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最後のキスを忘れられないまま、あなたの娘に出会いました 〜十年越しの恋と、母を失った女の子のホットミルク〜  作者: ちょこまろ


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第4話 亡くなった人の場所

「美緒さんは、ママになるの?」


莉子のまっすぐな問いかけに、美緒はすぐ答えることができません。


悠真の妻であり、莉子の母だった彩乃。

もういない人の場所を、誰かが代わりに埋めることはできるのか。


美緒は、悠真と莉子が抱えている喪失に少しずつ触れていきます。

 ママになるの?


 莉子の問いかけは、美緒の胸に深く刺さった。


 子どもは、時々、大人がいちばん避けている場所を真っ直ぐに見つける。


 美緒は答えられなかった。


 悠真も答えなかった。


 代わりに彼は、静かに莉子の肩へ手を置いた。


「莉子、その話は今することじゃない」


「どうして?」


「美緒さんが困る」


 莉子は美緒を見た。


「困るの?」


 美緒は、少しだけ笑った。


「うん。少し困る」


「嫌だから?」


「嫌だからじゃないよ」


「じゃあ、どうして?」


 美緒は、言葉を探した。


 どうして。


 それはあまりにも難しい問いだった。


 悠真をまだ忘れていないから。


 でも、悠真の妻だった人の場所に、自分が入ることはできないから。


 莉子の母親にはなれないから。


 そして、なりたいと思ってしまう自分がいるのかもしれないことが怖いから。


 そんなことを、七歳の子に言えるはずがなかった。


「大切なことだから、すぐには答えられないの」


 美緒がそう言うと、莉子はじっと考えた。


「大切だと、すぐ答えられないの?」


「うん。たぶんね」


「ママも、そうだった」


 美緒の胸が小さく鳴った。


 悠真が莉子を見た。


「ママ、何か大切なことを言う前、いつも黙ってた」


 莉子は、まるで遠い場所を見ているような顔をした。


「それで、最後は笑ってた」


 悠真の指が、莉子の肩でわずかに動いた。


「……帰ろう」


 その日は、それ以上何も話さずに二人は帰った。


 美緒は店に残り、しばらく動けなかった。


 莉子の母親。


 悠真の妻。


 その人の存在が、急に美緒の中で輪郭を持ち始めていた。


 名前も、顔も知らない。


 けれど、莉子の髪を結び、歌を歌い、大切なことを言う前に黙って、最後は笑っていた人。


 その人は、確かに悠真と莉子の人生にいた。


 そして今も、いなくなったわけではない。


 美緒は、自分の胸に残っている十年前の恋だけを見ていたのかもしれないと思った。


 悠真に会って揺れた。


 悠真が自分を忘れていなかったと知って、苦しくなった。


 渡すつもりのものがあったと言われて、心のどこかで期待した。


 けれど、悠真の十年は、美緒の知らない十年だった。


 そこには妻がいて、娘がいて、喜びがあり、喪失があった。


 美緒の知らない愛があった。


 それを、なかったことにはできない。


 翌週、悠真と莉子はまた店に来た。


 今度は日曜日の午前だった。


 店は混んでいた。近所の家族連れや、散歩帰りの老夫婦がいて、カウンターもほとんど埋まっていた。


 美緒は忙しく動きながらも、窓際の席に座る二人を何度も見てしまった。


 莉子はホットミルクではなく、今日はフレンチトーストを頼んだ。粉砂糖をかけるかどうかを真剣に悩み、結局「少しだけ」と言った。


 悠真はコーヒー。


 本当に変わらない。


 美緒がフレンチトーストの皿を置こうとした時、少しだけ手が滑った。


「あ」


「危ない」


 悠真の手が、咄嗟に美緒の手首を支えた。


 十年前より少し大きく、少し固くなった手だった。


「大丈夫か」


「……大丈夫」


「昔から、熱いもの持つ時だけ雑なんだよ」


「十年前のこと、そんなに覚えてなくていいから」


「無理だな」


 悠真は、静かに言った。


「忘れようとして、忘れられなかったことばかりだから」


 美緒の胸が、また跳ねた。


 莉子が、二人を交互に見た。


「お父さん、今、ちょっと赤い」


「莉子」


「ほんとだもん」


 悠真は手を離し、咳払いをした。


 美緒は皿を置きながら、自分の頬も熱くなっていることに気づいていた。


 忙しさが一段落した頃、悠真が会計に来た。


「このあと、少し話せる?」


 美緒はレジの引き出しを閉めながら、店内を見た。


「あと三十分くらいしたら、少し落ち着くと思う」


「外で待ってる」


「寒いよ」


「大丈夫」


 大丈夫、という言い方も昔と同じだった。


 自分のことになると、すぐ軽く扱う。


「中で待ってて。莉子ちゃんもいるし」


 悠真は少し驚いた顔をした。


「いいのか」


「お客さんとしてなら」


「……ありがとう」


 三十分後、店が落ち着き、美緒はスタッフの真由に少しだけ任せて、奥の小さな休憩スペースに悠真を通した。莉子は窓際で絵本を読んでいる。


