第3話 声を出して笑わない子
十年前、悠真が美緒に渡そうとしていたもの。
その答えを知る前に、今度は悠真の娘・莉子がひとりでカフェにやって来ます。
母を亡くしてから、声を出して笑わなくなった女の子。
彼女が美緒の店に来た理由とは――。
あの日、俺は君に渡すつもりのものがあった。
その言葉は、夜になっても美緒の中で消えなかった。
閉店後、店の照明を落としても、レジを締めても、床を掃いても、悠真の声だけが耳の奥に残っていた。
渡すつもりのもの。
それが何だったのか、美緒は考えないようにした。
考えたところで、十年前には戻れない。
彼には娘がいる。
きっと妻もいた。
今さら知ったところで、どうすることもできない。
そう思っているのに、心は勝手に続きを想像してしまう。
指輪。
手紙。
鍵。
未来の約束。
そのどれであっても、知るのが怖かった。
翌日、悠真は来なかった。
その次の日も来なかった。
美緒は少しほっとして、少し落ち込んだ。
何を期待しているのだろう。
もう十年も前に終わった恋なのに。
三日後の午後、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、悠真ではなかった。
莉子だった。
ひとりだった。
美緒は驚いて、カウンターから出た。
「莉子ちゃん?」
莉子は店の入口に立ったまま、両手で小さなリュックの紐を握っていた。
「お父さんは?」
「仕事」
「ひとりで来たの?」
莉子は首を横に振った。
「おばあちゃんと商店街に来た」
「おばあちゃん?」
「お父さんのお母さん。今、お肉屋さんにいる」
「そこから抜けて来たの?」
莉子は少しだけ目をそらした。
「すぐ戻る」
美緒は、叱るべきか、座らせるべきか、悠真の母親を探しに行くべきか迷った。
七歳の子どもがひとりで店に入ってきたことに変わりはない。
けれど、莉子は何かに背中を押されるようにここへ来た顔をしていた。
「とりあえず、座って。外で立ってるよりはいいから」
莉子は素直に窓際の席に座った。
「ホットミルク?」
「うん」
「今日は、おばあちゃんに内緒で来たから、サービスはできないよ」
莉子は少し考えてから、リュックのポケットを探った。小さながま口財布を取り出して、百円玉を数枚テーブルに並べる。
「足りる?」
美緒は胸が少し痛くなった。
「足りるよ。今日は特別サイズにしよう」
「特別?」
「小学生のこっそり来店サイズ」
莉子は、それがおもしろいのかどうか判断しかねる顔をした。
美緒はホットミルクを作りながら、店の外に視線を向けた。窓からは商店街の入り口が少し見える。莉子の祖母らしき人は見当たらない。
まずは落ち着かせてから、一緒に探しに行こう。
マグカップを運ぶと、莉子は前と同じように両手で包んだ。
「熱くない?」
「うん」
少し飲んでから、莉子はぽつりと言った。
「お父さん、昨日、泣いてた」
美緒の手が止まった。
「……そう」
「泣いてたっていうか、泣きそうだった」
「莉子ちゃんは、よく見てるんだね」
「だって、お父さん、すぐ隠すから」
美緒は莉子の向かいに座った。
客は他にいなかった。
「莉子ちゃんは、どうしてここに来たの?」
莉子はカップの中を見つめた。
「お父さんが、ここに来たあと、少しだけ普通になったから」
「普通?」
「ずっと、普通じゃなかった」
美緒は黙って聞いた。
「ママがいなくなってから、お父さん、笑うけど、笑ってない」
その言葉は、七歳の子どもが言うにはあまりにも静かだった。
美緒は、莉子の母親のことをまだ何も知らない。
けれど「いなくなった」という言い方で、だいたいわかってしまった。
亡くなったのだ。
悠真の妻は、もういない。
「莉子ちゃんのママは、どんな人だった?」
尋ねていいのか迷ったが、莉子が自分から話し始めたのだから、聞いてもいいのかもしれないと思った。
莉子はしばらく黙った。
「やさしい」
「うん」
「歌が上手」
「うん」
「朝、髪を結ぶのが上手」
「うん」
「でも、もういない」
その最後の一言だけ、声がほんの少し硬くなった。
美緒は、胸の奥が締めつけられるようだった。
