか。知り合いか誰かにどことなく雰囲気が似ていると思ったので。すみません」
彼は「いえ」と簡単な返しをすると、また本の世界に浸ってしまった。私は居た堪れない気持ちを感じ、注文を取りに来たウェイトレスにナポリタンと紅茶を頼むと、ひっそり存在を無くすように座っていた。
私の携帯が鳴ったのはそんなときだった。ピピピと無機質な呼び出し音が店内に響く。周りの冷ややかな視線を一斉に浴びた。もちろん、斜め前にいる彼にも上目遣いで睨まれた。
私は急いで終話ボタンを押そうとしたが、誤って通話ボタンを押してしまった。
急いで切ろうと、電話口から大きく無遠慮な声が聞こえてきた。
「もしもしー、美崎ー? 返事してくれよー」
私を呼ぶ声。労りも愛情もない自分本位な友人のものだった。私は何も答えずにずっとその声を聞いていた。
「今日夕方暇だからさぁ、付き合ってよ。仕事終わるの何時ごろになる?」
おもちゃ箱の中にあるなかなか見つからないお気に入りの玩具を必死に探す子どものように私の名を呼ぶ。美崎、美崎。自分の名前さえもただの音に聞こえてくる。私は一人で悲しくなった。
友人とは話さないまま今度こそ終話ボタンを押した。そうだ、私は誰にも大事にされていない。誰のものではないから。私は使用頻度の高い傷付いた玩具なのだ。きっと腕や脚のとれたどんな人形よりも深く傷ついている。
私はただやりたいんじゃない。私は――。
すると、男性はいきなりフランクな口調で話しかけてきた。
「今の誰なの?」
電話の件で責め立てているようでもなく、ただ気になって聞いた風だった。
「別に。誰だっていいでしょう。あなたには関係ないです」
今度は私が素っ気無く答えたつもりが、若干声が震えた気がした。
「まぁ、そりゃそうですね。すみません、いきなり」
男性はあっさりと引いて、本の世界に戻ってしまったので、それで一旦会話は終わった。
ただ、目の前を覆う霧のようなモヤモヤはまだ私を放さなかった。モヤモヤは私の平衡感覚を奪っていくようで、次第に頭がくらくらしてきた。何か話さないといけないと思い、男性に話してしまった。
「私、寂しいのかもしれません」
「寂しい?」
「依存っていうのかな。なんていうか、お気に入りの古い玩具を捨てられない子どもなんです。で、自分も傷だらけの玩具なんです」
男性は黙っていた。中途半端な私の話に呆れてしまったのか、彼はずっと本を読んでいた。
注文したナポリタンと紅茶が来たため、彼からの返答を聞くのは諦めて、昼食を取り始めた。紅茶は少し熱めで、火傷しそうなくらいだ。
私がナポリタンを三口、四口ほど食べたところで、彼はページをめくった。
「恋は砂時計に似ている。ハートが満たされるにつれて、脳みそは空っぽになる」
「何ですそれ?」
「ジュール・ルナールの名言。聞いたことない?」
偉人に疎い私は首肯する。彼はジュール・ルナールのことは話さないで、その名言について語った。
「恋人が好き過ぎて恋人のことしか考えられないってことでしょう」
「別に、私恋人なんていないし」
「でも、愛されたいとか思っているんでしょう?」
私は何も言えずに、ぎゅっとした拳を膝の上に置いてただ虚空を見つめていた。
「結局は同じことなんじゃないんですか? 心が満たされていてもいなくても、愛に頭が支配されている」
「苦しい反面、嬉しい気持ちも湧き上がるものだけどね」と彼はまた本に視線を戻した。
「心も頭も空っぽになる。そんな愛もあるものだよ」
「もはやそれ、砂時計ではないじゃないですか」
私が指摘すると、彼は初めて笑った。
「確かに。まぁ結局は時計だから。ほら、よくあるでしょう、古い型のネジまき時計。あれと同じです。喧嘩とか失恋とか、そんなイザコザで簡単に狂ってしまうんですよ、砂時計も」
そんな正論のようなこじつけを言ってから、彼は目線を私のティーカップに落とした。「愛に喰われる人生とは、格好悪いものだな」と熱い紅茶に溶かすように言った。
「あなたには大切な人がいるんですか?」
すると、男性は目を細めて寂しそうに笑った。
「どうでしょうね」
昼下がりに優しい光が差し込んできて彼の顔を照らした。それと対照的な彼の表情は今にも消えてしまいそうなほど眩しかった。
あれ、やっぱりどこかで。私は彼の顔を見ていたが、結局誰だか判らなかった。
「さて」と誰に言うわけでもなく、彼は伝票を手に席を立った。
「新しい恋、見つかるといいですね。そのときはもちろんちゃんと決別してくださいね」
全ての感覚が鈍り、体中が熱っぽく怠く、何も考えられなかった。
ただ、覚えているのは、そこにオレンジの皮と甘酸っぱい彼の匂いが残っていたことだけだった。