 休憩スペースといっても、椅子二つと小さなテーブルがあるだけだ。従業員用の棚には、予備のエプロンとコーヒー豆の袋が置いてある。


 悠真はそこに座ると、しばらく黙っていた。


「話って?」


 美緒が尋ねると、悠真は手元を見つめた。


「莉子のこと、すまない」


「この前の?」


「ああ。あの子は、母親の話になると、時々ああいう聞き方をする」


「悪いことじゃないよ」


「でも、美緒を巻き込む話じゃない」


 巻き込む。


 その言葉が少しだけ痛かった。


「奥さんは……いつ?」


 美緒は、静かに尋ねた。


 悠真は目を伏せた。


「二年前」


「……そう」


「病気だった。見つかった時には、もうかなり進んでいて」


 美緒は何も言えなかった。


「彩乃っていうんだ」


 悠真が言った。


「明るい人だった。俺とは全然違う。よく笑って、よく喋って、莉子の前ではいつも歌ってた」


 莉子の言葉と重なる。


 歌が上手。


 髪を結ぶのが上手。


 大切なことを言う前に黙って、最後は笑う人。


「いい人だったんだね」


「ああ」


 悠真は迷わず頷いた。


 その頷きに、美緒の胸は苦しくなった。


 悠真は、妻を愛していた。


 それがわかった。


 わかって当然なのに、心のどこかが痛んだ。


 自分でも嫌になる。


 亡くなった人に嫉妬するなんて、最低だ。


 美緒は手を握りしめた。


「美緒」


 悠真が名前を呼んだ。


「俺は、君に会いに来るべきじゃなかったのかもしれない」


 美緒は顔を上げた。


「どうして?」


「自分でも、何がしたかったのかわからない。莉子のこともある。彩乃のこともある。それなのに、君の店を見つけて、気づいたら入っていた」


「偶然じゃなかったの?」


「偶然ではない」


 悠真は正直に言った。


「日本に戻ってから、君が店をやっていることを知った。何度も来ようとして、やめた」


「どうして来たの?」


「莉子が、笑わなくなった」


 美緒は黙った。


「何をしても駄目だった。医者にも相談した。学校の先生とも話した。時間をかけるしかないと言われた。でも、俺にはどうすればいいのかわからなかった」


「それで、私?」


「君ならどうにかしてくれると思ったわけじゃない。ただ……君の店なら、莉子が少し息をしやすいかもしれないと思った」


 美緒は、胸の奥が熱くなった。


 嬉しいような、苦しいような、どうしようもない感情だった。


「ずるいよ」


 思わず言ってしまった。


 悠真は顔を上げた。


「ずるい?」


「そんなふうに言われたら、追い返せない」


「追い返していい」


「できないって、わかってるくせに」


 美緒の声が少し震えた。


「悠真は昔からそう。自分は何も求めてない顔をして、こっちが放っておけないところに立つ」


「そんなつもりは……」


「わかってる。だから余計にずるい」


 悠真は黙った。


 美緒は息を整えた。


「ごめん。言い過ぎた」


「いや」


 悠真は首を横に振った。


「言われても仕方ない」


 沈黙が落ちた。


 休憩スペースの外から、真由の「ありがとうございました」という明るい声が聞こえた。


 美緒は、ゆっくりと言った。


「私は、莉子ちゃんのママにはなれない」


「ああ」


「奥さんの代わりにもなれない」


「わかってる」


「でも、莉子ちゃんがここでホットミルクを飲むくらいなら、いつでも来ていい」


 悠真の目が揺れた。


「……ありがとう」


「ただし、ひとりでは来させないで」


「ああ。約束する」


 それで話は終わるはずだった。


 終わらせるべきだった。


 でも、美緒は聞いてしまった。


「悠真は、どうして私を忘れなかったの?」


 悠真は静かに美緒を見た。


 その目に、十年前の青年と、今の父親と、妻を亡くした男の人が重なっていた。


「忘れたつもりだった」


「うん」


「彩乃を愛していた。嘘じゃない」


「……うん」


「莉子が生まれた時、この人たちを守って生きるんだと思った。それも嘘じゃない」


「うん」


「でも、君のことを思い出さない日があったかと言われたら、嘘になる」


 美緒は息を止めた。


 悠真は、苦しそうに言った。


「君を忘れたことはない。でも、妻を愛していなかったわけじゃない」


 その言葉で、美緒は初めて気づいた。


 この恋には、もう一人、傷つけてはいけない人がいる。


 亡くなってなお、悠真と莉子の中に生き続けている人がいる。


 美緒は、何も言えなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、悠真の亡き妻・彩乃の存在が少しずつ見えてくる回でした。


美緒は莉子の母親にはなれない。

彩乃の代わりにもなれない。


それでも、莉子がホットミルクを飲んで少し息をつける場所にはなれるかもしれない。


そして悠真が口にした、

「君を忘れたことはない。でも、妻を愛していなかったわけじゃない」


この言葉が、美緒の心をさらに揺らしていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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