莉子は泣かなかった。
泣かないことに慣れすぎている子の顔だった。
「……そっか」
美緒は、それしか言えなかった。
慰めの言葉は、簡単に口にできなかった。
大丈夫だよ、と言うには、莉子は大丈夫ではなさそうだった。
時間が解決するよ、と言うには、時間は時々、傷をそのままの形で固めてしまうことを美緒も知っていた。
「美緒さん」
莉子が名前を呼んだ。
初めてだった。
「何?」
「お父さんのこと、好きだったの?」
美緒は息を呑んだ。
子どもは、まっすぐ聞いてくる。
大人が何年も隠してきたものを、何のためらいもなく指で触れる。
「……好きだったよ」
美緒は嘘をつかなかった。
「今は?」
美緒は答えられなかった。
莉子はじっと待っている。
その瞳が悠真に似ていて、美緒は苦しくなった。
「今は、まだわからない」
「わからないの?」
「うん。大人も、わからないことがあるの」
「大人なのに?」
「大人だから、わからないこともある」
莉子は少しだけ眉を寄せた。
納得していないようだった。
「お父さんはね」
「うん」
「美緒さんと話すときだけ、声が小さくなる」
美緒はカップを拭く手を止めた。
「小さく?」
「うん」
莉子はマグカップを両手で包んだまま、少し考えた。
「大事なものを落とさないようにしてるみたい」
美緒は何も言えなかった。
七歳の子どもに、どうしてそんなところまで見えてしまうのだろう。
その時、ドアベルが勢いよく鳴った。
悠真が入ってきた。
息が少し上がっている。
「莉子!」
莉子はびくっと肩を揺らした。
悠真の後ろには、上品なグレーのコートを着た女性が立っていた。おそらく悠真の母親だろう。顔色を失っている。
悠真は店内を見渡し、美緒と莉子の姿を確認して、深く息を吐いた。
「……よかった」
怒鳴らなかった。
けれど、その声には本物の恐怖が混じっていた。
悠真は莉子の席まで来て、膝をつく。
「ひとりで離れたら駄目だ」
「すぐ戻るつもりだった」
「すぐでも駄目だ。莉子に何かあったら、俺は……」
そこで言葉が切れた。
悠真の手が震えているのを、美緒は見た。
莉子も見ていた。
そして、初めて少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
悠真は莉子を抱きしめた。
莉子は抵抗しなかった。
ただ、小さな手で悠真のコートを握った。
美緒はその光景を見て、胸の奥が熱くなった。
この二人は、失った人の形を抱えたまま生きている。
悠真は妻を失った。
莉子は母を失った。
そして美緒は、十年前の悠真を失ったまま、ここにいる。
それぞれ違う喪失なのに、どこか似ていた。
悠真は莉子から少し体を離し、美緒を見た。
「ごめん。迷惑かけた」
「迷惑じゃないよ。びっくりはしたけど」
「本当にすまない」
「大丈夫。ちゃんとホットミルク代も払ってくれたし」
美緒がそう言うと、莉子が小さく財布を握った。
悠真は困ったように笑った。
その笑顔は、十年前よりもずっと寂しかった。
「莉子、帰ろう」
莉子は頷いた。
けれど立ち上がる前に、美緒を見た。
「また来てもいい?」
美緒は悠真の方を見た。
悠真は少し迷ってから、頷いた。
「今度は、俺と一緒に」
莉子は小さく頷いた。
「美緒さん」
「うん?」
莉子は、ホットミルクのマグカップを両手で包んだまま、まっすぐ美緒を見た。
「美緒さんは、ママになるの?」
悠真の顔が強張った。
美緒は、何も答えられなかった。
莉子の瞳は、ただ答えを待っていた。
春の陽射しが、テーブルの上で静かに揺れていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、悠真の娘・莉子が少しだけ心の中を見せる回でした。
母を亡くしてから、笑うことができなくなった莉子。
そして、父である悠真もまた、平気なふりをしながら傷を抱えています。
そんな莉子が美緒に尋ねた、
「美緒さんは、ママになるの?」
この問いに、美緒はどう向き合うのか。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




